それから、一年の月日が流れた。
 剣心は以前と変わらない生活を送っていた。
 以前と違うところといえば、少し食が細くなり、代わりに透き通るような儚さを身にまとうようになった事くらいだった。
 時折、どこか遠くを見ているような目をする事があったが、それを振り払うように仕事をこなした。今まで他人に任せていた事も自分で引き受け、激務の中に身を置いている事で、考える事を拒否しているかのようだった。
 子供の頃から剣心を育ててきた養父は、そんな剣心の様子に気付きながらも何も言わないでいてくれた。
 そうして、一見忙しいながらも穏やかな毎日が続いていたある日の事。養父の作品の個展が青山のギャラリーで行われ、そのレセプションパーティーの会場で、ある若い男性が声をかけてきた。
「ちょっとよろしいですか。初めまして、私、画商をしております、四乃森という者ですが・・・」
 と、名刺を手渡す。
「実は、少しお話したい事がございまして。いつでもよろしいのですが、少しお時間いただけませんでしょうか。」
「どういったご用件でしょうか?比古の作品の事でしたら・・・」
「いや、個人的な事といいますか・・・。貴方ご自身についてのお話で。あ、と言いましても何かご迷惑になるような事ではございません。お時間も取りませんので、ぜひお願いいたします」
 不審に思った剣心だったが、その男は剣心も名前を知っている画商で、歳はあまり変わらないのだが新進の作家の作品をいち早く取り上げて世に出すので有名な男だった。彼の真剣さに押し切られる形で、一緒に昼食を取る約束を交わした。
 約束の店に少し遅れてついた剣心は、奥の個室に通された。薄暗い店内は中に小川が流れ、小さな魚が泳いでいる。いたるところに植物が植えられ、自然の雰囲気をだしていた。
「お待たせしてすみませんでした。」
 既に来ていた相手は、慌てて手をふる。
「いえ、わざわざお手間を取らせてすみませんでした。」
 それからしばらく食事をとりながら世間話などをしていたのだが、ふと彼がこんな話を始めた。
「実は先日まで、僕は休暇も兼ねてバリのウブドに行ってたんです。ご存じかもしれませんが、ウブドはバリ絵画の中心地ですから。何か掘り出し物があればと思って行ったんですが、そこで僕は素晴らしい絵に出会ったんです。なんと言いますか、絵を見た途端に、心が引き絞られて、子供みたいに泣き出したくなったんです。僕はすっかり感服してしてしまって、ぜひその作家の絵を扱わせてもらおうと思って調べたんですよ。その作家は去年のバリ絵画フェスティバルで大賞を受賞してデビューした新進気鋭の若手でした。ひとつのモティーフを追求して描いているらしくて、作品は意外とたくさんあるし、どれも大変に素晴らしい出来なので買いたいと申し出たのですが、本人が絵を手放したがらないので売れない、と言うんです。画家が絵を売らないでどうやって食べていくのかわかりませんが、とにかく絵は売れない、の一点張りで。マネージメントをしている人にどれだけ頼んでも、画家本人にも絶対に会わせてくれないんですよ。おかしな話だとは思ったんですが、暖簾に腕押しで。取引はできなくても、自分の為にどうしても作品が欲しいと思ったので必死に頼み込んで、小さな絵をひとつだけ譲ってもらいました。それが、こちらなんです。どうぞ、ご覧になってください。」
 彼はクッションのついたケースから小さなキャンバスを取り出すと、剣心に手渡した。
 絵を手にした途端、剣心の頭に電撃が走った。そこに描かれていたのは、優しい表情を浮かべた自分自身の姿だったのだ。
 鉛筆だけで描かれたその絵は、非常に精緻なタッチで、今にも動き出しそうなほど忠実に剣心の姿を写しとっていた。瞳の虹彩からちょっとした表情の動き、髪の流れる感じ、爪の形までが、剣心そのものだった。そして何より、絵を手にした途端に心に激しい勢いで流れ込んできたのは、身震いするほど激しい激情だった。様々な感情がないまぜになって、剣心を容赦なくうち倒す。
 声もなく、絵を持つ手を震わせる剣心に、彼は静かに語り続けた。
「本当に素晴らしい絵です。この絵に出会った時、僕が今まで見てきた絵は一体何だったんだろうと思った。見た途端に、これほど強い感情を見るものに与える絵は他にないでしょう。そして何より、僕はこの絵の中の人に強く惹かれたんです。でも、実際にいる人とは思わなかったんです。人種や性別を越えた美を体現した、画家の作り出したミューズだとばかり思っていた。だから、この間のレセプションであなたを見かけた時は本当に驚きました。緋村さんは最近まで、比古先生のマネージメントはされていても対外的な取材は他の方に任せておられたでしょう。私のような青二才は、大御所の先生がたとお取り引きする力もなくて、緋村さんの事を存じ上げなかったんです。だから他の画商にあなたの事を聞いたら笑われてしまいましたよ。」
 黙って絵を見続けている剣心に、彼は続けた。
「この絵の中の人物が実際に存在して、目の前にいる事にあの時はすごく興奮してしまって、思わずお声をかけてしまいました。絵をお見せしてどうしようという事もないのですが、ぜひお目に掛けたかったのです。」
 やっと剣心は掠れた声で、冷静を装いながら答えた。
「とても素晴らしいものを見せていただき、ありがとうございました。」
 そういって、絵を彼に返す。
「ああ、いけない、お時間を取らせてしまいました。出ましょうか」
 彼は別れ際にこんな事を言った。
「そうそう、この絵の作家は、サガラサノスケという名前の方でした。バリ人なのだそうですが、日本の名前で変わっていますよね。・・・それで、これをご縁に、というのも変な言い方ですが、もしよろしかったらまたお会いしていただけませんでしょうか?」
「あ、はい・・・」
 剣心は、先の言葉の方に驚き、曖昧に返事を返した。しかし彼はその返事に喜び、笑顔で去って行ったのだった。
 一体どうやって家まで辿り着いたのか、まるで覚えていない。ただただ、様々な感情が一挙に押し寄せ、剣心に襲いかかった。この一年、頭の中から追い出してきた、いつか緩やかに忘れていくだろうと思い、胸を引き裂くような痛みにも耐えてきたのに。こんなにも鮮やかに、サノはこの胸の中にいる。
 剣心はとうとう耐えきれなくなって、嗚咽をもらし、泣き崩れた。

 数日後、剣心は四乃森と会う約束をした表参道のオープンカフェへと向かった。彼はまた先に来ていて、座っていた席から手を振った。
「お忙しいところ申し訳ない。また会ってくださるなんて、とても嬉しいです。・・・実は、まだ信じられない気分なんです、あの絵の方とこうしてご一緒できるなんて。」
 その言葉に剣心は俯いた。あの絵の伝えてきた感情が胸によみがえるようだ。
 しかし相手はそんな態度にも気付かないふりをしてくれた。四乃森は今も、サノスケの絵の取引を完全に諦めたわけではなさそうだ。明らかに絵のモデルである剣心に、事情を問いつめたいのはやまやまのはずだが、彼はあえてその事に触れないでいてくれる。その思いやりに剣心は救われる思いだった。
 四乃森は、サノスケとは正反対の人物だった。サノスケは動物的な勘や本能で剣心の思いをくみ取るが、四乃森は常に紳士的な態度を崩さず、理性的に剣心の感情を判断している。
 正直、どちらかと言えば四乃森と一緒にいる方が気は楽だった。何も考えないでも、四乃森の方で気を回してくれる。サノスケと一緒にいる時は、一瞬一瞬が激しい陶酔の連続のようなもので、常にぶつけられる一直線の愛情に翻弄されっぱなしだった。四乃森といる時、剣心の心は凪のように穏やかで静かな気分でいられた。しかしその気楽さにかまけて、考えてしまうのはサノスケの事ばかりだ。
 こんな時、サノだったらこう言うだろう、サノだったらきっと、あの太陽のような笑顔で笑うだろう・・・。
 サノスケの事を頭から追い出す為に四乃森と会っているのに、心に浮かぶのは彼の事ばかりなのだ。
 四乃森は、剣心にカサブランカの花束を手渡した。
「ちょうど青山通りにある花屋を通りかかって、この花が緋村さんにぴったりだと思いまして。どうぞ」
 大きく、絹のような手触りの白百合は、おしべを綺麗に切り取られて傲然と花開いている。きつい香りが辺りを包んだ。
 サノが初めてくれた花は、小さな鈴蘭のような姿の雑草だった。
「・・・・光る花を、」
「え?」
「光る花を、ご存じですか?」
「光る?そんな花があるんですか?」
 あの時もらった花は、すぐに枯れてしまったけれどどうしても捨てられなくて、本に挟んで押し花にした。今は見る影もなくかさかさに乾いて、触れただけで崩れてしまいそうだ。
 剣心は曖昧にほほえんだ。
「ええ。押し花にして持っています。もう光らないし、ぼろぼろなんですけど。・・・持っていても、どうしようもないってわかっているのに、捨てられないものってありますよね」
「大切な、思い出がつまっているんですね」
 四乃森は優しい声で言った。
 剣心は俯いてしまう。彼の声は低くて優しい声だけれど、サノの声とは全然違っていて、その事に違和感を感じている自分がいる。
「僕の大切な物は、最近まであのバリで買った絵でしたが、今はもう違います。生きている人がいるってわかりましたから」
 少し顔を赤らめて言う相手を見ても、違和感ばかりが先立つ。
「緋村さんの宝物は、何ですか?」
 どうして目の前にいるのがサノスケではないのだろうと、無意識のうちに感じている自分に剣心は愕然とした。
「・・・・宝物、でござるか?」
 一番大切な物。なくしては生きていけないもの。水、空気、太陽そして・・・
「・・・・・・・っ」
 剣心は両手で顔を覆った。
「緋村さん、だいじょうぶですか?!」
 両手の指の間から、とめどもなく透明な滴がこぼれて、四乃森は声を失った。ただ、彼の背を撫でる事しかできない。
「・・・すみません、四乃森さん。拙者、行かなくては。」
「だいじょうぶですか?」
「はい。やっとわかりました。宝物の所へ、行きます。本当に申し訳ございませんでした。許してください」
 剣心はなおも頬をぬらしながら四乃森に頭を下げた。
「行って、しまわれるんですね・・・。」
「・・・・はい。」
「わかりました。・・・お気をつけて。」
 四乃森は、剣心の手を取って一緒に立ち上がった。
「四乃森殿、色々とありがとうございました。」
「いいえ、僕の方こそ、お会いできて幸せでした。」
 剣心は濡れた頬のまま、ほほえんだ。その笑顔はまるで、花が一気に開くように見事で、四乃森は声もなく見つめた。
 そうして去っていく彼の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った後、彼は溜め息をついて座り込んだ。
「これで、宝物は絵に逆戻りか」
 あの人は、絵が一瞬見せてくれた美しい幻だったのだ。四乃森はそう思う事にして、冷たくなったエスプレッソを飲み込み、苦さに顔をしかめるのだった。

 その日の夜。
 剣心は比古の部屋をノックした。
「師匠、お話があるんです。」
「何だ」
 彼はきちんと剣心に向き合って尋ねた。
「お暇を、いただきたいんです」
「・・・仕事を、辞めたいという事か」
「・・・はい。」
「それで、どうするつもりなんだ」
「家も、出たいと思います。」
「・・・・そうか。お前が決めたのならそれもいいだろう」
 あっさりと比古は頷いた。
「どこへでも、好きに行くといい。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな。自分が居ないと世の中がたちいかないなんて、偉そうな事を考えるな。」
 冷たく突き放したような比古の言葉が、実は剣心の背中を暖かく押してくれている事に剣心は気付いていた。
「・・・ありがとうございます、師匠。今まで、本当にお世話になりました。」
 部屋から剣心が出ていった後、比古は深い溜め息をついた。決心するまで、一年もかかりやがって。つまらんことをぐちゃぐちゃと考えすぎる、あいつの悪い癖だ。
自分の本当の幸せへ向かって、やっと自分の足で歩きだしたかわいい馬鹿弟子の未来を祈って、案外俺も親馬鹿だと苦笑いする比古の背中には、一抹の寂しさが滲んでいた。

 それから数週間後、剣心は成田空港にいた。デンパザール行きの飛行機にチェックインして、搭乗を待つ。もうこの日本に、剣心の帰る家はない。
 サノは許してくれないかもしれない。自分にとって何が一番大切か、一番大切なものを手にしながら気付かなかった、自分は本当に愚かだった。許してもらえなくても、誰に非難されても、もう迷わない。
「サノ、今行くから」

 ツナンは、食べ物の詰まった袋を抱えてサノスケの家の中に入る。
「サノ、いるか」
 部屋の中は荒れ果て、足の踏み場もない有様だ。
 部屋の奥に、果たしてサノスケはいた。
 一心不乱にキャンバスへ向かっている。そして部屋の中は、ひとりの人物の絵で埋め尽くされていた。笑う顔、恍惚に揺れる顔、泣き顔、優しい顔。様々な姿態、様々な表情のひとりの人が、様々な色彩に彩られてサノスケの周りを取り囲み、まるで陽炎のように揺れた。
「サノ、ちゃんと食べないとダメだ。もう3日もろくに食べてないじゃないか」
 無理矢理キャンバスから引き離し、持ってきた食べ物を与える。
 サノスケは食べ物に口をつけようとせず、ただ同じ言葉を繰り返した。そう、一年前のあの日から、サノスケはひとつの言葉しか話さなくなってしまったのだ。
「ケンシンがいないんだ。ケンシンはどこにいるんだろう?」
 あの日、目覚めて剣心がいない事に気付いたサノスケは、ウブド中を探し回った。そしてツナンから剣心は日本に帰ったのだと教えられると、村中の人間が気絶するほどの悲しみにくれた。ツナンは、他の人間がサノの絶望にあてられて自殺をするのをくい止める為に、人里離れた神々の山へサノを連れていった。しばらく、ツナンも近づけない日々が続いたが、ある日突然感情の伝染がなくなっている事に気付いて行ってみると、サノスケは地面に絵を描いていたのだ。以前言葉を学ぶ事で感情の伝播を止める術を学んだように、結果的に、剣心の絵に感情を込める事で、外へ思いが漏れる事を止められたのだった。
 それから毎日、狂ったようにサノスケは絵を描き続けた。それまでのサノスケの絵は、天与の才は明らかであったが技術的に稚拙だったのだが、剣心の絵は驚くほど写実的だった。自分の中に焼き付いた彼の姿を、必死の思いで描き写す事で恐ろしいまでのデッサン力を身につけたのだ。サノの絵はあっという間に評判になったが、サノは自分の絵を誰にも譲ろうとしなかった。日に日にサノの周りは剣心の絵で埋め尽くされていったが、彼はただ「ケンシンがいない」と呟くばかりだった。
 ツナンは無理矢理食べさせるのを諦め、また来ると言い残して帰った。
 自分は、やはり間違っていたのかもしれない。絵を描いている時だけ異様に輝き、後は死んだようになっているサノスケのやつれた顔を思い出し、ツナンは顔を覆った。
 サノスケの天与の才は開花し、世の中に認められた。ツナンの望みは叶った。しかし、こんな事を望んでいたわけではなかったのだ。
「サノ、済まない・・・。許してくれ」
 ツナンは頭を抱えながら何度も繰り返した。
 静けさに耐えられなくなって、ツナンはめったにつけないテレビをつけた。さきほどポストに入っていた郵便を確認する。
「これは・・・?」
 日本からのエアメールを見つけ、差出人の名前を確認するとあわてて封を切った。
 手紙は剣心からだった。
 この一年、自分はサノスケの事を忘れようとしたけれどもかなわなかった。あの時、自分は何が一番大切なのか気付いていなかったのだ。きっとサノは許してくれないだろう、ツナンさんも許さないだろう。でも、自分はわがままになる事に決めた。サノの側に一生いたい。もしサノがまた絵を描かなくなるというなら、自分はもうサノの前に姿を現さなくてもいい。初めてサノと出会った日、7月7日の七夕の日に、もう一度バリへ行きます。日本にはもう、帰りません。ツナンさん、ごめんなさい。サノの側にいることを、せめてサノのいるバリで暮らす事を、許してください。
「サノ・・・!ヒムラさんが、帰ってくるぞ!もう、ヒムラさんがいないといって探さなくてもいい、悲しみを埋める為に絵を描くこともないんだ!」
 ツナンは、サノスケに知らせようと立ち上がった。7月7日、今日だ!椅子が音を立てて倒れるのも気にしない。車のキーを慌てて探し回る。
 その時、ふと今まで聞き流していたテレビの音声が耳に入った。
「繰り返します。先ほど、デンパザール空港沖の海上で、ガルーダ航空873便が墜落しました。当機は日本の成田からの便で・・・」
 やっと見つけたキーが、カシャンと音を立てて床へ落ちた。

 夜になってようやく、搭乗者の名前が発表された。そのリストの中に、剣心の名前があった。

 結局、生存者はひとりもみつからないまま捜索は打ち切られた。剣心の遺体はとうとう見つからなかった。飛行機が落ちたのは、魔女ランダが住むと言われる海で、村の長老でもある白魔術師は、魔女ランダの策略によって飛行機が落ちたのだと告げた。バロンの子の力をそぐ為に、バロンの子が一番大事にしているものを奪ったのだと。村では全員でこの穢れを払うための儀式を執り行った。
 ツナンは、「ケンシンはどこへ行ったのだろう」と呟くサノスケに、剣心は死んだのだと血を吐く思いで告げた。
 しかし、サノスケは「死んだ」という言葉に首を傾げた。言葉の意味がわからない、とでもいうように、不思議そうな顔をしてしばらく何やら考えるふうだったが、またサノスケはキャンバスの前へと戻っていった。部屋にはただ、ツナンの嗚咽が漏れるばかりだった。

 それから一月後の夜。
 サノスケは夢を見た。その夜も絵の制作に疲れ切り、そのまま気絶したようになって眠っていると、夢の中にケンシンが出てきたのだ。サノスケが見る夢は、剣心と出会ってからというもの彼が出てくるものばかりだったけれど、その日は少し違っていた。
 バリ舞踊のきらびやかな衣装を身にまとった剣心が、金の鳥籠の中に閉じこめられているのだ。剣心は真珠の涙をこぼし、サノスケの名を呼んだ。慌てて助けようとするのだが、邪悪な力が辺りを覆っていてどうしても近づけない。最後にいやらしい女の哄笑が響き、剣心は暗黒に包まれていってしまった。
 汗をびっしょりかいて跳ね起きたサノスケは、暗闇の中でつぶやく。「ケンシン・・・?そこに、いるのか・・・?」
 そしてそのままサノスケは立ち上がり、海側、カジャの方へ向かって歩いていった。

 次の日、ツナンはサノスケがいなくなっているのにきづいた。村中が総出で探し回ったが、どこにも見つからなかった。ただ、新聞配達の少年が、朝早くに邪悪なカジャの方向へ向かって歩いていくサノスケの姿を見ていた。散歩のような感じで歩いていくサノスケに、どこへ行くのかと訪ねたら、「ケンシンを助けに行くのだ」と笑って答えたという。
 その日から1週間、海は恐ろしい嵐にみまわれ、荒れ続けた。
 結局サノスケは二度とウブドへ帰ってはこなかった。ツナンのもとには、何百枚にも及ぶ剣心の絵が残された。ツナンはサノスケの住んでいた家を改造して、小さな美術館を作り、サノスケの絵を飾った。そして訪れる数少ない人々に、剣心とサノスケの物語を語っている。
 時折ツナンは夢見るのだ、きっとサノスケはランダの魔手から剣心を助け出し、ふたりは神々の山で幸せに暮らしているのだと。
「そうなんだろ、なあ。ヒムラさん、サノスケ・・・。」
 サノスケの作品はほとんどが剣心の姿を描いたものだが、ひとつだけ違う作品があった。真っ黒なクレヨンで画面を塗りつぶし、そのクレヨンを釘で削って描いた星空の絵だ。なぜそんな絵を描いたのかツナンにはさっぱりわからなかったのだが。
 それはふたりが初めて出会った七夕の夜、剣心の瞳に写っていた星の絵だったのだ。絵の裏には、稚拙な文字で、『世界で一番きれいな星」』と書いてあった。
 そして今日もバリの星空は、あの日と同じように降るほどの星が瞬いている。
 ずっと、ずっと。

 

 

 

 

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