BAD DOG NO BISCUIT

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 緋村剣心は嵐の夜道、車を走らせていた。
 台風のために、都内の広範囲で停電が起こっていた。剣心の小さな花屋には、剣心が丹精込めて育てている花たちの温室がある。微妙な温度調節を要する繊細な花たちのことを心配した剣心は、嵐の中自宅から10分ほどの場所にある仕事場まで様子を見に行ったのだ。
 幸い停電は2時間ほどで復旧し、持ち込んだ氷の応急処置もあって全く問題なかった。安堵した剣心は激しい風が悲鳴をあげる中帰途についたのだった。
 ワイパーが役に立たないほどの勢いで大粒の雨は風に煽られフロントガラスに激突する。強風にさまざまなものが宙を舞い、切れた電線が垂れ下がって青い火花を散らしている。道路は水が溢れ、足首まで浸かるほどだ。
 剣心は不安な、それでいてどこか高揚するものを感じながら車を走らせる。ライトで見えるのはほんの数メートル先だけだ。窓の外には暗闇が広がっている。
 ふと、剣心の視界に何かが飛び込んできた。スポットライトに照らされた先に、何かがわだかまっている。
 剣心は慌ててブレーキを引いた。タイヤと地面が激しく擦れる音が響く。水を跳ね上げながら、何とかその前で止まることができた。
「なに・・・?」
 剣心は目を凝らした。
 多分、どこかから風で飛ばされてきたものだろう、と思いながらも何故かそれが気になってしょうがない。じっと観察する。
「動物・・・?」
 すっかり汚れているのでよく分からないが、きっと飛び出してきて車に轢かれたのだ。
「かわいそうに・・・」
 そうつぶやく。きっともう死んでしまっているに違いない。嵐が過ぎたら、誰かが片付けるだろう。
 しかし、剣心はその場を立ち去ることができなかった。嵐の夜に車に轢き逃げられ、翌朝悲惨な遺体を晒す。その死はあまりに惨めに思われた。せめて自分の手で葬ってやろう、そう思って剣心は雨と風の吹き付ける車の外に出た。
 それに走り寄る。近くでみると、それは大きな犬だった。猫ではなく、こんな大きな犬が轢かれるなんて、と不思議に思う。そっとそれに手を伸ばした。
 その時。なんとそれは微かに頭をあげると、喉の奥から唸り声を発したのだ。
「生きてるのか・・・!」
 慌てて剣心は手を伸ばす。しかし 犬は警戒心もあらわに、 必死で頭を持ち上げて唸りを絞り出す。金色に輝く鋭い瞳は渾身の力を込めて剣心を射抜いた。剣心は迫力に圧されながらも優しく語りかけて警戒を解こうとする。
「痛むだろう?でももうだいじょうぶ。さあ、」
 犬は必死に剣心を威嚇しようとしたが、もう力が尽きかけていた。青と灰色の気高い瞳は焦点がぶれ、切れるようにがっくりと意識を失った。
 剣心はやっとそれの身体に触れることを許される。 犬は右前足の付け根に酷い傷を負い、多量に出血していた。必死でそれを抱えあげる。大きさも重さも、小学生の子供くらいあるのだ。息をはずませ、ずぶぬれになりながら車の後部座席に乗せる。都合よく、氷を包むのに使っていたバスタオルがあったので身体をくるんでやった。
「早く、病院に連れていかないと・・・」
  犬はもうピクリとも動かない。一刻を争う事態であることは、剣心の目から見ても明らかだった。しかも時刻はかなり遅い。診てくれる病院があるだろうか。
 焦る脳裏に、ふとある看板が浮かんだ。
 そうだ、ここから数キロの場所に、動物病院の看板があったはずだ。診てくれるかどうかはわからないが、とりあえず連れて行こう。
 剣心はおぼろげな記憶を頼りに、アクセルを踏み込んだ。

 十分後、剣心は吹きすさぶ嵐の中インターフォンを鳴らしていた。
 『はい』
 しばらく待った後、返事があった。
「遅くにすみません。実は怪我をした犬を拾いまして・・・かなり悪い状態なんです。どうか診てやってください。お願いします」
『今、参りますのでお待ちください』
 数分後、動物病院の玄関に明かりがつき、ひとりの老人が姿を現した。
「夜遅くにすみません!でも・・・とても危険な状態なんです。診ていただけませんか!?」
 必死に頭をさげる剣心に、老人は少し困った顔をしてみせた。
「実は今、孫が熱を出したもんで誰もおらんのですよ」
「えっ・・・」
 一瞬にして目の前が暗くなる。これからまた別の病院を探している時間はないだろう。剣心は絶望的な気持ちになった。
「ですがこの爺さんでよければ、診させていただきますよ」
「ほ・・・本当ですか!?」
「わしゃもう隠居の身でね。息子に任せて今はもう引退しとります。それでもいいですかね」
「も、もちろんです!お願いします・・・」
「誰もおらんもんで、 あんたにも手伝ってもらわにゃならんが」
「もちろんです!」
 剣心は大きくうなずいた。
「あの、車に乗せてますので連れてきます!よろしくお願いします!」
 剣心はそう叫ぶと車へと走り戻る。ぐったりと身を横たえている 犬を抱き上げた。
「頑張れ!今、お医者さんが診てくれるからな!」

 数時間後。
 とにかく打てる手は全て打ち、治療は終了した。犬は体中傷だらけだったが、一番酷いのはやはり右足付け根の傷だった。老人はできる限りの手を尽くし、剣心も戸惑いながらも手助けした。ふたりとも、この大きな犬を救おうと必死だったのだ。まるで外の嵐そのままのような時間が過ぎ、剣心は犬の入れられたケージを前に立ち尽くしていた。
「お疲れさん」
 老人が暖かいコーヒーを手渡してくれる。剣心は礼を言って受け取った。
「先生・・・この犬、大丈夫でしょうか」
 剣心は心配そうにケージの中を見つめる。
「わたしらにできることは全部やったよ。後はやっこさんの生命力にかかっとる。さあ、あんたも疲れたろう。風も少し落ち着いてきたようだし、それを飲んだらお帰りなさい」
「でも・・・」
「犬よりあんたが参ってはいかん。また連絡するから」
 その言葉に促されて、剣心は連絡先のメモを残して病院を後にした。
 風は収まってきていたが、雨はまだ強い。今日は店を閉めることにして、剣心は熱いシャワーを浴びるとベッドに横になった。
身体はくたくたに疲れきっていたが、頭の芯が冴えてしまっている。残してきた犬のことが気になってしようがなかった。
 あの、意志の強い瞳。死に瀕しながら何者にも屈しない気高さ。その姿に剣心は自分自身の孤独を投影していた。
 幼い頃に両親と死に別れ、その後陶芸家の叔父に引き取られた剣心には、なぜか叔父に引き取られる以前の記憶がない。叔父の比古は厳しい人で、子供の剣心にも甘えることを許さなかった。剣心も、比古に子供らしい素振りを見せることはなかった。
 誰も寄せ付けない瞳。きっと自分も、同じような目をしていたのではないだろうか。
 死ぬな。あんな瞳しか知らないままで、死なないでくれ。
 剣心は祈るように思った。

 その日の夕方。剣心の携帯がなった。
 慌てて飛びつき、通話ボタンを押す。
「はい・・・!」
「緋村さんですか?こちら小国動物病院ですが、」
「は、はい!あの、犬に何か・・・」
「ええ、先ほど目を覚ましたんですよ。」
「本当ですか・・・!あの、すぐ、すぐそちらにうかがいます!」
 最後まで聞かずに剣心は車のキーをつかみ、家を飛び出した。

 剣心はケージに取り付くようにして犬を見つめていた。
 犬は、頼りない呼吸を繰り返しながらも気丈に目を見開いていた。ブルーシルバーの瞳がケージの中できらめいている。身体のいたるところには白い包帯が巻いてある。
「わざわざお越しにならなくてもよろしかったのに」
 息を切らしてやってきた剣心に助手らしき女性が苦笑した。
「よかった・・・」
 剣心は、犬の様子をみて安堵した。
「まだ安心はできませんが、とりあえずよかった。たいした生命力ですよ、この犬は。この調子なら、一ヵ月後には走り回れるようになるでしょう。」
 治療にあたってくれた老人の息子である獣医師が剣心の横でうなずいた。
「しかし、ちょっと奇妙だよ。緋村さんはひき逃げされたようだとおっしゃっていたが、轢かれたというより噛み付かれたような傷だった。随分痩せているし・・・」
 老人が後ろから会話に加わる。
「大型犬種を飼ったはいいものの、大きくなって持て余して捨てる困った飼い主も多いんですよ。首輪もないし、恐らく捨てられたんでしょう。しかしこんな大きな犬と喧嘩して大怪我を負わせるとはどんな動物だか・・・大体最近大型の野良の噂なんて聞いてませんし」
 獣医師が怒りと困惑をあらわにして言う。
「あの・・・」
 剣心が遠慮がちに言葉を発した。
「あの・・・、犬のことは私何もわからないんですが・・・飼い主探しってどうすればいいんでしょうか?」
「動物愛護相談センターに問い合わせればわかりますよ。」
「・・・あの・・・もし、もし飼い主が見つからなかったら、この犬、私が引き取ってもいいんでしょうか?」
 犬は、ギラギラと光る眼をじっと剣心に注いでいる。
「ええ、それはもちろん。警察に届けを出せば半年後には緋村さんのものになります。でも経験なしで大型の成犬を引き取るのは色々と大変ですよ。他のお客さんの手前内緒にしていただきたいのですが、シベリアンハスキーの愛好家サークルに知り合いがいますから、ご紹介できますし。今は痩せてますが骨格もしっかりしてるし、立派な純血種です。じっくりさがせば里親はきっと見つかるでしょう。色んな方法がありますから、慌てて決めずによく考えてからでもいいんですよ?」
 獣医師は剣心を安心させるようにやさしく微笑んでみせた。
「いえ、もしできるなら・・・この犬は私が連れて行きます」
 剣心はまっすぐにその視線を受け止めながら、はっきりと言い切った。

 それから、犬を迎えるための準備が始まった。
 剣心の家は都内の閑静な住宅地の一角にある白いタイル張りの低層マンションだ。広々としたLDKが特徴的な間取りの3LDKに一人で住んでいる。犬を飼ったことのない身でいきなり大型の成犬を飼うことになり不安もあったが、幸いマンションはペット可だった。犬の飼い方を記した本を買い込み、物置になっていた一部屋を整理し、そこを犬の部屋にした。家の中では放し飼いにするつもりだ。他にも専用のトイレや首輪、リードや食器に始まりブラシやおもちゃまで こまごまと買い揃えていった。それにあわせて、まだ入院中の犬を毎日見舞い、すぐに動き回ろうとするせいで狭いケージに入れられて窮屈そうにしている犬に声をかけてスキンシップを図った。初めは唸り声を上げて指一本触らせなかったのだが、めげずに優しい声をかけ続けた剣心に少しずつだが慣れ始めたようで、首や腹を触らせるようになってきた。同時にハスキーを探している飼い主がいないか 動物愛護相談センターに問い合わせもしたが、該当する飼い主は見つからなかった。
 そして嵐の夜から一週間後。獣医師から退院の許可が出た。
「しばらく包帯は外せませんし激しい運動はいけませんが、これ以上この大物がここに閉じ込められているのも辛いでしょう。緋村さんの方の準備も整われたようですし」
「はい。ありがとうございます」
「次は抜糸に来てくださいね。何か困ったことがあったら、いつでもご連絡ください」
 剣心は丁寧に礼を述べ、頭をさげた。
「本当にお世話になりました。これからもまた、よろしくお願いします」
「でもあなたが引き取ると聞いた時には驚きました。犬を飼ったことがないのに、いきなり大型の成犬はどうかと正直心配だったんですが、緋村さんだったら大丈夫ですよ。きっとそのうちこの子も緋村さんを家族と思ってくれるでしょう。名前は決まりましたか?」
「いえ、まだなんです。いくつか考えてはいるんですが・・・」
「はは、そうですか。おい、次に会うときには名前で呼んでやるから、いい名前つけてもらえよ」
 獣医師は笑いながら犬に声をかけた。
 そして少し安くしてもらった治療費を支払い、大きなシベリアンハスキーと小柄な剣心は、スタッフ全員に見送られて病院を後にした。
「よかったよな、いい人が拾ってくれて」
「そうね。でもちょっと残念なんじゃない?」
 病院では助手を務める獣医師の妻は言った。
「もう緋村さん毎日来なくなるものねえ。」
「なっ、何を言うんだ・・!」
 赤く染まった顔を隠すように慌てて背を向ける彼に、彼女は少し意地悪そうに笑って言った。
「そう?私は残念。」
 剣心の車を見送りながらつぶやく。
「でも、あの犬なんだかちょっと不思議なところあったわよね。本当にこれからうまくいくといいわね、緋村さん」

「今日からここがおまえと俺の家だよ」
 剣心は扉を開けて犬に語りかけた。剣心に促されて辺りを見回しながら犬は玄関をくぐる。どこか所在無げに剣心を見上げるのがおかしくて、くすりと笑いをもらした。
「ここが今日からおまえの家だけど、俺はお前を飼うつもりじゃないよ」
 犬はまるで剣心の言葉に驚いたように眼をしばたたき、剣心を見つめる。
「俺はずっとひとりだったから・・・一緒に暮らす人が欲しかったんだ。だからおまえは今日から俺の同居人、だよ。おまえは野良犬だったんだよな。きっと色々あったと思うけど・・・もしここで暮らすのが合わないようなら、おまえにとって最善の方法を考えるから」
 そう言ってから、剣心はふと自分の様子にきづいて苦笑した。
「おまえに話しかけても、わかるはずないのにな。・・・何故かちゃんと言葉がわかって聞いている気がしてしまう・・・不思議だな」
 剣心はそう呟きながら冷蔵庫へと歩いていく。
「早く名前を決めないとな。色々考えてるんだ。前は何て呼ばれてたのかわからないから、新しい名前を覚えるのも大変かもしれないけど・・・」
 独り言のようにぶつぶつ言いながら考え込む。冷蔵庫に貼り付けていた「名前候補リスト」を手に取った。
「かっこいい名前がいいと思うんだ。おまえはオスだし、身体も大きいし・・・ほら、顔の模様が歌舞伎の隈取りみたいだから・・・やっぱり『梅王丸』かなあ。『菅原伝授手習鑑』の車引っていう演目に出てくるんだ。正義漢だし、荒事だし、ぴったりだと・・・」
 その時、低い唸り声と不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「勝手に俺の名前つけてんじゃねぇよ。俺には相楽左之助、ってぇ立派な名前があるんだ」
 剣心は驚いて後ろを振り返る。
 はたして、そこに連れ帰ったはずの犬の姿はなく。
 なんと、全裸の男がソファーにふんぞりかえっていたのである。男は不機嫌そうな声に反して唇の端を愉快そうにあげていて、そこから鋭い犬歯がのぞいていた。
 剣心は飛び上がって悲鳴をあげた。当然だ、知らない男が知らないうちに家のソファーに、それも裸でいるのである。
「だっ、誰だ、おまえ!どこから入ってきた!?」
 すると男はいかにも面倒くさそうに言った。
「うるせぇなあ、わめくなよ。大体、俺はおまえに連れてこられたんだから、その言い草はないんじゃねぇの」
「どっ、どういう意味だ!?」
「おめぇがたった今言ったんじゃねえか、今日からここが俺の家だ、ってよ」
「それは、犬に言ったことだ!大体俺の犬をどこへやった!?」
 すると男はため息をついて立ち上がった。剣心は慌てて後ずさる。
 男は少なくとも180センチはありそうな長身だったし、その身体は細身だが堅そうな筋肉にみっちりと鎧われている。剣道では腕に覚えのある剣心でも腕力では敵いそうもなかった。しかも全裸。得体が知れない者への圧倒的な恐怖がこみ上げた。
 しかし次の瞬間、剣心は我が目を疑った。
 なんと、目の前の男が身震いをしながらあっという間にハスキー犬に姿を変えたのだ。
 その時眼にした光景は、完全に剣心のキャパシティを超えていた。
 きっと自分はおかしくなってしまったのだ、と剣心は思った。そしてその状況から手っ取り早く逃避するために、意識は一切の情報をシャットダウンした。
 ばったりとひっくり返ってしまった剣心に、犬が慌てて駆け寄るのを見た後、剣心の意識は暗闇の中に吸い込まれていった。

 暖かい毛皮に包まれている。何の疑問もなく、その優しい肌触りにすがりつく。守られているという感じに、ずっと凝り固まっていた部分がゆっくりと弛緩していく。剣心は心の底から安堵のため息をついた。
 自分を包むぬくもりに手を伸ばす。それはムクムクしていて柔らかく、暖かかった。強くすがって頬擦りする。すると滑らかな舌で瞼をそっと舐められた。
「ん・・・」
 ゆっくりと意識が浮上する。
 眼を開けると、そこには大きなシベリアンハスキーの姿があった。
「あ・・・、」
 剣心はいつのまにか寝室のベッドに横になっていた。襟元が緩められ、額には冷たい濡れタオルがあてられている。
 一体、誰が。
 その時、稲妻のように先ほどの無頼な男の顔が浮かんだ。自分の顔を覗き込んでいる犬の顔と、その男の顔が何故か重なる。
「お、おまえは!」
 慌てて飛び起き、ベッドの端に身を縮めた。
 恐怖に怯えた表情を見ると、その犬は悲しそうに尻尾を垂らしてベッドを降りた。そしてブルブルと身震いをする。犬はあっという間にまたあの若い大男に変身した。
「ひっ・・・!」
「悪かったな、驚かせて。なんか・・・嬉しくてちょっと調子に乗っちまってさ。すまねぇ。世話になったな。・・・俺、もう行くわ。じゃな」
 男はそれだけ言って、また犬に戻る。だらりと垂れた尻尾が寂しげだった。
 行ってしまう。さっきまで自分を優しく包んでくれていたのは、あの尻尾だったというのに。
 ふと手に触れた濡れたタオル。あの男があててくたのだろう。
 叔父の比古に引き取られた後、熱を出してもひとりふとんに潜り込んでやり過ごしてきた。誰かに看病してもらったことなど、一度もなかった。
 部屋には、今日から暮らすつもりだった犬のためのおもちゃやリードがある。初めての「家族」を迎える日を心待ちにしてきた。そう、あの嵐の夜にこの犬に出会ってからずっと。
 あの、孤独な瞳。どこか、自分に似ていると思った。この男は、今までどのようにして生きてきたのだろう。
「・・・どこか、どこかに行くあてはあるのか?おまえの家は?」
 思わず去っていく背に声をかける。
 犬はふと立ち止まる。一瞬の後、左右に首を振った。
「ない・・・のか」
 明らかに異形の化け物。きっと虐げられてきたのだろう。属する場所も家さえも持たない彼。
 剣心は視界に入ってきた自分の髪を指ですいた。子供の頃から、この赤い髪に日本人離れした容貌、子供らしくない言動、そして両親がいないことなどで剣心はいつもどのコミュニティからも排除されてきた。
 あの時似ていると感じたのは、気のせいではなかったのだ。
 剣心は思わずベッドから飛び降り、後ろから犬に抱きついた。
「・・・ここが、」
 ぎゅっと抱きしめる。
「ここが今日からおまえの家だと、言っただろう?」
 行かないで欲しい。突然強い感情が押し寄せる。
 そうか、と剣心は悟った。拾ったのは自分。でも・・・
 その間にも、犬は剣心の腕の中で男に変化していた。
「・・・おまえは、ここで暮らすのが嫌なのか?」
「・・・いいや。おめぇが居てもいいってんなら、居てぇよ。」
「なら、ここに居ろ。」
 少し甘えた響きで、剣心は言った。
「おう。」
 彼の返事を聞いて、安堵からか瞼が熱くなった。
 しかし、落ち着いてみると裸の男に抱きついている自分、という奇妙な構図に気づいて慌てて離れる。
「あ・・・、お、お腹が空いてるだろう?何か作るよ。何がいい?」
「そんじゃ、ドッグフード以外でよろしくな」

「人狼?」
 剣心はぱちぱちと瞬きする。
「んああ。」
 男は手づかみで焼いた肉を口に押し込みながらくぐもった声で返事をした。
「見ての通り、俺たちはヒトじゃねぇし、イヌでもねぇ。人狼とか獣人とか色々呼び名はあるけど俺たちは仲間のことをただ獣(ケモノ)、って呼んでる。」
「おまえのような者が、他にもたくさんいるのか・・・!」
「まあ、数は多かねぇがな。・・・俺は、獣の種族が住む村で暮らしてたぜ。俺たちのことが人間どもにバレたらお終いだから、獣の種族のことは絶対に秘密 なんだ。でも、俺たち自身がマスターとして認めた人間ひとりだけには別だ。」
 そして左之助は口を腕で拭うと剣心の眼をまっすぐに見ながら言った。
「おまえ、俺のマスターになれ」
「え・・・?」
 剣心はあっけにとられてぽかんと口をあける。
「俺が決めた。おまえは、俺のマスターだ」
「マスター・・・?」
「一度マスターとして契約した人間は、獣が命をかけて護る。犬神になるんだ。」
「・・・マスターは、その代償に一体何を獣に返せばいいんだ?」
「マスターが与えるのは、獣への親愛の情だけでいい」
「親愛の・・・情」
「・・・契約、するか?」
 剣心は心を決めて顔を上げた。
「・・・契約する。」
「よし。じゃあ手を出せ」
 相楽左之助と名乗った獣人は、剣心の左手を取ると口に持っていく。鋭い犬歯に薬指が当てられた。
「っ・・・!?」
 ちくりと痛みが走った。同じように、左之助自身の薬指にも噛み付く。そして剣心の細い手を掴んで傷口を合わせた。互いの血が、交じり合う。
 暖かく、熱い血。
 焼けるような感覚に、剣心の手が震えた。
「これが・・・」
 純粋な、獣の血。
 左之助が厳粛な顔で剣心を見つめながら言った。
「誇り高い獣の血に誓う。俺、相楽左之助は緋村剣心をマスターとして認める。期限はおまえの命が尽きるまで、または俺の命が尽きるまでだ」
「おまえ・・・」
「相楽左之助、だ。マスターとして特別に名前で呼んでもいいぜ」
「左之助、どうして俺の名を?」
「病院で呼ばれてたろ」
「あ・・・そうか」
「剣心、ありがとな」
「え・・・?」
「まだ、ちゃんと言ってなかったよな、助けてもらった礼。」
 少し顔を赤らめ、顔をそらしながら言う。
「これから、よろしくな」
「・・・うん。こちらこそ、よろしくな、左之」
 その夜、左之助はベッドの上、剣心の足元で眠った。
 左之助は剣心の寝顔を見つめる。
 俺の、俺だけの、そしてたったひとりのマスター。
 左之助は愛しさをこめて剣心の瞼にそっと口づけた。

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