バロンの見る夢

 


 デンパザール空港。
 羽田から出発して8時間あまり、神の鳥ガルーダの名のついた飛行機に揺られてたどり着いた場所。
 ここはインドネシア、バリ島。
 入国審査を終えて荷物を受け取り、無事ゲートをくぐるとそこはもう熱帯の空気名 が流れている。バティックという染めのシャツを着た現地のガイドたちが、手に手に前を書いた紙を出てくる人たちに向ける。その団体から少し離れて所在なげに立ちつくしていると、インディゴ色に褪せたジーンズを履いたひとりの少女が遠慮がちに声をかけてきた。
「ヒムラ、ケンシンさんですか?」
 長い黒髪をそのまま無造作に垂らし、手には車のキーを持っている。浅黒い肌に、大きな黒い瞳が印象的だ。
「あ、はい。」
「ああ、よかった。初めまして。ガイドのワヤンといいます。ワヤンって、こちらの言葉で影絵の意味。でも、一番最初に生まれた子供にもワヤン、と名前をつけます。よろしく」
 そう言って少女は白い歯を見せて嬉しそうに笑った。つられて、剣心も笑みを返した。
 彼女は、旅行会社が手配してくれたガイドだ。パック旅行ではないが、慣れない海外の一人旅だからと個人的なつてで用意してくれた。パック旅行となると、どうしても他人と一緒に行動させられる上に、提携している店などへ無理矢理連れて行かれる事になる。最初から観光が組み込まれている場合も多い。気楽に行動したい場合にはあまり向かない。しかし不慣れな土地で一人動き回るのも不安だろうというので、日本語のできる人を紹介してもらったのだ。
「私は、大学生です。日本語を勉強してます。もし、どこかへ行きたい、とか、何か困った事があったらいつでも携帯電話に連絡をください。とりあえず、ホテルまでお送りします。車、こっちに置いてありますから、どうぞ」
 彼女の後について空港の建物をでると、まぶしい太陽に目を灼かれた。暑い。でも、日本の蒸し暑さとはまるで違う。べっとりと精神を蝕むような蒸し暑さはないが、日の当たる所にずっと立っている事は不可能だ。
 ワヤンの車は、日本製だった。
「日本の車は、とてもいいです。燃費もいいし、壊れない。みんな日本車に乗りたがります。バリは、観光以外の産業が何もありません。こんな車は作れない」
 そう言って首を振った。
「とりあえず、今日はクタのホテルに泊まるんでしたよね?ヒムラさんの泊まるホテルにはプライベートビーチがあるから、そこで泳げばいいです。ホテルのビーチ以外は、あまり行かない方がいいです。特に、レギャンの方のビーチは波が高くて、危ない所もありますから気をつけてくださいね。サーフィンで有名ですが、時々地元のサーファーでも流されます」
 車を走らせながら、ワヤンは色々と教えてくれた。一応ガイドブックは読んできたが、行き当たりばったりの旅だ。細かい予定はまだ立てていない。走る車の窓からは、見慣れない異国の文字と、椰子の木がたくさん見えた。
 ホテルは、全室オーシャンビューになるように海に沿って波をうつような形をした白い綺麗なところだった。ヨーロッパ調の明るいロビーでは、バイオリンの生演奏が静かに響いている。ホテルの従業員は皆、穏やかな笑みを浮かべていた。ワヤンは剣心をソファに座らせると、フロントへ行ってチェックインの手続きをしてくれている。ものの5分と経たないうちに、ワヤンはポーターをひとりつれて戻ってきた。
「チェックインできました。これが、私の携帯の番号と、朝食のチケットです。なにかあったら、いつでも電話ください。それと、これも。」
 そういって彼女は、日本のものより幾分大ぶりの携帯電話を取り出した。
「レンタルの携帯です。おひとりだと、色々不安もあるでしょうし、持っていた方が便利と思います。私の番号も登録しておきました。」
「本当にありがとう。あの、通話料とか、お金は・・・」
「大丈夫、必要経費は全部、きちんと日本の会社からいただけますから。それより・・・、」
 と、彼女は心配そうに剣心の顔をのぞきこんだ。
「ヒムラさん、折角日本から来てくれたから、私、バリの事好きになって、楽しんで欲しいです。でも、もしかして、嫌、と思う事あるかもしれない。その時は何でも言ってください。おひとりでお食事するのとか、出掛けるのがつまらないだったら、私、いつでもご一緒します。私でよかったらですけど。夜、出掛けたい時は必ず呼んでください。日本人の女の子が夜ひとりで歩くの、とても危ないです。いいですか?」
 まるで小さな子供に言い聞かせるような言葉に、剣心は思わず吹き出してしまった。
 剣心の反応に驚いて目を丸くしているワヤンに言った。
「ワヤン殿、ご心配は有り難いでござるが、拙者、女性でござらぬよ。それに、こう見えても拙者、多少武術に心得がござる。でも、ご一緒に食事していただけるというのは、願ってもないでござるよ。よろしかったら今夜にでも、いかがでござるか?」
「え・・・、女性じゃない、って、・・・。ヒムラさん、男の人だったですか?!」
「ご存じなかったでござるか?」
 彼女の驚いた顔がおかしくて、剣心はくすくすと笑った。
 一瞬後、彼女は慌てて頭をさげた。
「ごめんなさいっ。私、誤解してました。髪の赤い、女の人って聞いてたと思ってました。よく考えたら、女の人みたいな、って言っていたかもしれない。本当にごめんなさい。」
「いや、こんななりでござるから、間違われる事はしょっちゅうなので気にしていないでござるよ。それより、拙者が男でござったら、食事は無理でござろうか?」
 混乱してインドネシア語と混ざった日本語を話し、更に墓穴を掘っているのにも気付いていない彼女がかわいらしくて、剣心は笑いを禁じ得ない。
「あ、食事、OKです、それは、もちろん。」
 気を取り直して彼女は言う。
「ええと、じゃあ、7時に、このロビーで。私、おいしいところご案内します。車ででかけますけど、いいですか?」
「お任せするでござる。では、7時に、ここで。」
 それまでのおかしなやりとりを聞いていたであろうポーターは笑いもせず、ただ慎ましい微笑を浮かべるだけで聞いていなかったふりをしてくれた。トランクを手に取ると、剣心を促しながら先に立って案内する。ワヤンは、剣心がエレベーターに乗り込むまで見送ってくれた。
 部屋は、ホテルの内装と同じ、ヨーロッパ調の豪華な調度品で統一されていた。窓からは美しいターコイズブルーの海が見渡せる。彼から英語と日本語で説明を受けると、剣心は空港で換金しておいた1000ルピア札を一枚チップとして手渡した。ルピアはひどく暴落していて、今1円は80ルピア以上の価値がある。とりあえず1万円ほど換金したら、驚くほど太い札束が返されて慌てたものだった。ポーターは丁寧に礼を言うと部屋から出ていった。
 ひとりになると剣心は、ベランダへ出て海を眺める。ホテル選びも馴染みの代理店社員に任せてしまっていて、それほど豪華なホテルでなくていいと言っておいたのにひとりで泊まるのがもったいないほどなスウィートだ。出掛ける前に会った時、自分もちでないのだからこの際思いっきり贅沢しちゃえばいいのだ、と言っていた彼女の顔を思い出した。多分彼女は、自分がしたいと思っていた旅行プランを全て、剣心の旅行に詰めたに違いない。
 彼女といいワヤンといい、ありがた迷惑というか、おせっかいというか。剣心はふっと微笑をもらした。でも彼女たちが自分に楽しい思い出を作って欲しいと心から望んでくれている事はわかる。いい娘たちなのだ、どちらも。自分で積極的に望んで来た旅ではなかったが、今は思い切りこの旅を楽しもう、と剣心は思った。
 しばらく海を眺めていると、ノックの音がした。ドアを開けると、長い髪にゆるくウェーブをかけた女性が、海と同じ色のウエルカムドリンクを持って優しい微笑をたたえている。旅はもう、始まっているのだ。
 しかし剣心は、このバリという不思議な島で、自分の人生を左右する出会いがあることを、まだ知らない。今は、まだ。


 7時きっかりに姿を現したワヤンは、白いワンピースを着て少しドレスアップしていた。剣心はといえば、ジャケットも着ていなかったので慌てて部屋に取りに戻ろうとしたが、彼女が必要ないと言ったのでそのまま出掛ける事になった。彼女としては、剣心が男だと気付く人は多分いないと思ったから、ジャケットを着ていなくても大丈夫だと判断したのだったが、それは口に出す必要のない事だ。
 彼女が案内してくれたレストランは、古い洋風のお屋敷を改造したところだった。照明はすべて蝋燭の光だけ。それぞれのテーブルが、淡い光に浮かび上がっている。ふたりは、庭にある東屋のような一角に通された。他のテーブルから少し離れたその席からは、かすかな水の匂いと草の香り、そしてトッケー(鳴き蜥蜴)の鳴き声がした。
「鳴き蜥蜴の声、初めて聞いたでござる。結構、大きいのでござるな」
「そう、トッケー、トッケー、って鳴くから、トッケーっていいます。バリの家にはたくさんいる。かわいい。でもヒムラさんのいるホテルにはいません。・・・ヒムラさん、何が食べたいですか?」
 ウェイターを待たせながら、ワヤンは剣心に問いかける。
「折角でござるから、バリの料理を。後は、ワヤン殿のおすすめがあれば、それをいただくでござるよ。」
 ワヤンがウェイターにいくつか注文をすると、にっこりと頷いてメニューを受け取り下がった。しばらくして、BINTANG、とラベルのついたビールとグラスが運ばれてきた。
「ビンタン。インドネシアのビルです。乾杯しましょう!今回の旅行が、ヒムラさんにとって楽しいものとなりますように!」
「ありがとう、ワヤン殿。」
 そうしてふたりは冷えたビールのグラスを合わせた。
「今日は、バリの代表的な料理を注文しました。バリの宗教はバリヒンズーです。ヒンズー教にもとからあった信仰がミックスされて、バリヒンズー、という少し変わった宗教ができました。インドのヒンズー教と違って、バリヒンズーは食べ物にダメな事が少ないです。牛も食べます。でも、正直あまり美味しくないかも。やっぱり、チキンの料理が一番おすすめ。」
 そうして話しているうちに、次々と料理がテーブルに運ばれ始めた。
「これはナシ・ゴレン、炒飯です。ナシ、がご飯の意味、ゴレン、が炒める、の意味。上に乗っているのは、クルプック、海老せんべいとアチャール、お漬物。目玉焼き付きですね。こっちは、ミー・ゴレン。ミー、が麺の意味です。焼きそばですね。このスープは、ソト・アヤム、香辛料がたっぷり入った鳥のスープです。器に好きな具を入れてください。サラダはガド・ガド。茹でた野菜とゆで卵、揚げ豆腐の上にピーナツソースがかかってます。そして、この串焼きがサテ。バリ風のサテは、ミンチにしたお肉に香辛料とココナッツフレークを混ぜて作ります。これは鳥と豚と牛ですが、田舎の市場なんかではカタツムリとか、時々犬の肉もあるんですよ。お祭りの時には、ウミガメのサテを作ったりします。さあ、どうぞ。」
 あっという間にテーブルいっぱいに並べられた料理に剣心はとまどう。ナシ・ゴレンやミー・ゴレンはいいとしても、サテにつけるためのものか、野菜を刻んだソースやらピーナツソースやら、どうやって食べればいいのかわからない。しかしワヤンが皿に料理を取り分けてくれた。
「これで、ナシ・チャンプルね。一皿にたくさんの料理が乗ってるの。バリではこうやって、一皿にたくさんおかずが乗って出てくる食事が一番ポピュラー。」
「ありがとう。」
 ひとくち食べてみると、きつい香辛料の香りが口いっぱいに広がる。味付けも濃いけれど、とても美味しい。
「おいしいでござる!」
 心配そうに剣心の表情を伺っていたワヤンは、その言葉を聞いて嬉しそうに破顔した。
「よかった!どんどん食べてください。」
「ワヤン殿も、ご一緒に。」
 皿を半分片づける頃には、馴染んだ日本料理の味付けなどまるで忘れてすっかりインドネシア料理のファンになっていた。スパイシーな味にビールの量も進んですっかりうち解け、ふたりはお互いの事を色々とうち明けあっていた。
「じゃあヒムラさん、お仕事はマネージャーなんですか」
「マネージャーというか、養父の世話ができる人が他に誰もいないから、というだけで。一応、名前は知られた陶芸家でござるから弟子入り志願者なんかはたくさん来るのでござるが、まず養父が弟子を取らないし、他に人を雇ったりしてみたのでござるが、なんせ偏屈で変わり者でござるからみんな一週間ももたずに逃げ出してしまって。仕方なく拙者がしているのでござるよ。子守と一緒でござる」
 ワヤンは大きな目を丸くしてまあ、と笑った。
「実は、今回の旅行も、師匠が来るはずだったのでござる。それが直前になって急に、新しいアイディアが浮かんだから創作に入ると言い出して。まあ、休暇のつもりでござったし予定は入れてなかったから助かったでござるけど・・・。それがどういう風の吹き回しか、珍しく拙者に休みをくれてやるから代わりに行ってこい、と言うのでござるよ。創作に入ってしまうと寝食を忘れて没頭してしまうたちでござるのに、自分でできると言い張って。料理も家事も、拙者より自分の方がうまいのだと・・・」
 自分が世界の王様だとでも言うような師匠の態度を思い出し、思わず拳を固める剣心に、ワヤンはぷっと吹き出した。
「仲がおよろしいんですね、お父さまと。」
「まさか!あんな自分勝手で偉そうでめちゃくちゃな男、養父でなければ誰が!それを、わざわざ拙者に世話をさせてやっているとのだと・・・。まったく腹の立つ!」
 しかし、クスクスと笑っているワヤンに気付いて剣心は顔を赤らめた。
「今頃、家中滅茶苦茶でござろう。帰ってからが思いやられるでござるよ。」
 剣心は困ったように笑ってみせたのだった。


 そして次の日、剣心はゆっくり起き出して広いホテルの庭を散策した後、海に出た。まるでターコイズブルーの絵の具を溶かしこんだかのような澄み切った海がどこまでも広がり、、大きな波が白い泡を弾けさせている。ホテルのプライベートビーチにはあまり人影もない。剣心は大きな木陰に陣取り、冷えた白ワインを飲みながら読書を始めた。時折、サーフィンに興じる若者たちを眺めてはぼんやりする。波の高さが日本とは段違いだ。しかしふと気付くと、なんと自分のまわりに、何人ものバリ人が取り囲むように座っているではないか。一体何事だ。そして何の用だ。日本の感覚で、全く面識のない他人が側に来ても許せる距離を大きく侵している。そしてそれはひとりではないのだ。ざっと6,7人はいる。
 怖い。
 何が目的なのかさっぱりわからない。もしかして、これが有名なバリのジゴロだろうか。それとも一部の破廉恥な日本人女性と勘違いしてナンパしにきたのだろうか。
 そっとうかがうと、誰もにっこりと笑みを浮かべる。そして、特に話しかけてくる様子もない。
 何が目的なのかわからないぶん、気持ち悪い。しばらく無視して本を読んでいるふりをしたが、いたたまれなくなって立ち上がった。立ち去ろうとする剣心に、彼らは追いかけるわけでもなく、ただ「バーイ」と声をかけてきただけだ。しばらく歩いてから彼らの方を振り返ると、三々五々別れて解散していた。
 一体、何なんだ・・・。
 まだ日本の感覚が残っている剣心には、ただ不審でしかない。波打ち際を歩いて移動していくうちに、いつのまにかプライベートビーチを出てしまったらしい。途端に人の数が増える。
 また少し木陰に座って休憩していると、今度はおばさんたちが大挙して押し寄せてきた。怪しげな日本語を駆使して、やれマッサージをさせろだの、アクセサリーを買えだの、マニキュアをしてやる、はたまた髪をミチュアミ(三つ編みの事か?)にしてやるなどと入れ替わり立ち替わり言ってくる。そして少しでも相手にしようものなら、まるで飴にたかる蟻のようにあっというまに人だかり、金をせびり取るまで離さない、という構えだ。そして一旦金を出したら、際限なくまとわりつく。
 まるで悪魔だ。先ほどの青年たちよりずっと恐ろしい。
 慌ててその場から立ち去ると、今度は正真正銘のジゴロが声をかけてくる。段々と頭にきていた剣心は、殺気を込めて睨みつけ追い払った。
 海も砂浜も、溜め息がでるほど美しいのに、その美しさを堪能する事ができないのだ。剣心は、昨日ワヤンが『プライベートビーチ以外に行くな』と言っていた事を思い出した。きっとこういう目にあうことを見越していたのだろう。早々に剣心はホテルのビーチに逃げ帰った。ここならまだ、暇なバリニーズに取り囲まれるだけなのだから比較的安全だ。彼らは多分ホテルの従業員なのだろう。昼間は暇なので海で遊んでいるのだ。
 その後、剣心はボディボードを借り、波の先に乗って遊んだり、疲れたら木陰で読書をしたりして一日過ごした。またバリニーズに囲まれたが、無視する事に決めた。彼らはシャイなのか時々話しかけたそうにするのだが、日本語も英語も殆ど話せないらしく、仲間同士で話し合うだけで何も言ってこない。時折、「チャンティッ」と言い合っているのが耳につく。
 この旅の間で、ひとりでぼんやりとしていると自然とまわりに人が集まっている事が何度もあった。特に、昼間多く人が集まった。バリでは観光産業に従事している人が多いし、昼はなにせ暑すぎて活動できないので夜働く人が多いからだろう。昼間は皆、暇なのだ。そして側に来て座るのも、酷い目にあわせてやろう、などというものではなく、純粋に友達になりたいからである事が段々と分かってきた。人と人との距離が、日本とは比べものにならないほど近いのだ。まあ、あわよくば、を狙っているのは確かであろうが、彼らの目にそれほど深い意図はない。なにせお互い言葉が通じないので、話すといっても片言だ。「天気がいいですね」とか、そのくらいの話で、こちらが立ち去ろうとするとただ挨拶をして別れる。初めは恐怖を感じていた剣心だったが、段々とバリの空気に触れるにつれ、慣れていった。
 しかし、レギャンの繁華街を歩いていると、子供のスリやたちの悪い物売りに出くわす事が大変に多く、その上痴漢までいるので少し出歩いただけで嫌気がさしてしまった。どうしてこんなに美しい神々の島、とまで謳われる所で、感じが悪いのだろうか。刺激的、と言えば聞こえはいいのだろうが、静かに魂の洗濯をしにきたつもりの剣心には合わない。正直、幻滅してしまった。そんな人は一部で人なつっこくて親切な人もたくさんいたのだが、それにしても酷い。何より、剣心は外見のせいか女性に間違われる事が多く、一部の日本女性の振るまいのとばっちりをもろに受けた。度重なるジゴロからの誘い、そして痴漢。なんと痴漢は日本人女性しか狙わないらしい。触っても、強く非難されないからだそうだ。特に女ひとりと思われると、扱いは酷かった。男漁りに来たのだと決めつけられるのだ。歩いているだけで、遠くから口笛を吹かれる。何やら大声で叫ばれる。ナンパされる。剣心は繁華街からも早々に立ち去り、王宮などの観光以外ほとんどの時間をホテルのビーチで過ごした。とりあえず、ホテルの従業員は教育が行き届いているし、嫌な目に合う事は少ないからだ。やっと昨日、ワヤンに言われた事の意味が身にしみてわかった剣心だった。
 そして次の夜、ワヤンから携帯に電話が入った。今夜の食事の誘いだ。
 2日ぶりに見るワヤンの顔に安堵して、剣心は正直に感想を話した。するとワヤンは、やはり、という顔をして溜め息をついた。
「ごめんなさい、ヒムラさん。実は、こうなる事大体分かってました。だけど、最初からヒムラさんをがっかりさせたくなくて、きちんとお話しておかなかったんです。ヒムラさん、もうバリ、嫌いですか?」
「そんな事ないでござるよ。景色は最高に綺麗でござるし、ホテルも、食事も最高でござる。それに、最初にワヤン殿のようないい方に出会えて、拙者本当に幸運でござった」
「でも、正直、もう二度と来ないつもり、そうでしょう?」
「いや、そんな・・・・」
「ヒムラさん、ヒムラさんが見たバリは、ほんの一部なんです。特に、このクタとレギャンは一番の観光地だから、にぎやかだけど他の所とはまるで違います。ヒムラさんに嫌な思いさせた人、もともとのバリ人じゃない。ジャワ島人、マジャパイトです。観光客目当てに儲けに来た、よその人たち。だから、クタとレギャンだけ見て、バリの事嫌いにならないでください」
 そういってワヤンは頭を下げた。
「やめてくだされ、ワヤン殿。ワヤン殿のせいでは全くないのでござるから」
「ヒムラさん、もう帰るなんて言わないで。レギャン以外の所へ行きましょう。私がご案内します。そう、ヒムラさんはまだ、バリの伝統舞踊ご覧になってないでしょう?バリが神々の島と呼ばれるわけを、ご覧にいれます。ウブドゥに行きましょう。」
「ウブド?」
「はい。ウブドゥは、バリでの伝統芸能や芸術の中心です。観光地ですが、少しでるとそこはもうバリの田舎です。きっとヒムラさんのお気に入ると思います」
 正直、こんな感じが続くようなら、予定を繰り上げて帰ろうと思っていた剣心だったが、ワヤンの必死な説得に折れる形で頷いた。
「わかったでござる。ワヤン殿が勧めるなら、きっとステキな所でござろう。お任せするでござるよ」
「じゃあ、ホテルの手配も私がやりますね。明日の午前中に出発しましょう。ウブドゥ村へは、車で1時間ほどです。途中、バティック染めや銀細工が有名な町も通りますよ。」
 ワヤンは本当に嬉しそうだ。彼女の好意を無駄にしたくない。剣心も笑顔を見せながらも、一抹の不安はぬぐい去れなかった。


 そして次の日。ワヤンの車にスーツケースを載せて、ふたりはレギャンのホテルを後にした。途中、バティックで有名なトパティという町を訪れる。バティックは、ろうけつ染めの一種でジャワ島のものの方が有名だが、バリ独特の絵柄のものもたくさんある。折角だから、と剣心はバリ製で手書きのものの中からシルクのバティック・トゥルスを師匠へのおみやげに買い求めた。バリでは定価というものはない。全て交渉が必要だ。慣れない上に適正価格も分からない剣心に、ワヤンが値引きを買って出てくれた。ワヤンと店員の様子を見ていると、買い物というのはコミュニケーションだという事がよくわかる。レジに品物を出せば一言も言葉を交わさずに買い物ができる日本とは、考え方がまるで違うのだ。二人は、数百円の為に三十分も攻防を重ね、時折停戦して剣心も交え世間話をし、大笑いした。結局、最初に提示された金額の半分以下になった上に、ひとのいいおばさんはおまけだと言ってコットンのサルン(腰巻き)をくれた。きっと彼女も楽しかったのだろう。
 帰り際、おばさんは剣心に「チャンティッ」と繰り返して言った。そういえば、ホテルのビーチでもその言葉を耳にしていた剣心は、後でワヤンに訪ねてみた。
「チャンティッ、は、かわいい、って意味です。どうかしましたか?」
「いや、なんでもないでござる」
 案の定、おばさんがくれたサルンは、確かめてみると女性用のものであった。ひとりで苦笑いする剣心に、ワヤンは嬉しそうに言った。
「今度は、バテゥ・ブランです。バロンダンスが有名ですよ。」
 そして車の中で、彼女はバロンダンスについて説明してくれた。
「バロン、っていうのは、森の聖獣です。バリでは山を聖なる方向と考えています。神の住まうアグン山のある方角をカジャ、と言います。反対に海は邪悪な方角で、クロッドといいます。海の魔女を、ランダといいます。バロンとランダは、善と悪です。バロンとランダの力が拮抗している事によって世界は保たれている、と考えられています。バロンとランダは永遠に戦い続けるんです。その戦いの有様を踊りで表現しているのがバロンダンスです。もともとはチャロナランという芸能で、お寺で行われる儀式です。その際に演者はトランス状態となってこの世とあの世を繋ぎ、お告げをするんですよ。」
「では、ただの踊りではなく、もともとは宗教的な儀式なのでござるな」
「そうです。とてもきらびやかで、音楽も美しいです。楽しみにしていてください」
 川を渡ると、街道沿いにたくさんの石の彫刻が並べられている。どれも神様の姿をかたどったもので、実に壮観な眺めだ。バリではこのような石の彫刻が至るところで見られる。どれも花輪でかざられ、お供えものがなされている。
 ふたりはプセ寺院という寺についた。この寺も、石の彫刻が見事だ。3万ルピアを払って払って日本語の解説書を受け取り、ガムランという金属の打楽器が並べられた会場の石段に座る。中は様々な国の観光客でいっぱいだ。サルンを巻いて、独特な形の帽子、ウドゥンをかぶったガムラン奏者たちが位置に着くと、しばらくして演奏が始まる。ガムランの音は不思議な世界へと剣心を誘った。これほど美しく、気分を高揚させると同時に落ち着かせる音楽は他にないだろう。不思議な響きに、会場は異様な静けさに包まれた。すると、上手に2本立った石の門のようなところから、きらびやかな衣装を身にまとった女性が踊り出てきた。大きな金のかぶりものに金と赤のサルンを巻いて、左右に首を振りながら舞う。指先を大きく反らせて細かく揺らす。メイクで強調された目をくりくりと動かす。段々と彼女の目が熱を帯び、トランス状態に入っている事が分かる。
 ひとしきり少女が踊った後、いよいよ森の聖獣、バロンの登場だ。バロンは獅子舞の獅子に姿が似ている。中に二人入って動かすところも同じだ。しかしきらびやかさが段違いである。体中にふさふさと長い毛を生やし、金の頭にぎょろりとした目、大きく裂けた牙の見える口。しかしその大きく恐ろしげな外観に反して、非常にユーモラスでかわいらしい動きをする。ひとしきり舞った後眠たくなったらしく、地面にごろんと横になってぐうぐう寝始めてしまった。しっぽをぱたぱたと動かして気持ちよさそうだ。しかし、一匹の悪戯な蝶々が、バロンの眠りを乱す。蝶々は、バロンに遊ぼう、と呼びかけるように辺りを舞い、身体に止まってみせる。バロンはうるさそうに振り払うが、蝶々は諦めない。やがてバロンは蝶々を追いかけてもの狂いのようになって舞台から去る。歌舞伎の「連獅子」とよく似ていて、剣心は面白く思った。
 そして次に出てくるのが、バロンの永遠の敵、魔女ランダだ。ランダはなまはげみたいで、いかにも意地が悪そうな魔女だ。ぼさぼさの髪を振り乱し、邪悪な舞を舞う。やがてバロンとランダの壮絶な戦いが始まった。結局、ふたりの力は五分五分で、決着はつかない。戦いは永遠である事を暗示して、踊りは終わった。演技の後、お坊さんらしき人がきて、場を浄める儀式のような事をしていた。
 全部で1時間ほどの演技だったのだが、剣心はその迫力とガムランの音楽にすっかり圧倒されてしまった。興奮が冷めらず、頬を紅潮させながら踊りの感想をワヤンに話す。ワヤンは、気に入ってもらえて本当によかった、とほっとした笑みを浮かべていた。
 その後、銀細工の村に立ち寄って、いぶし銀の、精緻な細工が施された蓮の銀細工を買ってからウブドのホテルへたどり着いた。
 大きな通りからずっと離れ、とても広い敷地の中に20戸ほどのヴィラが点在している。ワヤンの話によると、ここは普通のホテルではなくヒーリングリゾートなのだそうだ。隠れ家的な場所で、ゲストは一日10ペアだけらしい。
 全てバリ風の彫刻がされている木造のフロントで、木で作った蓮の花のキーホルダーがついたキーを受け取り、剣心が宿泊する事になるヴィラに案内される。ヴィラは茅葺き屋根の円形で、全部で4部屋、ベッドルームは透けたレースが一面に張られた天蓋付きベッドが見事だ。床は一面御影石、天井はとても高く、ヴィラの屋根の形にそって木が障子のように組まれている。室内のシャワー室に、外にも露天風呂がある。大理石をくりぬいた形のバスタブはジャグジー付きで、白い花が一面に浮かべられていた。さらにその隣の吹き抜けの部屋には、自分のヴィラでトリートメントが受けられるように、マッサージベッドが二つならんでいる。そして何より素晴らしいのが、ヴィラのバルコニーから見られる眺望だ。一面の燃え上がるような緑。深い渓谷、そして静かなせせらぎの音。
 あまりの素晴らしさに、剣心は一瞬言葉を失った。確かにワヤンに任せる、とはいったが、これほど超高級ホテルだとは思ってもみなかったのだ。
「ワ、ワヤン殿、拙者、こんなすごいところにひとりではとても・・・」
「大丈夫、予算内です。それより、ここはすごく徹底しているんですよ。水は全てこの土地で湧いている湧き水なんだそうです。口に入るもの、トリートメントに使うもの全て、この敷地内で有機農法によって作られているものです。それと、ここはスパもとっても素晴らしいです。他にも、ヨガや瞑想のレッスンもあるし、ジムもあります。専用のアドバイザーが希望に合わせて全て面倒見てくれます。ここは最高!大好き!」
 ワヤンの目を見ると、中にハートが見える。どうやら、ワヤンも自分が泊まりたいホテルを選んだらしい。
「ここはウブドの観光地からちょっと離れていますが、大丈夫、私がどこへでも送りますし、ホテルからタクシーに乗ればすぐです。問題ありません。それより、どんなトリートメントを受けるか考えてください。ここはジャムウ、インドネシアの漢方ですが、それを使ったエステもあります。ジャムウの原料はもちろんここで採れたものです。アユールヴェーダもできます、ミルクスパもあります、どれも最高にステキ。」
「で、でもワヤン殿、拙者男でござる、エステなんて・・・・」
「ヒムラさん、古い!古すぎます。ここにカップルで来る人は、となりの部屋のトリートメントルームで並んでやるんですよ!エステというより、リフレッシュ、と考えてください。エステティシャンはみんなプロです。ヒムラさんが男でも関係ありません。まあ、あとはアドバイザーの方と話し合って決めてくださいね!」
 強引なワヤンは言いたい事だけいうと、ウブドの村へ行きましょう、と呆然としている剣心を引っ張った。そして夕方まで、ウブド村の観光とショッピングに連れ回されたのだった。
 ウブド村は、クタとレギャンとはまるで違う所だった。至る所に寺院や神をまつる所があり、バナナの葉と小さな花で作られたお供え物が散らばっている。物売りの数も格段に少なく、人々もシャイで人なつこい感じだ。剣心はクタで異常に強くなっていた不信感が急速に薄れていくのを感じた。どこかで必ずガムランの音が響いている。いつのまにか自分で縛り付けていた心が、ふっと軽くなったような気持ちだ。
 夜は、ワヤンに連れられてケチャの演奏を聞きに行く。王宮の中で行われたケチャは、男性の声だけで表現される音楽だ。「チャッチャッ」という単調なリズムが、不思議なトランス状態に誘う。輪になって座ったサルン姿の演奏者たちは、手を挙げて身体を揺すぶりながら絶妙なハーモニーを作り出していく。そしてその周りを、きらびやかに装った少女が狂ったように踊り、走り回る。
演奏が終わっても、その不思議な音楽は剣心の耳にずっと残った。身体が痺れたようになって動けないのだ。バリの濃い闇の夜、蝋燭の光、ケチャの響き。今までに感じた事のないほどの幸福感に包まれていた。剣心はうっとりとしたままホテルに戻り、天蓋付きベッドに倒れ込んだのだった。
 身体は心地よく疲れていたが、昼間に見たバロンダンス、そして先ほど見たケチャに、剣心の心は激しく乱されていた。目を閉じても、その光景やガムランの音が焼き付いて離れない。
 起きて露天風呂に入る。見上げると、そこには降るほどの一面の星。湯船に浮かんで揺れる花が、水を弾いて蝋燭の光をはねかえす。
「そういえば、今日は七夕でござったな」
 手を伸ばすと届きそうなほどの明るい星が宝石箱のように散らばっている。これほど完璧に美しく幸福な夜を、このまま眠ってしまうのはもったいない気がして、剣心は風呂からあがると虫除けを持ってヴィラを出た。
 渓谷側から涼しい風が吹いて、風呂上がりの火照った身体を優しく撫でていく。しばらくホテルの中を散策していたが、川の方に降りる階段があるのを見つけたので降りてみる事にした。川に沿って歩いていくと、川の水を引いた水田が広がっている所へ出た。カエルと虫たちの大合唱の中、あぜ道を歩いていく。暗闇に目が慣れ、星の光だけで周りが見通せるようになる。ふと目をやると、今まで気付かなかったのだが、背の高い人間の姿が見て取れた。ホテルの敷地内だから従業員だとは思うが、深夜に近い時間にひとりでうろうろしているのは少し変だ。しかしウブドに来て警戒心が緩んでいた剣心は、その人物に近づいていった。
「スラマッマラム・・・」
 剣心はワヤンから教わった夜の挨拶をたどたどしく発した。
 すると、その背の高い人物はこちらを振り返った。ぱっと、驚くほど明るくなる。
 まず最初に目に入ったのは、印象的な瞳だった。つやつやと光る、真っ黒い瞳。長い睫が、目の下に影を作っている。目を大きく見開いて、驚いた表情をしていた。まだ十代か二十代の初めの青年だ。ひどく背が高いその人物は、剣心が思いきり顎をあげないと目が合わせられない。
 急に目の前が明るくなってまぶしい表情をすると、その人はにっこりと笑った。
「×××。」
 何か言葉を発したが、剣心には意味がわからない。
「あ、えーと、サヤ、ティダ、ビサ、ビチャラ、バハサ、インドネシア。わかるでござるか?I can't speak Indonesia.OK?」
 しかし彼は意に介さず、手に持った白いものを差し出してみせた。
「×××。」
 同じ言葉を繰り返す。剣心はやっと彼の差し出すものを見た。
 それは一瞬、小さいランプのように見えた。しかし、よくみるとそれが植物で、鈴蘭の大きなもののような花である事がわかった。そしてそのどれもが、ぼんやりと光っているのだ。
「すごい綺麗・・・。でも、どうして花が光るのでござる?」
 不思議そうな顔で見上げる顔に、彼は嬉しそうに笑ってそっと花束を剣心に渡した。そして水田の方を指さす。
「あっ・・・!」
 そこには、一面に螢が舞っているのだった。今まで気付かなかったのが不思議なくらいに。
 目が慣れるにつれ、自分が今までの人生で見たことがないくらいの螢の大群に囲まれている事に剣心はしばし呆然とした。そして見上げてもまた、星、星、星。
 思わず足下がふらつくが、彼がそれをささえてくれた。
「あ、ありがとう・・・、テリマカシ」
 彼の澄み切った瞳を目前にして、なぜか少し慌ててしまう。
「この花も・・・、この花は・・・。もしかして、中に螢が?」
 花の房の中をのぞくと、果たしてそこには螢が、淡い光を発していた。
「自然のランプでござるな。こんなに綺麗な花、初めて見たでござる。テリマカシ」
 笑いながらそういうと、彼はなぜかまた驚いたような顔をした。そしてとてもきれいな響きの優しい声で何か言うのだが、剣心にはさっぱりわからない。ただ彼の言葉が音楽のように耳に心地いい。わからない、と困ったように笑いながら彼の顔を見る。
 彼はバリニーズ特有の浅黒い肌と彫りの深い顔立ちをしていた。しかし目は切れ長で、何人なのかよくわからない。改めてみるとはっとするほど整った顔をしていた。そして、ただ顔立ちの美しさだけではない、力強いオーラのようなものが彼から強烈に発されていた。
 彼は子供のように無邪気な目をしながら、天を指さす。そしてしきりに何かを言いながら、指で空に沿って流れるような動きをした。
 彼の指先を追うと、そこには天の川が横たわっていた。そして今度は地上を流れる川を指し、キラキラと光る様を手で表した。
「ああ、どちらも光って、綺麗でござるな。鏡合わせみたいだ」
 剣心が頷くと、嬉しそうに今度は点在する星と地上の螢を示す。
「そう、星も螢も、キラキラ光って、本当に綺麗。まるで宇宙の中で浮かんでいるみたいでござるな」
 そういうと、彼はわからないくせににこにこと笑いながら頷いた。剣心の手を取って、座るのによい石のある所まで案内する。彼は片時も剣心から目を離さず、テノールの声で話し続けた。剣心は何一つ彼の言葉を理解できなかったが、美しい音楽に耳を傾けるように彼の言葉を聞き、笑顔を返した。
 そうして2時間ほどの時があっという間に過ぎた。すぐに戻るつもりだったから剣心はTシャツ一枚で、この時間になるとさすがに少し肌寒い。虫除けもなくなってしまった。この青年とずっと話していたかったが、そろそろ戻らないといけない。名残惜しかったが、剣心は立ち上がってヴィラのある方を指さし、帰らなければならない事を示した。
 すると青年の表情は見る見るうちに曇った。見ている方が悲しくなるほどの顔で、必死に剣心の手を握っていかせまいとした。剣心は頭を振り「マアフ」と言って謝る。そんなやりとりを何度か繰り返して、青年は俯いたままとうとう頷いた。そして自分たちのいる場所を示して「ベソック」と繰り返して必死に訴える。
「また明日の夜?明日も来る?ここに?」
 言葉はまるでわからないが、なんとなく彼のいわんとする事が理解できる。
「わかったでござる、明日の夜もここに来るでござるよ」
 剣心が頷くと、彼はやっと安心した顔をした。
「じゃあ、おやすみなさい。また明日。」
「スラマッティドゥール。」
 そうしてふたりはずっとつなぎあっていた手を離した。そうして剣心の手にはあの白い花が残った。
 途中で振り返ると、彼はまだ自分の方を見て手を振っていた。ヴィラへ戻ると、剣心は旅行ガイドを開いて「ベソック」の意味を調べた。やはり思った通り「明日」という意味だった。また明日、あの綺麗な目と声をした青年と会えるのだ。剣心はインドネシア語辞典を買おうと心に決めて、眠りについた。その夜見た夢の中で剣心は、バリ舞踊を踊る少女の衣装を身にまとってあの青年とふたり光の川の中、手を取り合って踊っていた。そして不思議な事に青年は、バロンのお面を背負っているのだった。
 彼からもらった白い花の光が、剣心の眠りを守るように淡く揺らめいていた。

 そして次の日。午前中に自分のヴィラでアユールヴェーダのトリートメントを受けた後、ワヤンと連れだってウブド村へ出掛けた。昨日出会った青年の事は、なぜかふたりだけの秘密のような気がして、ワヤンにも言わなかった。ワヤンは、ウブドで有名なバリ絵画を見に行こうと盛り上がっている。どことなく上の空になりがちな剣心にも気付かずにバリ絵画の説明をしてくれた。
「最初、バリではワヤン・スタイルという、影絵をそのまま絵にしたようなスタイルの絵で宗教画が描かれていたそうです。それが、1920年ごろから、ウブドにヨーロッパから画家の人たちがたくさん移住してきました。そこから新しいスタイルの絵がうまれたんです。それからも色々なスタイルの絵が生まれましたが、その中心地はいつもウブドゥです。今日は美術館を巡って、それから画廊も見てみましょう」
 それから、うっそうとした広い森の中にあるプリ・ルキサン美術館やネカ美術館を回ってバリ絵画を鑑賞した。バリの絵画は、土や生活の匂いのする素朴なものから、非常に緻密な宗教画、そして熱帯植物の鮮やかな色彩を美しい色使いで見せるものまで多岐にわたり、その技術の高さや芸術性は素晴らしいものだった。中でも、とても緻密に書かれたバロンとランダの戦いの小さな絵のシリーズは秀逸で、溜め息が出るほどだ。剣心がずっとその絵を見続けているので、ワヤンはその絵の作家についてちょうど来ていた美術館の館長に訊いてきてくれた。どうやら館長は、ワヤンの父親と友達らしい。
「ヒムラさん、この絵の作家は、今バリで一番注目されている新進の画家なんだそうです。側にアトリエがあるそうですよ。行ってみられますか?館長さんがお知り合いで、他の絵を見せてくれるか訊いてくれるって言ってます。」
「え、そんな、アトリエなんて、ご迷惑ではないでござろうか?申し訳ないし、画廊で充分でござるよ」
 そこへ館長が側へ来てワヤンに何か話し始めた。
「ダメです、この画家の作品は今大変人気で、画廊には絵がないそうです。もし気に入ったのがあっても、直接本人と交渉した方が安くなりますし。・・え?」
 館長がまた話し出したのでワヤンは口を閉じる。しかし、館長が言った事を今度は剣心に伝えなかった。
「館長さんが連絡を取ってくださるそうです。少し待ちましょう」
 そして絵を見ながら20分ほど待つと、館長が嬉しそうに小走りでやってきた。
「オーケー。オーケー。ラッキー」
 と剣心ににっこり笑う。そしてワヤンの車に館長も乗り込むと、仕事の方はいいのだろうかと心配する剣心をよそに出発した。
 町中から出て、うっそうと緑の茂る中を20分ほど車で走ると、伝統的な茅葺き屋根の家が見えてきた。
「あそこです」
 家の側に車を止め、館長が先に立って案内する。
「スラマッシアン、ツナン!」
 扉をノックして叫ぶ。
 しばらくすると、長髪の男がうっそりと出てきた。顔色が悪く、無表情だ。しかし館長は意に介しない。ワヤンと剣心を紹介する。
 彼の仏頂面を見て、剣心は早くも来た事を後悔していたが、彼は追い返すわけでもなく小さく顎を引いて挨拶らしきものをし、中へ入れてくれた。館長から聞いた話を、ワヤンが通訳してくれる。
「こちらのツナンさんはまだ19歳ですが、現代バリ絵画では人気実力とも急上昇している画家で、先頃は有名なコンクールで大賞を受賞されたそうです。美術館にあったのが受賞作だそうですよ。」
「こっちがアトリエだが、俺はアトリエには他人を立ち入らせない。完成している絵を置いている倉庫があるから、そちらへ来てもらおう」
 彼がなめらかな日本語を話したので、剣心は驚いた。
「もしかしてツナン殿は、日本人なのでござるか?」
「違う。俺は生粋のバリ・アガだ。子供の頃、日本人の先生に教わった事があるから少し話せるだけだ」
 そして先に立って倉庫に案内してくれる。彼が席を外すとワヤンがそっと耳打ちしてきた。
「実は、ツナンさんってすごく気難しい方で、滅多にここに他人を入れないそうなんです。だから館長さんも電話するまでほとんど無理だろうと思ってらっしゃったみたいなんですけど、今日はなんだか機嫌がいいみたいでよかったです。」
「ええ?!そんなご無理を館長殿にお願いしたのでござったのか?どうして先に言ってくださらなかったのでござる」
「だって先にそんな事言ったら、ヒムラさん絶対行かない、って言うでしょ」
 とワヤンは悪びれもせず言う。
 剣心が半ば呆れていると、ツナンがバリコピ、と呼ばれるどろっとしたコーヒーを木の盆に載せて持ってきた。砕いたコーヒー豆の上からインスタントのようにお湯をかけて上澄みを啜るという一風変わったバリ風のコーヒーだ。
「申し訳ない、勝手に押し掛けてきておいて・・・」
「かまわないさ。それより冷えないうちに飲んでくれ。」
 礼を言い、粉が沈殿したのを見計らって口をつける。とても濃くて、コーヒーそのものの味がした。
「凄くおいしいでござる」
「コーヒーにはちょっとうるさいんだ」
 そういって、ツナンは初めて笑みを見せた。
 とっつきにくい性格のようだが、人はいいらしい。剣心はほっとした。
 そして4人でコピを飲み、ジャジャ・ククスという餅米にココナッツフレークと椰子の砂糖シロップをかけたお菓子をつまみながらツナンの作品を鑑賞した。どれも恐ろしく緻密で色使いが美しく、最高に素晴らしい出来のものばかりだ。やはりバロンとランダを描いた小品が気に入り、ツナンに値段を聞いてみる。しかし、作家に直接値段の話をするというのも日本ではあまりありえない話で面白い。剣心の養父の場合は値段についてまるで無関心なのでいつも苦労させられるのだったが。
 するとツナンは、驚いたことに絵が気に入ったのなら持っていっていい、と言い出した。剣心とワヤンは驚きの声をあげ、ついでワヤンから通訳された館長も少し遅れて声をあげる。
「もちろん、タダというわけじゃない。あんた、俺の絵のモデルになってくれないか」
「モデル?!」
「ああ。あんたも観光で来てるんだろうから、それほど時間は取らせない。1日くれないだろうか?なんなら半日でもいい」
「そんな、拙者がモデルなんてとても・・・。」
 ワヤンがバリ語でツナンに言う。
『あの、ツナンさん、この人、女の子みたいに見えるけど男の人なんですよ。』
 するとツナンはばかにしたようにワヤンを見て言った。
『わかっている。これでも画家のはしくれだ。男と女の体つきの違いくらいよく知っている。この日本人は華奢だが、実践的な武術に優れた身体をしたりっぱな男だ』
 ワヤンはぐっと黙り込んだ。
 少し遅れて話題に追いついた館長は、熱心に剣心に勧める。
『ヒムラさん、ツナンさんは人間を題材に絵を描くことが殆どないんだ。これは大変な事だよ。きっと素晴らしい絵になる。それに、ツナンさんの絵はかなりの価値が出てきている、ただで手に入れられるなんてとてもラッキーだよ。記念にもなるし、ぜひお受けなさい』
「頼む、ヒムラさん。なんなら、別にモデル料を払ってもいい。実は2ヶ月後に、バリ全体の大きな美術フェスティバルがあるんだ。それにぜひあんたの絵を出したい。」
「そんな大切な会に出品するのならなおさら、拙者などでは・・・」
「いや、俺はもう決めた。モデルはあんたしかいない。頼まれてくれ」
 頭を下げられると剣心は弱い。いつも頼まれ事を押しつけられて、嫌だと言い切れずに受けてしまう。剣心は仕方なく頷いた。
「わかったでござる。プロではござらんからモデル料などは結構でござるよ。でも、夜は拙者、少々用事がござるので、昼間にお願いしたい」
「もちろんだ。ありがとう!恩に着る」
 そうして話はまとまり、ツナンは絵を壊れないように包んでくれた。その間倉庫の中の絵を最後にもう一度見直していた時、剣心は不思議な絵が壁にかかっているのを見た。
 その絵は、クレヨンと水彩絵の具で描かれた星の絵だった。星たちが空を舞い、それを眺める人々の影が地上に散らばっている。夜空の色は不思議なグラデーションがかかった藍色、そして空の星は色とりどりのクレヨンで表現されている。木彫りの額も絵と同じ作者によるものか、星が透かしで彫り込まれている。技術は非常に稚拙だったが、その天才的な色使いと独特な雰囲気、そして絵から伝わってくる優しさがたとえようもなく剣心の胸を打った。熱い固まりが剣心の心の一番柔らかい部分を刺激して、今にも涙が溢れそうだ。剣心は嗚咽を必死で飲み込み、しばらく深呼吸してからツナンを呼んだ。
「ツナン殿、この絵は?」
「ああ、その絵は俺の友達が描いたんだ。売り物じゃないんだが・・・。欲しいのか?」
「ぜひ。これは、ツナン殿がそのお友達から譲り受けたものでござるか?」
「ああ。妙な男で、風来坊なんだ。気が向いた時に絵を描く。描いた絵は、欲しいという奴に適当にやってしまうんだ。だからあまり作品が手元にない。でも、売り物じゃないとは言ったが、実は買ってもらえるならありがたいんだ。生きていくのに金が一銭もなくてもちっとも困りゃしない奴だが、見ている方は気が気じゃない。正直、少し心配なんだ。あんたは絵を見る目があるみたいだから、この絵がどんだけ凄いか分かるだろう。こいつは天才だよ。俺なんか目じゃない。俺は自分で言うのもなんだが、技術はそれなりにあると思う。写生なんかは誰にも引けをとらないつもりだ。まだまだだがな。でも、こいつの持っているのは天性のものだ。神に祝福を与えられた者だよ。もっと本腰を入れて、きちんと道具を揃えて絵を描けば、必ず世界中で認められる。でもそいつは自分の才能にまるで無頓着で、金が底をついたら土木工事なんかの仕事をしているんだ。俺には奴ほどの才能はない。時々、絵を描きながら絶望する事があるよ。俺が長い時間をかけて必死の思いで描きあげたものを、奴はほんの数十分で凌駕してみせるんだ。・・・ヒムラさん、この絵が欲しいなら譲るよ。なに、また頼んだら描いてくれるさ、これよりいいやつをすぐにな。」
「ありがとう、ツナン殿。おいくらで譲っていただけるのでござろうか。」
「俺の絵じゃないからな、値段はあんたが決めてくれ。あんたがこの絵に払いたい分だけでいい。」
「とりあえず今現金の持ち合わせが少ないのでござる、でも小切手を用意するので少し時間をいただけないだろうか。今の拙者には、4000万ルピアほどしかお支払いする能力がない。申し訳ないでござる」
「4000万ルピア!?ヒムラさん、クレヨンと水彩絵の具で描いた無名の作家の絵に、4000万ルピアなんて!」
 ワヤンが悲鳴をあげた。4000万ルピアあれば、一体どのくらい遊んでくらせるだろう?
「いや、ワヤン殿。拙者にはそれでも安い買い物でござる」
 ワヤンはインドネシア語でぶつぶつと呆けたようになにか呟いている。
「ありがとう、ヒムラさん。金は奴の為に使わせてもらうよ。いっぺんに本人に渡しちまったら、すぐ使ったり人にやったりしちまう。でも必ず、1ルピアも残さず奴に渡すよ。」
 ふたりは契約の握手を交わした。剣心は、手付けに、とあり合わせの現金を全てツナンに渡す。
「とりあえず、350万ルピアでござる。残りは後ほど。」
「絵は、持って行ってもらってかまわないよ。あんたが俺を信用して奴の金を俺に預けてくれるんだ、俺もあんたを信用する。」
 全て払い終わるまでこの絵とはお別れだと思っていた剣心は、思っても見みなかった申し出に胸がいっぱいになり、頭を下げた。
「ツナン殿、この絵を描かれたお友達は、今いずこにいらっしゃるのでござろうか?ぜひともお会いしたい」
「ああ、大体毎日ふらふらしてるんだ。でも週に2回はここで絵を描いているよ。今朝も朝飯を食いに来たんだ。なんだか昨日いいことがあったらしくてえらく機嫌がよかったもんで、こっちにまで陽気がうつっちまった。今夜、世界で一番綺麗なものに会うんだと言って大騒ぎで走り回ってたんだが、昼過ぎにふっといなくなっちまった。明日モデルをしに来てくれるだろう?その時に多分会えるだろう。」
 そして、ショックでうつろな目になっているワヤンを引っ張り、2枚の絵を抱えて剣心たちはツナンの家を出た。もう時刻は6時を回っていた。
 昨日の青年との約束は夜、というだけで時間は決めていなかった。しかし見事な夕暮れに染まる空の東はもう、夜の気配が近づいている。剣心はなぜかはやる心を、あの星の絵を見ることで落ち着かせていた。
 その夜は、ワヤンも呆然としている事だし、館長へのお礼も後日にしてまた3人で食事をする約束をして別れた。そして剣心はホテルのレストランで素晴らしい夕暮れを眺めながら食事をとった。適当に料理を頼んだのだが、色んな事で頭がいっぱいになってしまって味もよくわからないまま、胃の中だけはいっぱいにして部屋へ戻る。そして部屋に飾った2枚の絵を眺めていたが、やがて我慢ができなくなり、風呂も早々に、今度はカーディガンと昼間に買ったインドネシア語辞典、そして多めの虫除けを持って剣心は川へ降りていった。
 といっても時刻はまだ9時を回ったくらいだ。多分昨日と同じ時間に来るだろうと思いながらもついつい足は早足になる。どうしてこんなに気が急くのか、剣心自身にもわからない。ただ、あの絵を見た時に感じた同じものに突き動かされているような気だけはしていた。
 水田はもう、カエルの大合唱が響き渡っている。彼はまだいないだろうが、螢を眺めてカエルの演奏を聴きながら待つのも悪くはないだろう。
 そして昨日の場所あたりに近づく。街灯もなく真っ暗の中を、いないとわかっていながら目を凝らすと、果たして、昨日と同じ背の高い影が、うろうろと辺りを歩き回っていた。
「あっ・・・!」
 その声に、影が振り返る。
 とたんに何やら大きな叫び声が聞こえると、あっという間に影がこちらへ走り寄ってきた。影は昨日の青年の姿になり、挨拶を交わそうとするのも構わず、力一杯抱きしめてくる。
 耳元で、まるで泣くような声で、何か早口に囁きかけてくる。言葉とともに吹き込まれる息が、剣心の胸を甘く泡立てた。
 ますます強く力を込められ、息が詰まる。我慢できずにせき込むと、彼は慌てて腕をゆるめた。心配そうに顔を覗きこんでくる。
「だいじょうぶでござるよ。」
 笑顔を見せると、マアフ、と何度も謝りながらもほっとした表情を見せた。
「一体いつからここに居たのでござるか?ああ、辞書を・・・」
 剣心は星明かりを頼りに辞書を繰り、ぽつぽつと単語を並べる。
 すると彼は、月を指さし、東の空の下を指した。
「日暮れ前から?ずっと待っていたのでござるか?」
 彼は照れくさそうに笑うと、こくりと頷いた。
 その夜も、ふたりは並んで座ると色んな話をした。といっても主に話すのは青年で、流れるように言葉をつむぐのでその意味を調べる間もなく、剣心は理解しようとするのを途中で諦め、昨日と同じように音楽として彼の声を聴いた。そして彼も、剣心に何か話してくれと頼む。暗闇で辞書を使う事に疲れた剣心は、自分も日本語で彼に語りかけた。彼は、意味など全くわかりもしないくせに剣心の言葉にうなづき、心地よさそうに声に耳を傾けていた。
 そして夜がもっとも濃密になる深夜、剣心は帰らなければならない事を青年に告げた。彼の瞳に、悲しみが宿る。首を振って嫌がる彼の頬を撫でてなだめた。
「明日も、今日と同じ時間に、また来るから」
 彼は本当に?と繰り返す。
「ああ、約束。でも、今日みたいに夕方から待っていてはいけないでござるよ」
 やっと彼はぎゅっと握っていた剣心の手を離した。
「じゃあ、スラマッティンガル。おやすみなさい。
「スラマッジャラン」
 左之助もおやすみなさいを言って、剣心を見送った。ふたりの胸には引き裂かれるような悲しみと寂しさが渦巻いていたのだったが、お互いに笑顔で別れた為、同じ苦しみを味わっていることをふたりは気付かなかった。そうして二度目の逢瀬は終わりを告げたのだった。

 そして次の日の午後。剣心は約束の小切手を持ってツナンの家を訪れた。ツナンは相変わらずの仏頂面だったが、決して怒っているわけではない事が昨日わかったので気にしない。中に招き入れられ、またバリコピをごちそうになる。
「ツナン殿、遅くなりましたがお約束の小切手でござる。確認してくだされ」
 ツナンは剣心から封筒を受け取ると、中身を確かめようともしないで引き出しへ仕舞った。
「ありがとう、ヒムラさん。モデルの事といい、この事といい、とても感謝している。ああ、そうだ。昨日の絵を描いた俺の友達に会わせよう。」
 そういってツナンは庭へ出ていく。
『サノ!お客だぞ。こっちへこい。おい、なんだその手に持っているのは。毒蛇じゃないか!そんなもの早く捨てろ。顔と手を洗ってこい。わっ、やめろ、こっちへ投げるな。バカ、俺は手を洗えと言ったんだ。誰が水浴びをしろと言った。あっ、水をかけるな!よせ!』
 庭からはツナンの悲鳴とけたたましい笑い声が響いてくる。あまりの大騒ぎに、剣心はバルコニーに出た。
 そこには、勢いよく水のほとばしるホースを空へ向ける背の高い青年の姿と、わめきながら両手を上げて顔が濡れるのを防いでいるツナンの姿があった。
 青年は、バルコニーにいる剣心の姿を認めると、水をシャワーのようにまき散らしながら呆然とした。
 上半身裸の青年の小麦色の肌は濡れてつやつやと輝き、撒かれる水が描く曲線の下で、小さな虹が現れている。印象的な切れ長の瞳は、まぶしそうに細められていた。
 剣心はやっとの事で声を絞り出す。
「お主は・・・!」
 呆然としたままの青年からやっとの事でホースを取り上げたツナンは、息を弾ませながら青年を紹介した。
「すまない、ヒムラさん。見苦しいものをお見せした。こいつが、昨日の絵を描いた俺の友達で、サノスケだ。」
「×××!!」
 次の瞬間、サノスケはびしょ濡れのまま剣心に走り寄り、飛びついた。
「お主だったのでござるか、あの絵を描いたのは・・・!」
 驚きながらも、どこかで納得している自分がいる。あの絵を見たとき、彼に似ていると感じたのは間違いではなかったのだ。
 サノスケの突然の行動に、驚愕のあまり一瞬固まっていたツナンだったが、やっと我に返るとサノスケを力ずくで引き剥がそうとする。
『やめろ、サノスケ。ヒムラさんの服が濡れてしまうじゃないか』
 しかし、サノスケはツナンをぎっと睨み付けて、腕の中の剣心を離そうとはしない。
「ヒムラさん、こいつと既にお知り合いだったんですか。」
「ええ、実は、二日前に、ホテルの農園で。てっきりホテルの従業員だとばかり・・・」
「こいつには塀や門なんて意味がないんです。どこへでも好きな所へ入り込んでは、好き勝手にやらかすんだ。まあ、土地のものならこいつがどこで何をしようが誰も追い出したりはしませんしね。そうですか、お知り合いだったんですか。これはすごい偶然だ。縁があるんだな。しかしそのままでは気持ち悪いでしょう。着替えをお貸ししましょうか」
「いや、暑いからすぐに乾くでござろう。拙者よりツナン殿とサノスケの方が・・・」
 剣心がサノスケの名を口にした途端、彼から歓声があがる。何かを繰り返し剣心に請う。
「ヒムラさん、もう一度名前を呼んでもらいたいそうです」
 呆れながらツナンが通訳してくれる。
「サノ、スケ?」
「×××。」
「サノ、と呼んでくれ、と言っている。愛称なんだ」
「サノ」
 するととろけそうなほど優しい笑みを浮かべる。さらに何か話した。
『サノ、その人の名前はヒムラケンシン、ケンシンだ。お前の絵を気に入ってくれたよ』
 ツナンが剣心の代わりに答えてやる。
「ケン、シン。ケンシン!」
 何度も剣心の名前を呼びながら、頬をすりつけてくる。剣心はくすぐったくて笑いながら、呼ばれる度にサノスケの名を呼び返した。
「まったく、相当アンタの事が気に入ったみたいだな」
 ツナンは呆れたように、でも嬉しそうに言った。

 その後、剣心がツナンの絵のモデルをやるとわかったサノスケは一悶着起こしたが、剣心がなだめてなんとかふくれながらも収まり、今は剣心の膝を枕に眠りについていた。
「ヒムラさん、こいつの事について少し話しておこうか。」
 ツナンは熱心に剣心を見つめてキャンバスにスケッチしながら話し始めた。
「こいつはな、天涯孤独なんだ。15年前に、突然神々の住むアグン山の方からよちよち歩きのガキがひとり下りてきた。バリアンという白魔術を行う呪術師のもとに、その子供はバロンの子だというお告げがおりた。それでみんなは、その子をバロンの子と呼んでみんなで育てた。それがサノスケだ。サノスケという名前は、ウブドゥに移住してきた日本人の画家がつけた。その人はサガラソウゾウという人で、子供たちの為に学校を作って教師をしていた。俺に日本語と絵を教えてくれたのはその人だ。サノスケはその人にすごくなついていた。サノスケはな、最初言葉がしゃべれなかったんだ。しゃべれない、というより、話す必要がなかった。自分の感情を言葉を使わないで相手に伝え、相手の感情も読みとる力があったんだ。少しでもあいつと一緒にいたなら、なんとなく俺の言っている事がわかるだろう?」
 こくりと剣心は頷いた。考えている事が全て伝わるわけではないが、大まかな感情が通じ合う感じがして、不思議な安堵を覚えた。
「でも、それを気持ち悪がる奴も大勢いたんだ。その気持ち悪いという感情もサノスケは感じ取ってしまって、傷つく事が何度もあった。サノスケが負の感情にとらわれると、側にいる生き物は全てその感情の影響を受けてしまう。例えば、花が枯れたり、感情が伝染したりする。先生は、周りの人間とサノスケ自身を守るために言葉を教えて、その力を押さえる方法を身につけさせたんだ。サノスケは、心の有り様もひどく純粋で、生まれたばかりの赤ん坊のように無防備なんだ。悪意を持つ人間は一目で見破れるし力もひどく強いから普段は問題ないんだがな。俺たちが8つの時、先生が病気で死んだんだ。その時は本当に酷かった。俺も悲しかったが、サノスケは見てられなかったよ。感情が爆発してしまって、村の人間は全員悲しみで立っていられなくなり、農作物もほとんど枯れてしまった」
「そんな事が・・・」
 剣心は、驚きをもって膝の上で健やかな寝息を立てるサノスケを見た。
「まさにそいつは、バロンの子なんだよ。」

 スケッチが一段落し、サノスケが目をさますとツナンはバリ料理を作ってごちそうしてくれた。バルコニーで星空を眺めながら、椰子の樹液から作るアラックという酒を飲み、ツナンとサノスケの子供の頃の話などを聞いて楽しく時を過ごしたのだった。帰りはツナンが車でホテルまで送ってくれたのだが、どうしてもサノスケが剣心から離れようとしないので、後は自分で帰れ、とツナンは一足先に帰って行った。
 広いヴィラの中を、サノスケは歓声を上げながら探検して回っている。
「サノ、ここが気に入った?」
 剣心はもう、無理にバリの言葉を話すのを止めた。全ては伝わらなくとも、大体の感情ならわかるからだ。天蓋付きのベッドに腰掛けてサノスケに話しかける。
 サノが、レストルームの方から白いものを持って帰ってきた。手に、サノスケが渡した白い花を持っている。螢はどこかへ行ってしまったが、剣心はその白い花を大事に活けておいたのだ。
「ああ、その花、まだ綺麗に咲いてるでござるな」
 サノスケも、剣心のとなりに腰掛ける。向き合うと、じっと見つめてきた。キラキラと輝くどこまでも澄んだ瞳をしている。剣心は思わず引き込まれてしまった。
「サノ・・・」
 吐息混じりの声で、剣心が囁く。
 すると、次の瞬間胸が痛くなるほど強く、愛しい、という感情が胸に溢れてきた。サノスケが、何か呟いている。
「サノ、これはサノの感情・・・?」
 近づいてくるサノスケの瞳に捕らえられながら、掠れた声で剣心はささやく。
「でも、拙者も同じでござるよ、サノ・・・。」
 とうとう、うっとりと剣心は目を閉じた。次の瞬間、暖かくて柔らかい感触が唇に触れる。その時、やっと剣心は自分たちが恋に落ちている事に気付いたのだった。
 体中の力がふうっと抜けて、そのままベッドに倒れ込む。サノスケは唇を離さずに剣心を追って上に覆い被さった。小さく音を立てて唇を何度も重ねながら、ゆっくりと剣心の肌を露わにしていく。至る所に口づけて小さな紅い花びらを落としながら、何度も剣心の名を呼んだ。剣心もその度にサノの名を呼んで答えた。
 サノスケに触れられる度に、どこもかもがビリビリと震えた。これほど人の肌に触れる事で歓喜が得られるなど思ってもみなかった。サノスケの事を知らなかった自分は、半分死んでいたも同然のように感じる。
 『ケンシン、ケンシンの中に入りたい。ケンシンとひとつになりたい。いいか?』
 サノスケが真剣な潤んだ瞳で問いかける。汗で濡れた髪が愛おしくて、剣心はそっと手を伸ばした。まっすぐに見つめる瞳はただ、自分だけを見つめている。彼の瞳の中が、自分の姿でいっぱいになっているのがわかった。これほど自分が誰かに強く求められるなんて、思いもしなかった。彼が望むのなら、自分の全てを。剣心はこくりと頷いた。
お互いこらえきれずに性急に繋がった時、体中に悦びが溢れる。寸分の隙間もなくぴったりとくっつき、身体の一番深いところでお互いの存在を感じる。どうして今までお互いなしで生きてこられたのだろう。うまれてからずっと探し求めていたものをやっと手に入れたという安堵に剣心は涙をこぼした。
 そして同時に絶頂を極めた時、お互いの名を呼び、きつく抱きしめあったのだった。
 二度と離れたくない、その時お互いの心を占めていた感情は、それが全てだった。
 そうして、ふたりの蜜月は始まった。

 次の日、サノスケの目に飛び込んできたのは、綺麗な赤い色の絹糸のような髪だった。そうだ、昨日自分たちはとうとうひとつになったのだ。一目見て、生まれて初めて心から欲しいと思った、この人と。
 昨日の剣心の事を思い出して、サノスケはひとり頬を赤らめる。考えただけでまたしたくなってしまったけれど、ぐっと我慢した。昨日だってついついやりすぎてしまって、この人を気絶させてしまったのだから。この人を傷つける事は絶対にしない。もしこの人が泣いてしまったら、自分は辛くて生きていられないだろう。
 髪や頬を撫でて寝顔を見つめていると、その人は目を覚ましてしまった。昨日の事を怒っていないかどうか気になって、ついつい上目遣いになってしまう。その人はサノスケの顔をみてくすっと笑うと、おはようのキスをしてくれた。
 よかった。怒っていない。サノスケは嬉しくて溜まらなくなる。
 感情が溢れ、我慢できずにぎゅっと抱きしめる。しばらくシーツの中に潜り込んでつつきあって遊んでいたが、外が騒がしくて顔を出した。
「何事でござろう」
 ふたりは一緒のシーツにくるまってベランダへ出てみる。
 剣心は庭を見て目を見張った。庭にある全ての花が季節も関係なく一斉に咲き誇り、どの植物も明らかに昨夜よりも異常に生長し、その勢いはヴィラを覆うまでになっているのだ。
「すごい・・・!」
 宿泊客や従業員もみんな庭へ出て呆然としている。
「ケンシン、」
 サノスケがシーツから出て、剣心に白い花束を渡す。
「え、これは昨日の白い花・・・。一体どこで?」
 ふと床を見ると、あの白い花がびっしりと咲いているではないか。
「まさか、サノが・・・?」
 この植物の異常な生長も、この花もサノスケの感情のせいとしか説明のしようがない。花はきっと、昨日ベッドへサノスケが持ってきた花が床へ落ちて増えてしまったのだろう。
「綺麗でござるな、サノ」
 剣心はそういって、優しく口づけたのだった。

 その日の午後、剣心はフロントへ向かった。宿泊者がひとり増えた事を伝えて追加の料金を加算してもらうためだ。フロント係に申し出ると、なぜかホテルの支配人が呼ばれた。
 剣心は昨夜、勝手にひとり泊めてしまった事を詫びたが、支配人はにこやかに笑って手を振った。
「失礼ですが、今一緒にいらっしゃるのは、サノスケでしょう。今朝、植物の様子を見て、彼がここに来ていることはすぐわかりました。サノスケなら、大歓迎です。彼はどこへでも好きに入り込みますし、誰も追い出したりはしません。彼はバロンの子です。彼がいる場所は浄められ、祝福が与えられるのです。彼がここに居てくれるというのなら、こちらとしては願ってもない事ですよ。サノスケは住民みんなに愛されています。特に、女の子たちにはね。」
 そう言って支配人はにっこりと笑った。
 その時、サノスケが剣心を追ってフロントへやってきた。
『やあ、サノスケ。元気かい?』
『ああ、絶好調!おっさんも元気そうだな。ガキどもともこの間一緒に遊んだぜ。みんな元気いっぱいだ』
 サノスケはそう言いながら剣心を背中から抱きしめる。
 支配人はその様子に少し驚きながらも、日本語で言った。
「彼はバロンの子と言われていますが、すっかり村に馴染んでいるし、一緒に育ってきた若者たちは、彼が神聖である事は承知しながらも友達として接しています。信心深い年寄りなどは彼に祈ったりする者もいますが、我々にとっては大事な家族なんですよ。・・・彼を、よろしく頼みます」
 頭を下げられ、複雑な心境になる剣心であった。

 それから3日間、ふたりは片時も離れずに時を過ごした。ほとんどヴィラにこもって、昼夜関わらず交わった。お互いだけで染まっていく日々は、たまらなく幸せだった。ふたりはほとんど一糸まとわぬまま暮らしていた。それはまるで原始人に戻ったようで、楽しかった。アダムとイヴみたいだ、と剣心は思った。
 夜、ふたりは花を浮かべた露天風呂に入っていた。見上げると満天の星だ。アロマキャンドルの灯りがあたりを暖かい色で染めていた。
 サノスケは背中から剣心を抱き、首筋や髪に口づけを落としている。その間にも、悪戯な指先は剣心の胸の蕾を見つけてくりくりとこね回してきた。その度に剣心の身体はびくびくと震える。
 もう片方の手が、深く沈んで剣心の足の間に滑り込んだ。あっ、と掠れた声を出すのに構わず、ゆっくりと手を動かし始めた。風呂の内部はジャグジーの泡のせいで見えないのだが、サノスケの腕が動く度に剣心が甘い溜め息をもらして、よけいに淫靡な感じがしている。
「サノ、サノ、もう、来て・・・」
 サノスケは両足を高く抱えて持ち上げた。水面から剣心のふとももから先の足が露わになる。足を大きく開かせると、ゆっくりと身体を沈めさせた。
「あんっ」
 それまでに何度も交わっていたせいで、比較的すんなりと奥まで入りこんだ。しばらく小さく動かしていたが、段々と大きく突き上げ始める。剣心は外まで聞こえるかと思うほど大きな声ではしたない嬌声を上げ続けた。ふたりはばしゃばしゃと水音を響かせながら身体を揺らし続ける。やがて剣心の足先が痙攣したように震えだす。
「ああっ、サノ、ダメ、お湯の中に出ちゃうからっ」
 しかしサノスケは構わず、更にきつく突き上げた。
「ああっ、ダメえっ・・・!」
 剣心が一際高い声で悲鳴をあげた途端、サノスケも剣心を強く抱きしめて声を上げた。次の瞬間、剣心が身体の奥に注がれた熱い蜜にびくん、びくんと震えた。
「ダメって言ったのに・・・、サノのばか」
 いたたまれずに顔を赤らめる剣心に、サノスケは悪びれずにわざと剣心にお湯をかけてくる。
「ばかサノ、エッチ!」
 そしてふたりは大騒ぎしながらお湯をかけあって遊ぶのだった。

 そしてサノスケとヴィラにこもって4日が過ぎた。最初の予定では、明日帰国することになっている。サノスケが眠っているのを見計らい、剣心はずっと切っていた携帯電話の電源を入れ、ワヤンに連絡を取った。4日前、ツナンのモデルをしたりして過ごすのでしばらく連絡は取らないと言っておいたのだが、案の定ワヤンは酷く心配していた。
「大丈夫ですか、ヒムラさん。困ったことはないですか?」
「困ったことはないのでござるが、実は少し滞在を延ばそうかと思って。飛行機の変更の方、お願いできるでござろうか。」
「はい、チケットはオープンなので変更は可能ですが、何かあったんですか?」
「いや、ただもう帰るのがもったいなくて。一応、一週間後の同じ便にお願いするでござる。ホテルの延泊の方は、拙者の方から話しておくでござるから・・・」
「いえ、ホテルの方もこちらでやります。でも、よかったです、ヒムラさんバリ気に入っていただけたんですね。私うれしい。変更ができたらまたご連絡します。」
 それから国際電話をかける。しばらくコールした後、尊大な口調で返事があった。
「師匠、俺です。長い間連絡しなくて済みませんでした。お変わりないですか?」
「お変わりなんかあってたまるか。お前が居なくて静かなもんで、いい作品がどんどん仕上がってありがたいくらいなもんだ。それより、休暇中に電話なんかしてくるな。電話なんか通じる所にいるのか。せっかくの休みなのにつまらん奴だ」
 相変わらずの相手に溜め息をつきながらも、頼みがあるのでぐっと我慢する。
「明日帰る予定だったんですが、もう少し居たいと思いまして。一週間帰るのが遅くなってもよろしいでしょうか。」
「好きにしろ。もともと俺の時の予定は3週間だったんだ。それをお前が自分で1週間に縮めたんだろうが。そんなこといちいちガキの使いじゃあるまいしお伺い立てるな、バカ者。なんならもう帰ってこなくてもいいぞ」
「・・・わかりました。ではそういう事で」
 剣心はむっとしながら電話を切った。まったく、腹の立つ男だ。
 その時サノスケが声に気付いたのか起き出してきた。心配そうに剣心を抱きしめる。
「ああ、起こしてしまったな。すまない。ベッドに戻ろう」
 そうしてまた、ふたりはふたりだけの世界に戻っていった。そのようにしてまた、三日が過ぎた。
 さすがにヴィラに閉じこもりっぱなしは止めたが、ふたりはいつも一緒にいた。買い物をしたり一緒にバリ舞踊や影絵、ガムランの演奏を聴きに行ったり、村々を散歩したりして過ごす。そして夜は濃密に交わった。幸せな時間は、流れるように過ぎ去っていった。
 帰りたくない。ずっと、ここでサノと一緒にいたい。
 その思いは日増しに強まっていく。それに、もし帰るとしても、サノにどうやって説明すればいいのかわからない。剣心はもう一週間予定を延ばした。しかし、それは問題を先延ばしするだけである事もよくわかっていた。剣心は費用のかさむホテルを出て、どこか安いロスメン(民宿)に泊まろうと思っていたが、サノスケがだったら自分の家に来いと言い出した。サノは無邪気に、自分の家で一緒に暮らせる、と喜んでいた。
 サノの家というのは、朽ちた寺院だった。ずっと昔に何かいわれがあって建てられ、その後廃れてしまった寺院の跡にサノはひとりで暮らしているのだそうだ。寺院の跡に住んでいても咎められないのは、サノがバロンの子だと思われているからだろう。
 たくさんの苔むした石の彫像が並ぶそこには清浄な空気が流れている。鬱蒼と緑が生い茂り、トッケーの鳴き声が響いていた。中は涼しく、意外に快適だ。全て自分で作ったのだという木製の家具が置かれ、外には冷たい水の湧いている井戸があった。庭の木にはハンモックが揺れている。
「ステキなお家でござるな、サノ」
 サノスケは自慢げに胸を張った。
 ずっとここで暮らそう、とサノは真剣な目をして剣心に言う。彼が何を言っているのか今ではもうほとんど伝わってしまう。剣心は曖昧に返事を返した。無邪気に喜ぶサノスケの姿が辛い。
「サノ、絵は描かないのでござるか?拙者、サノと出会ってから一度も絵を描いている所を見たことがないでござる。」
『絵?』
「そう、絵でござるよ。絵を描くのは好きでござろう?」
 するとサノスケはつまらなそうにこう答えた。
『今は、絵を描くよりケンシンと一緒に居るほうが楽しい。絵なんて、もうつまんねぇ』
 その言葉は、少なからず剣心にショックを与えた。自分が、サノから絵を描く事を奪ってしまった。剣心は目の前が暗くなる思いがした。
 そしてサノスケの家に移ってから9日目の事。ツナンがふたりの住む家にやってきたのだった。
「久しぶりだな、ヒムラさん。お元気でしたか」
「すっかりご無沙汰してしまって済みません。絵の方はいかがでしょうか?」
「おかげさまで順調にすすんでいる。なんとかフェスティバルには間に合いそうだ。それより、サノは居るかな」
「今、ちょっと買い物に出掛けていますが、何か・・・?」
「ヒムラさん、サノは絵を描いていますか」
 その問いに、剣心は身体を強ばらせた。
「いいえ、私が見ている限りでは・・・」
「実は、サノもそのフェスティバルに出品する事が決まってるんだ。俺が推して、特別に許可された。今回のフェスティバルで、サノの絵は初めて公にでる事になる。フェスティバルは政府主催のもので、たくさんの人の力を借りている。今更出品を辞退するわけにはいかないんだ。特別に頼んで出品を許可してもらったのに作品が出ないでは、この先の活動が難しくなる。アンタも少しはこの世界のことを知っているんだろう。俺が言っている事の意味は充分理解できるな?」
 剣心は震える身体を押さえながら頷いた。
「この間サノに会ったんだ。そしたらあいつは、アンタに夢中でもう絵を描く気なんて無くしちまってた。だが、アンタいつかは日本に帰るんだろう?日本での生活があって、それを捨てるわけにはいかないんだろう。どうするつもりなんだ?」
 剣心には返す言葉もない。座り込んでしまいたいのを必死に耐えた。
「ヒムラさん、アンタ日本に帰ってくれ」
 言葉が刃となって剣心を切り裂いた。
「残酷な事をいうようだが、このままだとサノスケの画家としての将来はない。サノの未来を、奪わないでくれ。頼む。俺はサノスケの才能に惚れ込んでいる。みすみすダメになるのを見ている事はできない」
 剣心は沈黙の後、口を開いた。
「ツナン殿、本当に申し訳ない。拙者などをサノに紹介した事を悔いておられるだろう。おっしゃる通りでござる。拙者も早くしなければと思っていながら、つい先延ばしにしてしまって・・・。ご心痛をおかけした。拙者、明日にでも日本に帰るでござる。」
「そうか。済まない。ありがとう、ヒムラさん」
「謝るのは拙者の方でござる。でも・・・、サノに何と言っていいのか、正直わからないんでござる。サノの悲しむ顔は見たくない」
「後は俺に任せてくれ。ヒムラさんは黙っていればいい」
「面倒な役回りを任せてしまって、申し訳ない。本当に、済みません」
 ツナンが去った後、剣心はしばらく呆然と立ちつくしていたが、やがて糸が切れたようにぺたりと座り込むと、嗚咽を漏らした。しかしサノスケに気付かれる訳にはいかない。剣心は必死でこみ上げる嗚咽を飲み込むのだった。

 そしてその夜、剣心はサノスケの腕の中で、これがもう最後なのだと心に秘め、ぽろぽろと真珠のような涙をこぼした。
 事の最中に剣心が涙を流すのはいつもの事で、サノスケは一粒も零さないで舐め取るのだったが、その夜はサノが吸い取る前に剣心が手で拭ってしまった。自分が決心した事を、サノスケに伝わってしまう事を剣心は恐れた。
 サノスケは無邪気に、明日剣心と一緒に行くつもりの、蓮の花が一面に浮かんでいる石作りの庭園の話をしては嬉しそうに笑った。
 今日も空には満天の星が光り輝いている。そうして最後の夜は静かに過ぎていった。

 そして早朝、まだ暗い頃に剣心は目を開けた。そっとサノスケの腕の中から抜け出す。
 子供のように安らかな顔で眠っているサノスケに、ふっと笑みをもらす。
「ケン、シィン・・・」
 満足そうに笑いながら、サノスケが小さく寝言を言った。剣心の匂いの残る枕をぎゅっと抱きしめる。
「サノ・・・っ」
 優しく笑みをもらしていた剣心の顔が、くしゃりと歪んだ。
「サノ、さようなら・・・」
 そっと最後の口づけを交わした。ぽつり、と剣心の涙がサノの頬に落ちる。
 外から、車のやってくる音が響いてくる。ワヤンの車だ。
 剣心は振り払うようにサノスケから視線を離すと、一度も振り返ろうとせず、トランクを持って出ていった。
 サノの頬に落ちた涙が、流れ星のように光りながら頬を伝っていった。

 

続き

 

 

 

 

 

FC2 キャッシング 無料HP ブログ(blog)
inserted by FC2 system