紫陽花の涙

 

 

 そのひとと出会ったのはほんの偶然。
 左之助は粋筋の女友達のひとりの部屋で夕食をご馳走になった後、空模様を理由に帰すまいとする女を振って帰途についたのだった。
 季節は梅雨の初め。
 ぼんやりした春の日々はゆっくりと終わりを告げ、むしむしとした日本独特の梅雨がやってきていた。空は薄暗い曇模様。
 せめてもの心遣いと、女が別れ際に押しつけてきたのは、赤い女物の傘。
 帰りに降られて風邪でもひかせたら大変と言いながらも、看病するのも楽しみだけど、と笑う女から仕方なく傘を受け取る。
 女の部屋を出てから暫くして、しとしとと雨が降り出した。
 女物の傘など、と思ったが、雨が降っているのに傘をささないでいるのも不自然で、仕方なく傘を広げた。
 ただでさえ人並み外れた長身の上、真っ赤な傘は曇り空の中で一際目立った。傘の下には、悪一文字の印半纏に切れあがった眦の男伊達。
 赤い女物の傘が、いかにも粋な遊び人風でよく似合っている。
 鼻歌混じりに歩いて、小さな空き地に通りがかった時、左之助は見てしまった。
 傘の赤に負けないくらい明るい色の髪をした小さなひとが、ぽつんと立ち尽しているのを。
 どんよりとした空の下、目を閉じて天を仰ぎ、ただ雨に身を任せる、小さな姿。
 雨に濡れて貼りついた白い着物が細い肩の線を露わにしていて、うなじに貼りついた長い髪の先からは真珠のような粒がこぼれていた。
 左之助はその光景に、金縛りにあったように動けない。
 吸い寄せられるように、そのひとの側に近づく。
 そして傘をさしかけてこう声をかけた。
 「嬢ちゃん、あんまり雨に濡れると体に毒だぜ」
 するとそのひとはゆっくりと目を開け、左之助を見た。
 左之助はそのひとの目を見て驚いた。
この国の者はみな、黒い瞳をもつものだ。まれに薄い色の者がいても、茶色であったりとこれほど明るい色をした者などいない。しかしこの者は実に不思議な目の色をしていた。
 薄い青のような、しかし次の瞬間には深い緑のような。そうかと思えば明るい紫。まるで紫陽花の花のように、その色彩は変化を見せる。
 思わず吸い込まれそうになって、声を失う。
 するとそのひとはにっこりと笑って、ちいさく口を動かした。
 『アリガトウ。』
 口が利けないのだろうか、そのひとの声は聞こえなかったけれど、その意志は感じ取れる。
 そしてその人物は女性ではないという事を左之助は悟った。なぜなら、ゆるく着付けた着物から覗いた胸は白く平らであったからだ。
 左之助は慌てて謝った。
「すまねえ、てっきり女だとばっかり…。お嬢呼ばわりして済まなかったな」
 そのひとは大きく目を見開いて首をちょっと傾げると、くすりと笑った。
 どうやら怒りを買いはしなかったらしいという安堵と、何故か高揚している気持ちとを持て余す。
「あんた、この辺りに住んでんじゃねえんだろ。なり見りゃわかるさ、おさむらいさん、それもおぼっちゃん、ってとこだろ?そんなにずぶぬれじゃあ帰って叱られるぜ。風邪もひいちまわあ。よかったらこの傘、持っていきねぇ。俺んちはすぐ側だし、なにしろ俺はあんたより丈夫そうだしな。」
 そう言って傘を差し出すのだが、その傘が女物の、それも真っ赤なものだったと気付いた。先ほど女に間違えたところだ。あまりに間が悪い。
「いや、別に女物の傘だからって言ってるんじゃねぇんだ。ただ、あんたが濡れてるのがどうにも気になって…。すまねえ」
 するとそのひとはクスクスと笑う。その笑顔から目が離せない。
『アリガトウ。』
 そのひとはまたそう口を動かすと、左之助から傘を受け取った。
 細い指先が、左之助の喧嘩慣れした無骨な手に一瞬触れた。
 ひんやりとして冷たく、濡れた感触。
 まるで爪紅でも塗っているかのようにほんのり桜色の爪先は、見ているだけで左之助の胸を締め付けた。
 そしてそのひとは笑顔で頭をさげると、赤い傘をさして立ち去って行く。
 その赤い傘は彼の髪の色と白い袴にとても似合って、まるで一枚の錦絵のようだ。
 左之助はぼんやりと見惚れたまま、彼を見送る。
 彼が角を曲がったところで、はっと我に帰った左之助は慌てて後と追った。しかしどこへ行ったのか、その影さえ見つける事は出来なかった。
 降りしきる雨に打たれるまましばし、立ち尽す。少し前まで彼がここに居た事さえ夢のようだ。
 しかし、今彼の手に傘がない事が、今の出来事が本当にあったことだと証明していた。
 そして我に帰った左之助は、傘が自分のものでなく、女から借りたものだった事に思い至って、今度会った時の言い訳をに頭を痛めるのだった。
 代わりの傘を買ってやるのはよいとしても、傘をなくしたと言って素直に信じるとは思えない。嫉妬深い女はもともと相手にしていないが、ひと悶着あるかもしれない。
 しかし、左之助の頭を占めていたのはただ、もう二度と会う事もないだろうあのひとの事だった。

 次の日の事。
 左之助の長屋の前に、紫陽花の花が一枝、置かれていたのだった。
 この長屋には、隣人に花を贈るような風流な者はひとりもいない。皆、ごろつきの名に恥じない荒くれた野郎どもばかりだ。
 時折、危険を顧みない無鉄砲な娘が左之助の部屋に押しかけてくる事もあったが、そういう娘のアプローチはこれほど控えめではない。
 それも、この東東京に名を馳せた喧嘩屋斬左に花を贈って喜ばれるなどと、一体だれが思うだろうか。
 左之助は左の字の障子に立てかけられた、まだ蕾の紫陽花をそっと手に取る。
 普段まるで花など気にかけもしない左之助だ。そのまま放り投げて捨ててしまうかと思いきや、小さな桶をひっぱり出すと水を汲んで、その中に花を放り込んだ。
 なぜそのような行動にでたのか、左之助自身にもはっきりとはしない。ただ、その紫陽花の花の微妙な色あいが、あのひとの目の色に似ていたような気が、したのだった。

 そして、その夜。
 一度も花など飾ったことのない左之助の部屋で、ほの白く光る一枝の紫陽花。
 左之助は明かりも灯さずに、ぼんやりとまだ蕾ばかりの枝を見つめていた。
 外はまた、しとしとと霧のように細かい雨が降り始めている。
 ふと気配を感じて、障子に目をやると、うっすらと写るは人の影。
「誰でぇ、黙って突っ立ってねぇで何とか言いねぇ」
 しかし一向に応えはない。苛立った左之助は荒々しく障子を開け放った。
 そこに立っていたのは、夜にも浮きあがって見えるほど鮮やかな緋色。
 左之助は声を失った。
 そのひとは、昨日と同じ笑顔を見せると、手に持っていた紫陽花の一枝を左之助に差し出した。
 我に帰った左之助は、差し出されるまま花を受け取る。
 改めてそのひとをみると、もう片方の手には昨日左之助が渡した赤い傘が握られていた。しかし、傘を使った形跡はなく、昨日と同じく頭からつま先までぐっしょりと濡れそぼっている。
「なんだ、わざわざ傘返しに来てくれたのか。でもまたびしょ濡れじゃねぇか。傘ぁ、役に立たなかったのか?それともやっぱり、女物の傘なんざ、使う気もしなかったかい」
 くるくると色味を変える瞳にじっと見つめられて、何となく落ちつかない左之助は喋らない相手の代わりに常になく饒舌になる。
「それにしても、そのなりじゃ今度こそ風邪ひくぜ。入りねぇ」
 そう言って、左之助には珍しく得体の知れない人間を部屋へ招き入れたのだった。

 それから、しばしばそのひとが左之助の長屋を訪れるようになった。
 彼の訪れは、決まって雨の夜。
 いつも雨に濡れたままの姿で、赤い傘と一枝の紫陽花を手に持ってやってくる。
 あの日、左之助は彼に言ったのだ、今夜も雨だから、傘を持って行けばいい、と。
 そうして彼は、左之助の部屋へやってくる度に傘を持ってきて、そして傘を持って帰っているようだった。
なぜ推定かと言えば、左之助は一度も彼が帰るところを見た事がない。いつもいつのまにかひどい眠気に襲われて、気付いた時には彼の姿はないからだ。
 そして目覚めると必ず傘はなくて、代わりのように紫陽花の花が増えていくのだ。
 夜の間一体何をしているかと言えば、ただ左之助が他愛もない話をして、それを嬉しそうに彼が聞いている、というだけだ。
 彼はどうやら本当に口が利けないらしかった。笑う度にちろりと覗く桃色の舌は、まるで声を出すためのものではないようだった。その上、彼は左之助が勧める食べ物も一切口にしない。時折左之助の呑む酒を舐めてはすぐに頬を赤らめるばかりだ。
 口も利かず、ものも食べず。
 左之助は初め、どこぞのお大尽の物狂いの息子が、夜な夜な家を抜け出しているのかと思っていた。しかし、途中から左之助にはそんな事どうでもよくなっていた。彼がどこの誰であろうと、雨の日に左之助のもとへやってくる事は変わらないのだから。
 「いつも、雨の夜にだけ来るんだな」
 左之助は濡れて額にかかる髪をそっと梳いてやりながら呟く。
 「俺ァ雨なんざ鬱陶しくて嫌いだったけどよ…。なんでだろうな、最近雨が楽しみになってきたみてぇだ」
 毎日左之助は夕方になると空を見上げるのが日課になっていった。そして雨が降りそうな夜は決まって大人しく家に帰るのだ。

 そうして、一週間が過ぎた頃。
 そのひとの姿は、日ごと違った風に見えた。
 鮮やかな髪の色さえ、濃い紫のようであったり、日輪の色のようであったり。万華鏡のように印象を変える彼から目が離せない。
 そう気付いた時には、頭の中が彼でいっぱいになっていた。
 腕の中に優しく閉じ込めて、その色をいつまでも見つめていたい。
 その思いが押さえきれなくなった時、左之助はそのひとを抱き締めていた。
 部屋に広がるのは、静かな雨垂れの音。いつも何故か雨に濡れて現れる彼の髪からは、清浄なやさしい紫陽花の香り。
 口のきけない彼はただ、静かに左之助の腕の中に収まっている。
 俺を、拒んでいないのだろうか。
 たまらない焦燥が胸を焼いて、左之助はそっとそのひとの目を覗き込む。
 そこにはいつものように不思議な色を湛えた瞳があって、左之助をじっと見つめている。
 そしてその目は、左之助を拒んではいなかった。細くて冷たい指が、ゆっくりと左之助のせなに回っていく。
 その指と腕の感触に、左之助の中の何かがぞくぞくと震えた。
 左之助はゆっくりとそのひとを横たえていく。乱暴にあつかえば、繊細なこのひとは壊れてしまうかもしれない。
 まだ雨に濡れている髪を優しく撫で、ふっくらとした花びらのような唇にくちづける。
 食べる代わりに左之助の舌を味あわせ、話す代わりに左之助の思いを伝える。
 小さく震えている彼の吐息が頬にかかった時、左之助の意識は飛んだ。

 それから、左之助にとって雨の夜が全てになった。
 あの夜、左之助は彼の秘密を知った。
彼が、女でもなく男でもない、とても稀有な存在である事を。
 その天使のような彼を、自分が汚してしまったような気がして気がとがめたりもしたが、あのひとの透き通るような笑顔を見るとそんな思いはどこかへ吹き飛び、ただ腕の中へ閉じ込める事だけでいっぱいになってしまう。
 夜だけしか会えないのが辛くて、昼間の彼の居場所を突き止めようとしたのだが、どうしても朝方の眠気が抑えられずにひとりきりの目覚めを苦く味わう。
 そしてしっとりと雨を吸い込んだ布団と、その上に散らばる小さな紫陽花の花びらに彼を想って、胸を締付けられるのだった。
 声も素性も名前さえも知らない、男とも女とも言えない不思議な存在に、心を捕らわれている。
 そう、左之助は彼に夢中だった。寝ても覚めても彼の事ばかり。
 そして毎日のように増えていく紫陽花は、少しづつその花を開き始めていた。

 日に日にそのひとは鮮やかになっていった。
 初めて出会った時も、目が離せなくなるほど惹きつけられたものだったが、今や彼は花のように咲き誇っていた。
 目のきらめき、透き通る肌、しなやかな手足。きっとどんなものが見ても、一目で心を奪われるだろう。
 左之助は時折嫉妬に駆られて彼を問い詰めた。どこに住んでいるのか、名は何というのか。しかし、その度に彼は悲しそうにうつむいて首を振るのだった。
 左之助は彼を抱き締めて眠る時、このまま時が止まってしまえばいいと思った。突然現れた彼は、突然消えてしまうかもしれない。左之助にはその事だけが恐ろしかった。
 彼を知るまで、一体自分がどうやって生きていたのかさえいまやおぼろだ。
 何も恐れた事などない左之助の心に、恐怖を教えたのは彼の腕の中に納まってしまうほど小さなそのひとだった。

今や左之助の部屋は紫陽花の花でいっぱいだった。そしてその全てが、今が盛りと咲き誇っていた。
 その中でも一際美しさを誇るのが、そのひと。
 しかし、見惚れる左之助とは対照的に、そのひとはどこか切なそうな目をしている。
「どうした?どっか具合でも悪りぃのか?」
気遣う左之助に、そのひとはいつになく心を乱し、持ってきた紫陽花の花を引き千切るとバラバラにしてしまった。
「どうしたってんでぇ、折角綺麗に咲いてたのによ」
 左之助は優しく抱き締めてやる。
 そのひとは、左之助の厚い胸に縋りついて静かに泣いた。
 泣いているというのにやはり少しも声は出ないで、静かに静かに泣き続ける。
 涙はぽとぽとと音を立てて引き千切られた紫陽花の花の上へと落ちた。
 そのひとを、悦び以外に泣かせたのは初めてで、左之助はまるで少年のようにうろたえた。必死でなだめ、抱き締めて頭をなでる。
 しかしそのひとの涙は止まず、左之助の手を濡らし続けたのだった。
 だれよりも大切だと思うそのひとが泣いているのに、何もできない自分が歯痒ゆかった。
 そのひとが笑ってくれるならば、自分は何だってするのに。
 しかしそのひとはただ、左之助の腕の中で、静かに静かに泣くのだった。

 左之助は、少しでもたくさんの約束をそのひとと交わそうとした。明日の約束、明後日の約束。それを積み重ねてゆけば、永遠になるに違いない。左之助はそう目論んでいた。
 しかしそのひとといえば、今夜来るかどうかさえあやふやなのだった。
 今にも消えてしまいそうな、その薄い影。
 夢のような優美さ、そして儚さ。
 それらはますます左之助を不安にさせた。

 そしてある夜、左之助はそのひとに、ずっと胸に収めてきた言葉を告げた。
 ずっと側にいて欲しい。
 その言葉を聞いた途端、そのひとは切なそうに笑った。
 左之助はそれを承諾と捉えて、天にも上る心地になった。
 しかし。
 次の日の夜、雨だというのに、彼はやってこなかった。

 左之助は焼けつきそうな胸の痛みと、目の前が暗くなりそうなほどの絶望に耐えて夜を明かした。雨が戸を叩く度に、彼が来たのではないかと障子を開けて確かめる。
 何がいけなかったのだろう。彼はもう二度と来ないつもりなのだろうか。しかし、前の晩に持ってきていた赤い傘は、左之助の部屋にない。
 その事実だけが、左之助の心を辛うじて支えていた。

 そして数日が、無為に過ぎて行った。
 左之助はその日からほとんど一睡もしないで彼を待ちつづけた。
 きっと世界中のどの人間より、雨の夜を待ち望んだ。
 梅雨ももう終わりが近づき、左之助の部屋にある紫陽花の花はみな盛りをすぎていまや生気を失い、ぐったりとしていた。

 そして、左之助にとって気が遠くなるほどの時間が過ぎた、ある夜。
 静かに雨が降る中、左之助の長屋の前に影が写った。
 左之助は、あわてて障子を開け放った。
 そこには、焦がれ続けたそのひとの姿。
 しかしその顔からは生気が失われ、あれほどつややかだった唇は灰色に色あせ震えていた。目は黒く落ち窪み、ふらついて左之助の腕に倒れこむ。
「どうした…!具合が悪いのか?!」
 しかしそのひとは浅い呼吸を漏らしながらも、にっこりと笑った。
「とにかく中入れ、真っ青だぞ」
 左之助はそのひとを部屋の中へ招き入れようとした。
 しかし、左之助の手を抑えてそれを拒む。
「どうした?」
 その間にも、彼の顔は紙のように血の気を失っていく。
 腕の中の体が、どんどん重みを失っていく気がして、左之助は思わず腕を強く掴む。
「おい、一体どうしたんだ?おい!」
『サノ、』
 干乾びた唇が動く。
『サノ・・スケ、』
「どうした?何か言いたいのか?」
 左之助は必死で先を促がす。
 そのひとの目を、じっと見る。きらきらと、様々な色が交じり合いながら揺れている。
 瞬間左之助は悟った、腕の中の体から、確実に生気が失われていくのを。
 こんな時なのに思う事は、なんて綺麗なんだろう、とかそんな事ばかりで。
 ついこの間まで、左之助の腕の中で、これ以上ないほど美しく咲き誇っていたのに。
 左之助はその考えを認めたくなくて頭を振る。しかし、彼の本能がそれを事実として告げていた。
「おい、待ってくれよ、おい、」
 握った砂が、手の平から零れ落ちるように。
 そのひとの存在が失われていく。
「頼む、待ってくれ、頼む・・・」
 左之助は震える腕で必死に彼を抱き締める。
「おい、待ってくれよ、行かないでくれ、頼む、頼むよ、」
 左之助は震える声で訴える。
 また、腕の中が軽くなる。
 左之助はもうほとんど悲鳴のような声で呼びかける。
 なぜ、こんなにも突然彼を失わなければならないのか。
 産まれて初めてこれほどいとおしく思った存在を、もぎ取られなければならないのか。
 しかし左之助には、自分の腕の中から命が零れ落ちていくのをとめる事ができない。
『サノスケ、オネガイ。』
「いやだ、聞かねえ。聞いたら、いっちまうつもりだろ。ずっと側にいてくれなんて、思いあがりだった。ただ、消えないでくれよ、頼むから・・・!」
 そのひとは、震える腕を持ち上げ、左之助の硬い頬を撫でた。
 冷たい、指先。
『ヒトツダケ、オネガイ。』
 左之助は必死で唇の動きを読む。
『アジサイノハナガサイタラ、スコシデイイカラ、オモイダシテ』
「どうしてだよ…。どうしてこんな事…」
『セッシャモ、ズットサノトイッショニ、イタカッタ』
 両手で、左之助の頬を包む。
『オモイアガリハ、セッシャノホウ。』
 そう言って、静かに、そしてとても綺麗に、笑った。
 大きな揺れる瞳から、ひとつぶの雫がすうと流れて、
 そうしてそのひとは目を閉じた。
 左之助の腕の中の小さな体は光を発し、小さな粒となって弾けて…、左之助はそのまま意識を失った。

 そして次の日。
 早朝、左之助は目を覚ました。
 空は明るく晴れ渡り、鳥の鳴き声が響いている、清々しい朝。
 左之助はふと、あるものを手に握ったままなのに気付いた。
 そこには、数日前ならさぞ見事であったろう、大きな紫陽花の花が一輪。
 ぐったりと枯れ果てていた。
 左之助は、そっとその花を両手で包むと、優しいくちづけをひとつ、おくった。
 左之助の長屋の前にそっと置かれた赤い傘から、光を纏った雫がぽつりと落ちた。
 梅雨の季節は、終わりを告げた。
 夏が、始まろうとしていた。

 

 

終劇

 

 

 

 

 

 

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