チョコレート革命

 

ある静かな街に、小さなかわいいお家がありました。そこでは、赤い髪をした小さなかわいい人がひとりでお菓子を作っていました。このお話は、その小さなお菓子屋さんを巡る小さな恋のお話です。

 

★In the ShowCase★

 coeur de l'epee、それがそのお店の名前でした。クリーム色の壁をしたヨーロッパ風の小さな2階建て一軒家、お店の前には綺麗なガーデニングが施され、色とりどりの花が咲き乱れています。お店の中はいつも女の子たちでいっぱい。その日作った分が無くなってしまえばおしまいです。かわいいお店に加えて、ケーキもとても美味しかったので毎日夕方には全部売りきれてしまうのでした。
 お店をひとりで切り盛りしているのは、赤い髪をした小さなひとです。いつもにこにこして人当たりがよく、とても愛らしい姿をしていてそれも評判でした。名前を、緋村剣心、といいました。
 お店が開店したのは去年の9月の事でした。
 剣心は以前の知り合いにはほとんど知らせないでお店を出したので、静かな開店になりました。この街には知り合いも全くなく、偶然通りがかって町並みや雰囲気が気に入ったというだけでお店を出す事を決めたのでした。誰も知らないこの街で、小さなお菓子屋さんとしてひっそりと暮らしたかったのです。
 そうして迎えたその日の夕方、ある出来事が起こりました。
 お客が途切れた合間に店の前に飾った鉢植えに水をやっていた時、路上で激しい音が響いたのです。驚いて目をやると、道路の上では大きなバイクに乗っていた男性が派手に転んでいたのでした。側では驚いて泣き叫ぶ子供と、ひたすら謝る母親らしき女性の姿。どうやら、母親が目を離した隙に子供が道に飛び出し、避けようとしてバイクが転倒したようでした。幸い子供もライダーにも怪我はなく、バイクにひどい傷跡がついただけで済んだようでした。

 
剣心は泣き止まない子供に店で焼いたクッキーを一袋取ってきて渡し、頭を撫でてやりました。ヘルメットを被った男性はバイクの傷を気にする母親に手を振り、ハーレーの黒いバイクを軽々と起こすとなんだか慌てた風に去って行きました。その出来事はあまり剣心の意識に残る事はなく、数日後には忘れてしまいました。
 そうして始まった剣心の新しい生活でしたが、2週間ほど経った頃には、ささやかな楽しみが出来ていました。午前中の遅い時間と夕方閉店前の2回、ひとりの背の高い青年が店の前を通りすぎるのです。きっと近所に住んでいるのでしょう、毎日ほぼ決まった時間に通りすぎる彼の事がなんとなく気になるようになっていました。180センチ以上はある長身にツンツンと元気に尖った髪、野性的な眉と切れ長な瞳、高い鼻梁。体中から明るい力が溢れだしていて、一度目にしたら忘れられない目をしていました。
 長い足で悠々と店の前を通りすぎる、その時間は約5秒。
 行きと帰りで一日にして10秒、それが剣心にとってとても楽しみな時間になっていました。毎日の彼の服装を見たり、(彼は大抵カジュアルで、ヒステリックグラマーなんかも着たりしているのですが時々はモード系の格好もしていたり、プラダやポールスミスのスーツを着ていたりもしました)彼がやってくる時間が近づくとなんとなくそわそわして、彼の姿を写す店のウインドウに何度も目をやっては時計とにらめっこするようになりました。そして彼が遅いと何かあったのではないかと気になり仕事も上の空になりがちでした。
 剣心は一度も言葉さえ交わした事のない彼の事を、いろいろ想像する楽しみを覚えました。背が高いしオシャレだし、もしかしたらモデルなのかもしれない。年は何歳だろう?きっと10代の終わりか20代の始め。いつも私服だから大学生だろうか。それとも私立の高校生?
 しかし彼は一度も、お店のドアを開けて中に入って来る事はありませんでした。きっと甘いものは好きじゃないんだろうな、そう考えて剣心はちょっとがっかりしました。剣心が見る彼の姿はいつも、店のウインドウ越しに見る横顔ばかり。それでも毎日店の前を通りすぎる彼の姿を見てはなんとなく幸せな気持ちで一日を過ごすのでした。

 

★Out of the window★

 その日朝目覚めた時、今日が運命の日だとは左之助は気付かずにいました。いつも通り寝坊して、いつも通り愛車のハーレーにまたがり、学校へ向かいます。いつも通りの、変わらない平坦な日常。しかし運命の日は、そんな日常に紛れ込んでいたのです。
 ひさびさにバイトもなくたまにはまっすぐ家に帰ろうとバイクを走らせていた時、それは起こりました。
 いつもバイクで走りすぎるだけの道に、最近できた白い洋風の家。その前に並べられた植木鉢に水をやるエプロン姿の人を目にした時、左之助の背筋にビリッと電気が走りました。自分が何を目にしたのかわからず混乱したとたん、目の前に子供が飛び出してきて…、いつもだったら楽に避けられる障害物、しかしらしくなくバランスを崩して派手に転んでしまったのです。地面に転がりながら彼が見たのは、驚いた表情をしてこちらを見つめるエプロンのその人。
『ダ、ダセェ・・・』
 最悪の出会いに激しく落ち込みながらも改めて見るその人の姿。ふんわりした長い髪は茜色。抜けるように白い肌、ほっそりした首、どこもかしこも小さな体。中でも印象的な、大きな青みがかった瞳。なぜかどんどん激しくなる鼓動を持て余し、左之助は逃げるようにその場から去るしかなかったのでした。
 バイクを飛ばしながら、『何やってんだ俺は!どうしちまったんだ!何で一言でも声かけられなかったんだ!なんだこのザマ!それでも俺様なのかーッ!?』と心で叫んで咽び泣く、相楽左之助19歳の秋でした。
 次の日から、左之助はバイク通学を止めてしまいました。あの洋風の家で、その人がケーキ屋さんをやっているのを知ってから、(後からこっそり覗きに来た人。笑)毎日マンションから歩いて学校に通う事にしたのです。歩いて通れば、バイクで通るよりゆっくり、確実にその人の姿を見る事ができます。といっても、不審がられないで通るにはせいぜい5秒。それ以上では不自然だし、立ち止まる勇気もありませんでした。
 いつもの左之助なら、すぐに声を掛けてデートの約束のひとつもとりつけたでしょう。でも、その人の姿を見るとらしくもなくドキドキしてしまって、まるで初恋をした中学生のようになってしまうのです。
『初恋・・?』
 その考えに思い至って左之助は愕然としました。そういえば、ものごころついてから女性に不自由したことのない彼でしたが、今まで恋というものをした事がなかったのです。その人の事をいつも考えてしまって、悩んだり天にも上る心地になったり。そんな気持ちは初めてで、それを恋というのだと彼はやっと気付きました。彼は19歳にして、初めての恋に落ちてしまったのです。
 きっとあの人は、自分の事など知りもしないに違いありません。毎日ただ店の前を通りすぎるだけの通行人。最初の出会いだって、左之助はヘルメットを被っていたし(まああんなマヌケな姿、顔を見られなくてよかったけれど)剣心のお店はとてもかわいいしお客は女の人ばかりで、左之助が入っていける雰囲気ではなかったのです。いつも左之助はウインドウ越しに、ショーケースに並べられた色とりどりのケーキとその向こうにいる小さな人を横目でちらっと見るだけで一日幸せな気分だったのでした。

 

★In the ShowCase★

 そろそろ、やってくる頃かな。剣心はそう思って窓の向こうを見ました。今は夕刻。今日作ったケーキはほとんど売れてしまって、目の前では学校帰りの高校生たちが残り少ないお菓子を物色中でした。剣心はちらちらと外を気にしながら注文を取ります。
「あ・・・」
 彼がやってきました。カーキ色のダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、インディゴブルーに褪せたジーンズに包まれた長い足で歩いてきます。剣心は思わず小さな声を上げてしまいました。
 1、2、3、4、5秒。通りすぎる時、少しだけこちらを見たような気が、しました。
 剣心が声をあげたので、後ろを振り向いた高校生たちは途端に嬌声をあげました。
「きゃーっ、あれ相楽先輩じゃない?絶対そうだよ!」
きゃあきゃあと騒ぐ女の子たちの話にそっと耳を傾けます。
 サガラ。
 ひとつ、彼の事を知る事ができました。
 でも、ちょっと知りたくない事も分かってしまいました。きっとそうだろうとは思っていましたが、彼はとても女の子たちに人気があるのです。
 そんな彼が、自分を見てくれる事など、ありえるはずもないのでした。
 年も(多分)10歳ほど上で、結婚経験ありで、その上男の自分など。
 そう思って、剣心は愕然としました。自分は、彼に自分の方を見てもらいたいと思っている?
 剣心はただ、毎日彼の姿を窓越しに見ているだけで幸せだったのです。なのに、いつのまにか彼に触れたいと、彼に自分の方を見て欲しいと思うようになっていたのです。
 その時やっと剣心は、自分が恋に落ちている事に気付いたのでした。
 絶対に叶う事のない、身のほど知らずの恋に。

 

★Out of the window★

こうしてあの人の店の前を通りすぎるようになってから、3ヶ月が経とうとしていました。
今日はクリスマスイヴ。左之助はたくさんの誘いを断り、いつものように歩いて帰りました。店の前に飾ってあるクリスマスツリーを眺めるふりをしながら、ちらっと店の中を覗きます。案の定今日はとても混んでいて、その人はとても忙しそうです。
でも、お店を閉めてから、あの人はどのようにイヴを過ごすのでしょうか。もしかしたら素敵な恋人がいて、(きっと自分よりは年下だから結婚はしていないに違いない、と左之助はふんでいました)その人とふたりでイヴを過ごすのでしょうか。あの人が作ったクリスマスディナーとケーキを食べて、プレゼントを贈りあい、それから・・・。
 そう考えて、左之助は手が震えました。誰か知らない男の腕の中にいるあの人。想像しただけでも嫉妬で胸が焼きつきそうです。嫉妬というのがどういう感情なのか、左之助は生まれて初めて身をもって知りました。恋というのがこんなに辛いものだとは思ってもみませんでした。そして今までの自分がどれほどひどい人間だったかも。
 左之助がらしくもなく純愛をしている事は、仲間の間では有名になっていました。今まではとっかえひっかえ、いつも何人かの女の子と平行して付き合いそれが当たり前だったのが、急に突然声も掛けられないような恋をしているのです。ここぞとばかりに散々友人たちにからかわれる毎日。でも、どうしてもドアを開ける勇気がないのでした。あの人に嫌われてしまったら?もしかしてもう恋人がいたら?そう思うと足がすくんでしまうのでした。
 溜息をついて立ち去ろうとした時、近所の奥様がたと思われる2人連れが、店から出てきました。艶のある真紅に、金でマークが入った店オリジナルの箱を持っています。クリスマスケーキを注文していたのでしょう。
「よかった、ここのケーキって凄く美味しくて評判でしょう、クリスマスケーキは限定だから予約間に合わないかと思ってたわ。」
「そうそう、知ってた?ここのお店て、実はフランスで5つ星のレストランで働いてた人が作ってるんですってよ。」
「ええっ?こんな小さなお店なのに?」
「私のお友達で料理研究家の人がいて、その人が言ってたの。一時は凄く有名なパテシィエだったんですってよ。ヨーロッパでも色んな賞を総なめだったんですって。」
「そうなの?!私、あのお店の職人さん見た事ないんだけど・・・」
「何言ってるの、あの赤い髪した人が作ってるのよ。」
「えっ、そうなの?私、あの人はてっきりバイトの女の子かと思ってたわ。」
「それがね、更にびっくりなんだけど。あの人、男らしいわよ。」
「ええーっ!!あの人、男だったの?!信じられない!」
「そうよ。びっくりよね。それに、年だって、もう30近いらしいわよ。ホント、人って見掛けによらないわよねー」
「信じられない!あの顔で男で、その上30だなんて、化け物だわ。」
 ふたりの主婦は中にいる人をちらちら見てひそひそ言い合いながら立ち去って行きました。後に残されたのは、衝撃に打ちのめされた左之助の抜け殻だけでした。
 その後、どうやってマンションまで辿りついたのか記憶が全くなく、そのまま左之助は1日寝込んでしまったのでした。

 

★In the ShowCase★

 クリスマスイヴの夕方に彼が店の前で立ち止まってくれた時、剣心の心は激しく高鳴りました。立ち止まったと言っても、自分を見てくれた訳じゃなくてクリスマスツリーを眺めていただけみたいでしたけれど。でも自分が飾ったツリーを彼が見てくれたというだけでも頬が熱くなるようでした。でも今日はとても忙しくて、折角立ち止まってくれたのによく見る事もできないまま、気付いた時には居なくなっていました。
 彼がさっきまで立っていた場所を見つめながらふうっ、と溜息をつきます。彼は今日、誰とイヴを過ごすのでしょうか?でも、そんな事自分が考えてみても仕方のない事。今日はただ、彼が立ち止まってくれた事だけを思って過ごそう、と心に誓うのでした。
 しかし、次の日、左之助は一度も店の前を通りませんでした。もしかして、風邪でもひいてしまったのでしょうか。しかし自分は彼の住んでいる所さえ知らないのです。病気、怪我・・?心配はどんどん広がって行きます。折角のクリスマスなのに・・・。
あ、そうか、と剣心は思いつきます。昨日はイヴ、今日はクリスマス。きっと彼は前日から恋人とどこかへ泊りがけで出かけたに違いありません。そうか、そうでござるよな。剣心は呟きました。あの男の子にイヴを過ごす彼女がいないなんて、そんな事ある訳ないではありませんか。
 剣心はそっと溜息をつきました。昨日も今日も、そして大晦日もお正月も、剣心はひとりで過ごします。そう、大切だったあの人を失ってから、自分はずっとひとりなのです。これからも、ずっと。大切な人を救えなかった自分に、誰かと一緒にいる資格などありはしないのです。ましてやあの太陽のように明るい目をした青年となど。
 目を閉じると、やせ細ったあの人の腕が目に浮かびます。
そうして剣心は自分の罪を改めて思い知るのでした。

 

★Out of the window★

 左之助はイヴの夜は放心して過ごし、クリスマスは狂ったように遊びまくり、踊りまわり、ナンパしまくって過ごしました。仲間たちはとうとう振られたか、と喜びました。なんせ、今まで一度も振られた事がないという左之助に、皆ちょっとつねってやりたい気がしていたからです。そして左之助もこれでちょっとはマトモになるかと思っていたのですが、あまりの荒れ様に心配もしていました。
 左之助は何とか我にかえってからは、あの人の事を頭から追い出そうと色々してみました。でも、どうしても無理でした。あの人がにっこり笑った笑顔を思い浮かべるだけで、胸がきゅうっとして熱くなってしまうのです。あれは30の男だ、と何度言い聞かせてみても無理でした。たくさんキレイな女の子と寝てもみましたが、目を閉じて浮かぶのはあの人のことばかりです。
 もう二度とあの店の前は通るまい、と心に決めたのに、気付くとあの店のそばに立っていました。3日ぶりに目にする、その人の姿。自分よりふたまわりは小さい体に、大きなつやつやした瞳。さくらんぼのような唇。
 ああ、と左之助は思わず声を漏らしました。どうして自分はこの人のことを忘れられるなんて思えたのでしょう?姿を見ただけでこんなにも切ないのに。吸い寄せられるように視界がその人でいっぱいになります。やっぱり俺はこの人が好きだ、と左之助は改めて思いました。男だろうが年上だろうが、そんな事は関係ないのです。自分が好きになったのは、この人なのですから。
 でも、と左之助は思います。俺はあの人が男だろうが年上だろうが関係ない。でも、あの人は年下の男なんか興味あるわけないよな。そう思うと、また落ち込んでしまう左之助でした。

 

★In the ShowCase★

 27日の夕方、3日ぶりに姿を見せた彼に剣心はほっと安堵すると同時に、やはり、と思いました。恋人とクリスマス旅行。その考えが頭を離れません。
 でもいいんだ、と剣心は自分に言い聞かせます。こうして姿を見せてくれる事で、自分はどれだけ彼に幸福をもらっている事でしょう。感謝を忘れてそれ以上を望むなど持っての他。彼が誰と一緒にいようが、自分の幸福には関係のない事です。
 小娘のように恋に落ちている自分に、剣心は苦笑を漏らします。まあ外見上間違われる事は多いし男性から告白された事も何度かあったけれど、自分は今まで男性に興味はなかったのです。一度は女性と結婚もしました。その人を病気で失ってからは、ずっとひとりでしたけれど。そんな自分が、ひとまわりも年下の男の子に恋するなど。一体どうしてしまったのでしょう?でも自分の心ほど思い通りにならないものはないのだと、改めて剣心は思い知らされていたのでした。

 

★Out of the window★

 今日は大晦日です。店は休みだから来てもしょうがないとわかっていながら、つい左之助はここへ足を運んでしまいました。あの人が、この家の2階に住んでいる事は知っていました。そしてその人の名前も。
 緋村剣心。
 お菓子の世界にはまるで興味のない左之助が、フランス人の友達まで動員して調べた結果、彼についてかなりの情報が集まっていました。彼は本当に有名なパテシィエだったらしく、彼の事を調べるのは簡単でした。高校を出てから単身ヨーロッパへ渡って修行をし、異例の抜擢で5ツ星レストランでパテシィエの地位についた事。数々の賞を総なめにし、ヨーロッパの有名レストランやホテルを渡り歩いていた事。そして、彼が結婚していた事。短い結婚生活の後、彼は妻を病気で亡くした事。彼の全てを受け入れる覚悟を決めていた左之助にとってもそれはショックな事実でした。そして更にショックだったのは、その病気というのが拒食症だったらしい、という事でした。料理人が、妻を拒食症で亡くす。その事の意味は、料理人ではない左之助にさえ重くささりました。いつも浮かべている優しい笑顔の裏にあるものを知って、左之助は切なくなりました。あの人の笑顔がどこか人を寄せ付けず寂しげだったのはそういうわけがあったのでした。
 左之助は店の前に立つと、その人がいるであろう2階を見上げました。彼は今何をしているのでしょうか?何とか自分の思いを伝えたい、と思いましたが、重い過去を抱えた彼に、自分が何と言っていいのかわかりません。ましてや自分は年下で、それも男なのですから。しばらく立ち尽くした後、左之助は溜息をついて立ち去りました。店が開くのは来年4日。あと5日間も彼の姿を見る事が出来ないのです。これほど憂鬱な正月は、うまれて初めての事でした。

 

★In the ShowCase★

 家の前から左之助が立ち去った直後、剣心は何となく窓から顔を出してみました。もしかしたら彼が前を通りかかるかもしれない、と思ったからです。でも彼の姿は現れません。きっと年末はどこかへ遊びに行ったか、帰省でもしているのでしょう。店に来る女の子たちの間でも近所に住む左之助の事はよく話題になっていて、剣心の耳にも入ってきました。彼の名前が左之助、という事。大学生だという事。時々モデルのバイトをやっている、という事。剣心はつい左之助が載っている雑誌を探して買ったはいいものの、恥ずかしくてよく見られないという有様でした。
 しばらく下を見ていた剣心でしたが、ふうっと溜息をついて首を振りました。あと5日も左之助の姿が見られないなんて、お正月なんて無ければいいのに、と思ってしまう剣心でした。

 

★Out of the window★

 無事21世紀がやってきて、日常がまた始まりました。相変わらず1日2回、合わせて10秒、窓越しに彼を見つめるだけの日々。自分と彼の間には、ぶあついウインドウとケーキの並んだショーケースがいつも立ちふさがっています。お客はだいたい女性が中心でしたが、たまに男性の客がいて親しげに剣心と話をしているのを見てしまうとはらわたが煮える思いでした。自分は店に入る事さえできないというのに。そう、左之助はまだ、剣心の作ったお菓子を食べた事だってないのです。もともと甘いものはあまり食べない方でしたが、剣心の作ったものなら話は別です。彼のあの小さな白い手で、大切に作られたであろうショーケースの中のお菓子たちを眺めては、お菓子になりたい、なんてバカな事を考える左之助でした。

 

★In the ShowCase★

 剣心は、作ったケーキをケースに並べながら思います。一度でいいから自分の作ったお菓子を彼に食べてもらえたら。甘いものが好きじゃないなら、甘くないお菓子を工夫して作る自信はあります。でも店に入ってきてくれない彼に、どうやって食べてもらう事ができるでしょう?剣心は途方に暮れてしまいます。ああ、そろそろバレンタインの為の準備も始めなきゃ、そう思ったとたん、ちょっとしたアイデアが剣心の頭に浮かびました。そう、彼に自分のお菓子を食べてもらえる素敵なアイデアが。

★Out of the window★

 何とかして剣心の作ったお菓子が食べたい。 左之助は溜息をついてカレンダーを眺めます。毎年この時期はお菓子の処分に困るのですが、今年だけは、どうしてもチョコを貰いたい相手がいました。でも、その為にはどうすればいいのか。左之助は頭を悩ませました。そして、ある事を思いついたのでした。そう、自分の事を知らない相手から、チョコをもらう方法を。実行の日は、もうすぐです。

 

★In the ShowCase★

 もうすぐ、お菓子屋さんにとって一番忙しい日、バレンタインがやってきます。剣心のお店ではバレンタイン用のカタログを作って予約注文を受けたり、チョコレートを使ったお菓子をたくさん用意していました。最高級のベルギー産チョコレートを使ったトリュフ。生チョコレート。チョコレートケーキにチョコレートムース、チョコレートプディング、チョコチップクッキー。女の子たちの思いを伝える大切なお菓子たちです。剣心は心を込めて作ります。
 そしてそんな忙しい合間をぬって、剣心はとっておきのトリュフを作っていました。日本ではとにかく口どけのよい生チョコが好まれますが、ヨーロッパではチョコレート本来の味を大事にした、ビターなものが好まれます。剣心はちょっと苦めの、最高のチョコレートをわざわざ取り寄せました。全ての女の子たちと剣心にとっての決戦の日は、もうそこまで迫っていました。

 

★Out of the window★

 そしてとうとうその日がやってきました。朝はいつも通りに通りすぎます。決行は夕方に決めていました。ものごころついてから、この日にこれほど緊張したのは初めてです。左之助は女の子の気持ちが少しわかった気がしました。
 学校の正門を入ったとたん、クラスの女の子たちから大きな袋を渡されます。今日は一日この袋を持って歩くように、と言い渡され、早速チョコレートやらプレゼントがどんどん入れられました。あっという間に大きな袋はいっぱいになり、予備の袋が用意されました。その日はいたる所で待ち伏せされ、遊び友達から全然知らない人、外国人から助教授、学食のおばさんまで、ありとあらゆるタイプの人からチョコを受け取りました。左之助にとっては毎年の出来事です。しかしどれほどたくさんのチョコを受け取っても、左之助が欲しいチョコはひとつだけです。気持ちはありがたく受け取りながらも、左之助の心は別の所へありました。

 

★In the ShowCase★

 朝、いつものように彼が通りすぎるのを見送った後、剣心はカウンターの棚に仕舞ってある箱に目をやりました。昨日徹夜して作った、スペシャルトリュフ。今日お店に並んであるチョコももちろん大切に作りましたけれど、このトリュフは特別です。なんといっても、初めて自分が渡す為に作ったチョコレートなのですから。いつもこの日は、自分以外の人たちの気持ちを伝えるためにチョコレート菓子を作ってきましたけれど、今年は自分自身の為のチョコを作ったのです。剣心はそっと、きれいにラッピングした箱を撫でました。カラン、と店のベルが鳴り、お客さんがやってきました剣心は箱を大事に仕舞うと、お客さんに笑いかけました。「いらっしゃいませ。」。今日は忙しくなりそうです。
 あっという間に一日が過ぎ、夕刻がやってきました。用意したチョコレート菓子はお昼過ぎにはほとんど無くなり、最後にはチョコレートを使っていないお菓子まで売れていきました。予約のケーキも全て受け取られ、バレンタインの一日は順調に過ぎていきます。
 もう何一つお菓子がなくなってしまったので、剣心はゆっくりと片づけをしながらある時を待っていました。チョコレートを買おうとお店を覗くお客さんはたくさんいましたが、からっぽになっているショーケースを見ては残念そうに去って行きます。もっとたくさん作っておけばよかったかな、と剣心は少し後悔しました。
 もうすぐ、左之助が通りかかる時間です。今日は特別冷えました。そうこうちしているうちに雪がちらほら降りはじめます。
剣心は、別に左之助に自分の気持ちを伝えるつもりはありませんでした。だって、知りもしない男から告白されたって左之助にとっては迷惑なだけだろうし、自分の恋が成就するなんて考えた事もなかったからです。ただ、自分が作ったチョコを食べてもらえれば、そう考えていました。だから、剣心は左之助が通りかかったら偶然を装ってこう言おうと思っていました、
『今日、このチョコレートだけ売れ残ってしまったんです、勿体無いし、残り物だけれど貰ってやってくれませんか?』
 剣心は口の中で何度も言葉を練習しました。不自然にならないように、嘘が見破られないように。
 その時です。カラン、と店のベルが鳴りました。剣心ははっと我にかえります。そこには、高校の制服を着たとてもかわいい女の子が頬を真っ赤に染めて立っていました。
「ごめんなさい、あの、チョコレート、ありますか?」
 そういいながら女の子はショーケースの中が空っぽなことに気づいたようでした。
「あ、もう売りきれちゃってます・・?」
「申し訳ないです、今日はもう・・」
 それでも女の子は諦めきれないらしく、必死の面持ちで訴えます。
「お願いします、どんなのでもいいし、ほんの少しだけでいいんです、どうしても・・、どうしても今いるんです。お願いします・・・!」
 でも、売り物のチョコレートはもうありません。キッチンにも、板チョコさえ残っていないのでした。剣心は一生懸命頭をさげるその女の子の様子を見ていると切ない気持ちになりました。その子の気持ちがよくわかったからです。
「渡してもしょうがないって思って、用意してなかったんです。でも・・、やっぱり今日しかない、って思いついて・・・」
 剣心は、カウンターに仕舞ってあった、あのスペシャルトリュフをとりだすと彼女に渡しました。
「はい、これ。持っていくといいでござるよ。」
 とたんに彼女の顔が輝きました。
「えっ!いいんですか?!でもこれ・・、」
「いいんでござる。よかったら、どうぞ。」
「ありがとうございます!おいくらですか?」
 剣心は首を振ってそのまま彼女に持たせました。
「今日は特別な日でござるから。気持ち、伝わるといいでござるな。」
 女の子は何度も頭を下げながら出て行きました。
  カラン、とドアが閉まった後で、剣心はふっと息をつきました。左之助に渡すチョコレートはなくなってしまったけれど、でも何となく心が暖かな感じがしていました。
 しかし次の瞬間、剣心はウインドウの外を見て息をつめました。雪の中を、左之助がやってきたのです。あっ、と思う間もなく、先ほどの女の子が左之助を呼びとめました。左之助はウインドウの前で立ち止まります。
 女の子が下を向きながら何か言って、剣心の渡した箱を差し出しました。
 左之助は頷いて、箱を受け取りました。
 女の子はそのまま走ってどこかへ行ってしまいました。
 左之助はウインドウの前で立ったまま、彼女を見送っていました。
 剣心はこの時少しだけ神様をうらみました。
 せめて目の前で起こって欲しくはない光景でした。だけど、雪の中であの女の子と左之助はとてもお似合いに見えました。先ほど自分が少女に与えた祝福が、
効を奏したように思えました。
 きっと左之助はこのまま行ってしまうでしょう。いつも通り。
 自分の手からは渡せなかったけれど、自分が作ったチョコを食べてもらえる目標は果たせたではありませんか。これでよかったのです。きっと左之助にとっても、この方がよかったのだと剣心は何度も自分に言い聞かせました。でも、ほんのちょっぴり痛む心を剣心は持て余していました。
 その時です。カラン、とまた店のベルが鳴りました。

 

★Out of the window★

 チョコがつまった袋をいくつも持ちながら、左之助はちょっと途方にくれていました。でも左之助にとって一成一代の大芝居はこれからです。
 空を見上げると、雪が降り始めていました。
 店の前にやってきた時、見知らぬ女の子が突然声を掛けてきました。
「あっ、あのっ!い、いつもここの道、通ってらっしゃいますよね。私、私いつも見てました。あの、よろしかったら、これ、受け取ってください・・!」
 女の子が差し出したのは、剣心のお店のラッピングが施された箱。
「ありがとう。」
 ずっと欲しかった、剣心のチョコレート。
 でも左之助が欲しかったのは、このチョコレートではありません。
 去って行く女の子の後ろ姿を見送りながら、左之助は心の中で一言謝りました。
 そして向きを変えると、足を踏み出しました。今まで一度も向かった事の無い方向へと。

 

★In the ShowCase★

 その時目にした光景を、剣心は最初信じられませんでした。夢だと思い、何度もまばたきしました。けれどもそれは夢ではありませんでした。
 ドアを開け、初めて店の中に入って来たひとは、剣心の前までやってくると言ったのです。
「チョコレート、いただけませんか?」

 

★In the room★

 左之助は勇気を振り絞ると、店のドアを押しました。カラン、とドアベルが鳴りました。ショーケースの向こうには、なぜか少し赤い目をしたその人がぼんやりと座っていました。
 左之助は気合を入れると、その人の目をまっすぐ見ながら言いました。
「チョコレート、いただけませんか?」
 左之助は、どうしても剣心の手から、剣心の作ったチョコを受け取りたかったのです。でも、自分の事を知りもしないであろう相手からチョコを貰える可能性はゼロ。だから左之助は考えたのです、お金を出してでもいい、気持ちがなくてもいい、あの人の手から受け取れるのであれば、自分でチョコを買いに行こうと。情けないし、カッコ悪いとも思いましたけれど、左之助にはそれしか方法がなかったのです。
 ぼんやりと自分を見つめているその人は、一瞬後に我にかえると慌てて言いました。
「ごめんなさい、今日はもうチョコレートは全部売り切れてしまって…。ひとつも残ってないんです。」
 左之助はがっかりしました。
「そうですか・・・。済みません、ありがとうございました。」
 もうこれ以上、ここに居る事はできません。左之助はその人に背を向けて、出て行こうとしました。バレンタインの日に、自分でチョコを買いに来るような男、きっと変だと思ったでしょう。もう、彼と言葉を交わす事も二度とないかもしれない、と左之助は思いました。
 その時です。
「ちょっと、待ってください。折角、折角来ていただいたのに無駄足をさせてしまって、今日は冷えますし、雪も降ってますから・・、お詫びに、ココアでも飲んで温まって行かれませんか?」
 少し変な理屈を並べて呼びとめられた左之助でしたが、それを聞いた左之助の方が一瞬で舞い上がってしまいました。
「よ、喜んでごちそうになります!」

 

★In the room★

 まっすぐこちらを見てくる彼の澄んだ目に見とれてしまった上に、まだ彼が目の前にいるという事実が信じられずついぼんやりしてしまった剣心でしたが、チョコレートが欲しい、という彼の言葉にはちょっと違和感を感じました。
 なぜなら、彼はついさっき店の前でチョコレートを受け取ったばかりだったからです。そしてよく見ると、彼は背中の方に隠してはいましたがチョコレートらしき包みがたくさんつまった袋をいくつも持っていたのです。
 それなのにどうして、まだチョコレートを欲しがるのでしょう?剣心は不思議に思いました。でも、そんな事を尋ねるわけにもいかず、店にはもうチョコレート菓子はないことを伝えました。彼はがっかりした様子でした。彼をがっかりさせてしまった事に、剣心は胸が痛くなる思いでした。
 残念そうに背を向け、彼は立ち去ろうとしています。今声をかけなければ、きっともう二度と店の中に入ってきてくれる事はないでしょう。剣心は勇気を振り絞って声をかけました。我ながら妙な理屈でしたが、彼は頷いてくれました。
 剣心は彼を、店の奥の、オーダーのケーキなどの注文を聞いたりする際に使っている応接間に通しました。ここでは時々常連さんにお茶をふるまったりもするのです。剣心は店の前にCLOSEDの札をかけると、さっそくお湯を沸かし美味しいココアを作り始めました。

 

★Face to Face★

 やっと隔てるものもなく向かい合ったふたりでしたが、あまりに気持ちが強すぎて、お互いほとんど話す事さえできませんでした。時々目を合わせては恥ずかしそうに笑いあうばかりです。多分左之助の友人が見たら、目を剥いて卒倒したに違いありません。でもやっと出会えたふたりには、それが精一杯だったのです。
 ふたりは、お互いがお互いの事をずっと前から見ていた事をどちらも言い出せませんでした。そんな事はもうどうでもよくて、お互いが手を手を伸ばせば触れられる距離にいることでもう胸がいっぱいになってしまいました。
 温かいココアが、冷え切った左之助の体を暖めてくれます。ココアなんてほとんど飲んだことのない左之助でしたが、こんなに美味しい飲み物はない、と感じました。それは、剣心が作ってくれたからでしょうか?
 2杯のココアを飲んで、左之助はお暇をする事にしました。これ以上一緒にいたら、自分がとんでもない事をしでかしそうだったからです。
「ごちそうさまでした」
 と頭を下げる左之助に、剣心はドアを開けてやりながらちょっと恥ずかしそうに言いました。
「あの・・、ココアって、別名、チョコレートドリンク、っていうんでござる。チョコレートのお菓子をお渡しできなくて申し訳なかったでござるけど、ココアも一応チョコレートでござるよ。」
 その言葉を聞いて、左之助は自分の望みが全て叶えられた事を知ったのでした。
「あ、あのっ」
 閉められようとするドアを押さえて、左之助は言いました。
「じゃあ、来月、お返し、受けとってくれるかな?」

END

裏ヴァージョンはこちら
もっとラブラブなの、見たい?

 

 

 

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