初めてあの人を見たのは、雨の降る朝だった。
とても背が高くて、雨に濡れるのも構わずゆったりと歩いていく姿。
できる事と言えば、ただ彼が通りかかるのを待って、じっとしているだけ。通りすぎる瞬間に身を震わせてみても、気づかれる事さえない。
しかし、それでもよかったのだ。
あの日、彼が傘を差しかけてくれた日までは。
天の恵みは、ふりそそぐ雨。
彼にとっては、命の水。
身を潤す彼に、赤い傘が差しかけられた。
『嬢ちゃん、あんまり雨に濡れると体に毒だぜ』
赤く染まった天蓋の下、眩しいまでの笑顔。
まるでおひさまのよう、と彼は思った。
そうして彼は、身のほど知らずの恋に落ちた。
あの人に花を贈ったのは、少しでも側にいたかったから。
それは彼の命を削ぐ行為だったけれど。
自分の身を折り取っては、彼に贈る。
そうして彼の身のまわりを、自分でいっぱいにしたかった。
そしてあの人は、自分の訪れを受け入れてくれた。
そして、いつも雨の夜にばかりやってくる自分に、あの赤い傘を貸してくれるのだ。
彼が恐れていたのは、「何をしにきたのか」と問われる事。
最初の夜も、そうだった。傘を返す、という名目でしかやってこれなかった自分。
傘を借りれば、あの人の家を訪れるいいわけができる。
そして帰りには、雨が降っているから、また傘を借りて帰るのだ。
そのようにして彼は、彼にとって一番不必要な傘という道具にすがっていた。
雨の力を借りてしかヒトの姿を取る事のできない彼は、雨の夜ばかりを強く願った。
雨が降れば、あの人に会える。
あの人はまるで、おてんとうさまのよう。
澄みきった空のように笑う。
あの人は、彼にはあまり馴染みのない青い空や太陽の光を思わせた。
だからこんなに惹かれるのだろうか。
でも彼は気付くべきだったのだ、自分にとって強い日の光は、命取りになるということを。
あの人は、人間らしくない自分の事を、不審に思っているようだった。
彼は言葉をしらない。声を出す事もできない。そして、人間のような性別さえない。
あの人はきっとそのうち、気味悪がって遠ざけようとするだろう。
その事を思うと、彼は胸が張り裂けそうなほど痛んだ。
この中には、雨の水が巡っているだけだというのに。
だからあの人が抱き締めてくれた時、彼はとても驚いた。
そしてあの人が与えてくれたものは、大地から自由な生き物たちだけが持ちうる悦びだった。深くあの人と繋がった時、彼は歓喜のあまり涙を零した。自分が望んでいたのは、あの人とひとつになること。この身には持ちうるはずのなかった幸せを、彼が与えてくれたのだった。
しかしあの人は自分の事を知りたがる。あの人に嘘をつきたくない。でも、正体を知られるわけにはいかなかった。彼はただ、うつむいて首を振るばかり。
そして、盛りのとき。
鮮やかに咲き誇る自らに、同時におしまいの時も見とおしてしまう。
花の命は短い。梅雨の終りとともに、彼の命もおしまいだった。
今日はあの人の側にいられる。でも明日は?明後日は?
約束を望む彼に、なにひとつ応える事ができない。
彼は自分の身を恨み、静かに泣いた。
涙の訳を知らないあの人は、ただうろたえるばかり。
そしてその涙も、人間のように塩辛くはなくて、雨の水と同じなのだった。
『ずっと側にいてほしい』
その言葉は、彼が最も欲しがり、同時にもっとも恐れていた言葉だった。
自分と同じ気持ちに彼もいてほしい。
でも、その望みはけして叶えられないものなのだ。
飛びまわりたいほどの喜びと、泣き叫びたいほどの悲しみとが、同時に彼のか細い体を襲った。
そんな激しい感情は今までの彼には知らなかったもの。彼と同じ種族のものは持ち得ないものだった。
ずっと側にいたい、苦しいほどの願い。
しかし、絶対に叶えられない望み。
彼の言ってくれた言葉は、信じた。きっと彼も自分を望んでくれている。
でもそれは、今の自分だから。
これからの自分は、枯れ衰えていくばかりだ。
醜くなっていくこの先は?
醜く枯れ、あの人に嫌われて消えたくない。
もう残された時間も多くはない。ならばいっそこのまま、二度とあの人に会わければ、あの人の心の中でずっと綺麗なままいられる。
もう、あの人には会うまい。
そうして彼は、あの人の部屋を訪れるのをやめた。
しかし、もう会うまいと心に誓いながら、揺れる彼の心は、あの赤い傘を持ちかえらせていた。
そして数日が過ぎた。
盛りを過ぎた花は、あっというまに枯れ始める。
ひとつ、またひとつ力を失い、縮んでいく花びら。
そして、心の中でどんどんと大きくなっていく思い。
それはただ、会いたい、という事だけ。
あの人に会いたい。会って、あの長い腕に包まれ、あの胸に耳をつけて心臓の音を聞き、深くひとつにつながり、背中に腕を回し抱き締めたい。
会いたい、会いたい。
最後に、もう一度だけ。
残された時は、もうほとんどなかった。体から力が抜けていく。
ヒトの姿を保つ事は、ひどく彼の力を消耗させたが、彼に会いたいという思いが勝った。
一心にただ、あの人のもとへ。
一足進む度に、気が遠くなるほどの苦しみが襲う。
地に根を下ろして生きる事をさだめとされた自分が、身のほど知らずにもおてんとうさまに恋をしたから。
でもあの人に向かう心を、どうする事もできない。
この苦しみは罰なのかもしれない。それでもいい、最後にただひとめ、彼に会いたかった。
長い長い道のりを乗り越えて、あの人のもとへ。
やっとの事で辿りついた頃には、彼の意識はほとんど気力だけで持っていた。
いつものように障子を開いて迎えてくれたあの人の腕へ、倒れ込む。
「どうした、具合が悪いのか?」
必死で笑顔を取り繕うが、彼を誤魔化す事はできない。明かに、自分は死に瀕していた。
ああ、でも、自分は彼の腕の中で死ねるのだ。
とても自分勝手だとは思ったけれど、それでも、今はもうそれだけが救いだった。
醜くなってしまった自分を見られてしまった。
明日になれば、きっと彼は自分の正体も知るだろう。
隠す事は、もう何もない。
自分に残ったのはただ、彼に対する思いだけだ。
だから、最後のわがままを、もうひとつだけ。
忘れないで、なんてとても言えないけれど、一年に一度でいいから、紫陽花の花が咲いたら、 ほんの少しだけ思い出して欲しかった。
人間に恋した、哀れな花の事を。
彼が好きだなんて、彼とずっと一緒にいたいだなんて、何という思いあがりだったのだろう。
でも彼に抱かれて死ねるのだから、この身には過ぎた死に様だった。
意識が遠のいていく。あの人の顔ももう、霞んで見えない。
『左之、』
最後に呼んだ声は、彼に届いただろうか。
そうして紫陽花の恋は、梅雨の終りとともに、終わったのだった。
終劇
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