蝶々の纏足      

 

それは密やかに、しかし確実に広がっていた。
初めは、ごく稀な事例として処理されていた。しかし、それは爆発的な勢いで増殖を始めていたのだ。人間たちがそれに気付いた時にはもう遅すぎた。慌てて人類はその対処法を模索したが、打つ手はなかった。ただ人類は、一直線に破滅へと向かう自分たちの未来を、見つめているしかなかったのである。

「剣心、飯の準備、できたぞ」
「んー…」
 左之助はシンプルな深皿にたっぷりと温かいクラムチャウダーをつぎながら剣心を呼んだ。隣の部屋から、剣心の返事が聞こえる。しかし、剣心がまだ現れないであろうということを、左之助はよく知っている。剣心はとても朝に弱くて、いつもぐずぐずとベッドに留まって痛がるのだ。左之助は溜息をつきながら、(しかし頬は笑みを隠し切れていないのだが)寝室へと向かった。
 ダブルベッドの真ん中がまあるくこんもりと盛り上がっているのが左之助の目に入った。
「こら。すっかり寝こけちまってるじゃねえか。ほらほら、起きなって。朝飯、おめぇの好物ばっかなんだけどなー。とろとろしてると、俺が全部食っちまうぞ?」
 その言葉に、剣心は恨めしそうに顔を半分だけ布団から出してきた。左之助の作ってくれる食事は本当においしくて、余り食べ物に執着のない剣心でも、もう左之助の作ったもの以外は食べられない程だ。こうして左之助と暮らすようになってから、剣心は少しふっくらしたようである。しかし出会った頃の剣心ときたらガリガリに痩せていて、今にも飛んでいってしまいそうだったのだから、少しばかり太った方がいいと左之助は思っていた。
 そう、今にも飛んでいってしまいそうな。

   嵐が来ていた。
 気象の全てを制御するシステムが開発され、それが世界的に承認されてからは、人が住む場所での異常気象というのは皆無であったのだが、制御コンピューターがエラーを起こして制御不能となり、実に三十年ぶりの嵐が関東地方を襲っていた。
 相楽左之助は、いい加減頭にきていた。
 今日はバイトは非番だったはずなのに、突然のシフトでこの嵐の中を出かけなければならなかったのだ。本当ならば、誰か女友達の一人でも呼んで、生まれて始めての嵐を温かいベッドの中で楽しむはずだったのに。自慢のバイクは事故による渋滞でバイト先に置いてくるしかなくなるし、20471120のジャケットはびしょびしょに濡らしてしまう、傘はひっくり返る、髪はぐしゃぐしゃ、CKのボクサーパンツまでじっとりと濡れそぼってしまって、左之助の怒りゲージはマックスを通り越してしまっていた。しかし渋谷エリアでは一目置かれる相楽左之助でも、自然の脅威には勝てない。ただひたすら、灰色の闇の中を身を竦めて自分の住む高層コンパートメントに足を出すしかなかったのである。そしてやっと下北沢地区に入ったとき、茶沢通りの道端にゴミのような塊が打ち棄てられているのを目にした。清掃管理が厳しい世田谷エリアで道端にゴミが放置されることはまずない。自然左之助の目はそのゴミのようなものへと向けられた。強い風にあおられて、どこかの家から飛んできたのだろうか。左之助はその塊に近づき、傘の先でつついてみた。
 柔らかい。
「ん・・」
 ゴミだと思っていた塊から呻き声がして、左之助は慌ててそれを持ち上げた。刷ると、左之助の手にべったりとした何かがつく。
「なっ、なんだ?」
 泥で真っ黒に汚れてはいるが、どうやらそれは人のようである。
「大丈夫か、あんた?」
 左之助はその人の頬をそっと打ちながら呼びかける。その人は、うっすらと目を開けて何事かを呟いた後、左之助の腕の中でがっくりと意識を失ってしまった。左之助はそのまま置いておく事も出来ず、激しい嵐の中、その人を背負うとコンパートメントへと連れて帰ったのだった。
  「とりあえず、身体を拭いた方がいいよな」
 その時になって初めて、左之助は相手が男か女かという事に考えが及んだ。汚れてボロ雑巾のように真っ黒なので、性別はおろか、年齢さえわからないのだ。
「ちょっと、ごめんな・・」
 左之助は胸の辺りをを探ってみた。
 平たい。
 どうやら、男らしい。しかしひどく小さいし、軽いのでまだ子供のようだ、と左之助は結論を出した。なんだ、カワイイ女ならよかったのによ、と左之助は不満げに鼻を鳴らした。そうすれば当初の予定を達成できたのに。
 しかしこうして拾ってきてしまった限りは、とりあえずの面倒は見てやらねばなるまい。左之助は溜息をつきながら泥だらけで汚れた服をはぎとって、お湯で濡らしたタオルでごしごしと身体を擦ってやる。少しづつ、泥が拭われて白い肌が露わになってきた。
「とりあえずは、こんなもんか。」
 ふう、と息をついて左之助は汚れたタオルを放りだし、改めてその拾い物の姿を見た。
「・・?」
 その時、左之助の視覚が強烈な違和感を訴えた。
「何だ・・?」
 何かが、違う。
 背中?
 背中に、何かが、付いている。
「何だ、これ・・。ゴミか?」
 左之助はそれをぐい、と掴んだ。べたり、と何かが付着する。驚き慌てて手を放した。それは、キラキラ光る粉のようなものだった。
 左之助はそれに覚えがあった。昔子供の頃、ズーロジカルでガラス越しにレプリカントを見た事があるし、ギムナジウムにいた頃授業で習ったことがある。ずっと昔はその辺にいたものらしいが、今ではクローンでも宝石より高価なもので、左之助の手にはとても届かないものだった。
「蝶、か・・?」
 左之助はそっと背中にひっついているものをつまんでみた。四枚の羽がはらりと広がる。片手を広げたよりも少し大きいそれは昔アゲハ、と呼ばれた種類の蝶だった。
「マジ、かよ・・」
 左之助は呆然とただ、立ち尽くすしかなかった。
 しかし左之助はもともと図太い神経の持ち主である。現実主義で、自分の目を信じるタイプの彼は大したパニックにも陥らず、その内に濡れた身体が冷えてきて、大きなくしゃみが出た。とりあえず、左之助は当座の問題は置いておいて、シャワーを浴びて身体を温めることにした。もう春が近いとはいえ、夜はまだ冷え込む日もあるし、今日はびしょぬれになった。左之助はめったにつけないエアコンのスイッチを入れ、眠る珍客に毛布をそっとかけるとバスルームに向かった。
 そして、三十分後。左之助はスウェットの下だけをはき雫が垂れる頭にタオルを被せて、拾い物をのぞきこんでいた。もしかして何かの仮装かとも思ったのだが、羽はやはり背中からはえたものだった。
「やっぱホンモノ、だな。」
 左之助はしばらく眺めていたが、ふと思いついてパソコンのスイッチを入れた。ネットでライブラリーに接続すると、『蝶』について検索してみる。しかしあまりのその種類の多さにうんざりして、蝶について調べるのは諦めた。
「とりあえず、目ぇ覚ますまでこのまま待つしかねえだろ。」
 まだ泥のこびりついている顔を拭ってやる。青白い肌は薄くて、血管が見えるようだ。
 するとその長い睫毛がと瞼が震えた。慌てて左之助は手を放す。
「ん・・」
 息を詰めて見つめる。
 ゆっくりと、その瞳が姿を現した。
 ブルーオパールのように煌くその瞳は初め焦点があっていないようだったが、やがて左之助の姿を認めると途端に顔を強張らせ、必死に逃げをうつ。
「お、おいっ、ちょっと待てよ。何もしやしねえって、おめえが行き倒れてたから、拾ってやっただけだって。な?」
 それは身体を縮め、毛布を被って震えながら、そっと左之助の様子を伺っている。しかし差し出される熱い蜂蜜入りのミルクの匂いに耐えきれず、毛布の隙間からそっと手を出した。左之助は震える細い手にカップを手渡す。怯えさせないようにそっと隣に座った。ふうふうとミルクを吹いて、ちょうどいい温度にしてやる。コクコクと喉を鳴らして飲み干し、カップの底に残った蜂蜜まで手を突っ込んで取ろうとするのを笑ってとどめ、おかわりをついでやる。
 お腹がくちくなったところでそれは改めて左之助の姿を見上げた。不思議そうにじいっと左之助を見る。
「俺は相楽左之助、ってんだ。道端におめえが落ちてたから、拾ってきた。おめえは?どうして、あんなとこで寝てたんだ?名前は?」
 剣心は螺鈿のような瞳を煌かせながら、ゆっくりと頭を傾げた。
「俺の言ってること、分かるか?」
 今度は反対の方に頭を傾げる。
 左之助は頭を抱えたくなったが、何とか自分を落ち着かせると自分の方に指を指し、『左之助』と自分の名を繰り返した。
 すると相手は初めて小さな声で、
「・・サノスケ。」
 と反芻した。そして自分を指して、
「・・ケンシン。」
 と言った。
「それが、おめえの名前か?」
 勢い込んで尋ねるのに、繰り返し答えた。
「・・ケン、シン。」
 その後、シャワーを浴びて綺麗に泥を洗い流した剣心の姿を見て、左之助は息を呑んだ。子供の頃読んだ童話に出てきた『妖精』にそっくりだったのだ。幼かった頃の左之助は、『妖精』が本当にいるのだと思っていて、それが嘘だと知らされた時とても胸が痛んだのを覚えている。その『妖精』が、今自分の目の前にいるのだ。
 『妖精』の肌は何処までも白く、手足はすらりと伸びて、髪は夕日のようなオレンヂ色をしていた。羽は煌く深い青と漆黒に、細かい模様が描かれていた。裸でぽたぽたと雫を垂らしながら立っている剣心を見て、左之助は柄にもなく顔を赤らめながら慌てて大きなバスタオルで包んだ。剣心は肌触りの悪い安物のタオル越しに左之助の胸に頬を摺り寄せた。
 そうして、ふたりの奇妙な共同生活が始まった。
   剣心は初め言葉を話せなかったが、左之助が教える事を次々に吸収してあっという間に言葉を覚えた。しかし、どこから来たのか、とか背中の羽について尋ねても、首を傾げるばかりだった。もしかしたら記憶を失っているのかもしれなかったが、覚えていて、黙っているのかもしれなかった。左之助にはわからなかった。しかし、もうどちらでもいいとも思っていた。
「どこも行く当てなんてねえんだろ。嵐もまだ止まねえし、のんびりしていけよ」
 左之助は剣心にそう言ったが、本当の所、どうやって彼を引きとめようかとそればかり考えていた。その時はただ、珍しいペットを手元に置いておきたいという単純な欲求だと思っていたのだが。
 落ち着いて考えるに、きっとあの羽は生まれつきのものではないに違いない、と左之助は思った。どこかの暇な金持ちが、道楽で貧乏人の背中に羽をくっつけた、ってのが妥当なセンだ。似たような話を左之助は仲間から一度聞いた事があった。実際、金さえあればなんでもできるし、金の為ならなんでもする奴がいるものなのだ。
 剣心はきっとどこかから逃げてきたのだろう。しかし、剣心の身体の中でひとつ、気になる点があった。それは、足である。彼の足自体は、普通の人間と何ら変わりはない。しかし通常より少しばかり小さいのである。だから靴下などは、子供用のものでぴったりなのだ。一度大きさを測ってみると、十八センチほどであった。(ちなみに左之助は二十九センチある)だからであろうか、剣心は長時間立ちっぱなしでいることや、長い距離を歩いて移動することがあまり得意ではない。歩けないわけではないので、日常の生活には何ら支障はないのだが。しかしその小さな足は、彼が羽を持つものであるという事の印のように、左之助の目には映ったのだった。
   剣心は左之助の部屋から一歩も外に出る事は無かった。左之助が出るな、と言ったからだ。」
「いいか、おめえは普通の人間とは違うんだ。見つかったら、捕まえられて見世物にされちまうぞ。だから、他の人間に見られねえようにしてえとな。」
 剣心は左之助の言葉にこっくりと頷いた。だから剣心は毎日部屋で絵本を眺めたり簡単な家事をしたりソファーでうたたねをしたりしていた。左之助は昼間出かけざるをえなかったので心配だったが、剣心はとてもおとなしくしていた。
  しかし、剣心は夜が更けるとよくベランダに出て、夜景をぼんやりと眺めている事があった。左之助はベランダで剣心が羽をひらひらと動かすたびに堪らぬ焦燥を掻き立てられた。
  左之助はいつも、剣心の為に何かおみやげを持ちかえった。色とりどりのキャンディやケーキ。剣心は左之助が何を持って帰っても、鈴のような声で歓声を上げ、喜んだ。その笑顔が見たくて、左之助はせっせと剣心にみやげを持ちかえった。
 左之助は剣心と逢って一月目の夜、剣心に白いドレスを贈った。薄いレースを幾重にもあしらったそれは肩甲骨にそって大きく開くようになっていて、羽のある剣心にも着られる。そして剣心の素足を取ると、リボンを巻いて小さなトウシューズを履かせてやった。バレリーナの為のトウシューズは、つま先に木が詰まっていて、歩くとコツコツと音がする。剣心はその音が気に入ったらしく、嬉しそうに何度も足踏みをしていた。
 左之助の目は日に日に剣心の姿でいっぱいになっていった。剣心の羽や瞳や髪と似た色に自然に視線が動く。気がつくと、剣心の事ばかり考えている。剣心がいる、そう思うだけで、灰色の四角いコンパートメントさえ楽しげに見えた。もう、剣心が居なかった頃自分がどんな風に暮らしていたのかも思い出せないほどに。
「剣心ッ!帰ったぜ!」
 ドタバタと騒々しい音を立てて、左之助が部屋のドアを開けた。剣心は、ソファーの上で眠っていた。呼吸に合わせて羽が開いたり閉じたりしている。左之助は慌てて自分の口を塞いだ。剣心はちいさな桜色の唇をむにゅむにゅと動かしている。その下唇をそっと撫でた。すると剣心は指をくわえて無心にちゅうちゅうと吸う。左之助は目を細めて剣心を見つめた。胸の中に、火が灯る。じん、と身体中に熱が染み渡った。
「剣心・・」
 そっと囁いた声が吐息となって頬にかかる。
「ん・・」
 薄い瞼が震えて、ゆっくりとブルーオパールが姿を現す。左之助は息を詰めて見つめた。左之助の視界が剣心の瞳の色に染まる。
「ご、ごめんな。起こしちまってよ。眠かったら、また寝ててもいいんだぜ。」
 剣心はにっこりと笑うと左之助に向かって手を差し伸べる。ふわりと引き寄せられ、髪に顔を埋めた。甘いかおり、胸に広がる、
「おかえり、さの。」
「ああ、ただいま。」
 左之助は顔を赤らめながら剣心の髪を梳いた。本当は思いきり抱きしめたかったが、そんな事をしたら、柔い羽が壊れてしまうのではないかと恐ろしくてできやしなかった。剣心の肩越しにゆっくりと揺れる羽を見つめる。夕日の光に、細かい鱗粉がキラキラと輝き舞っていた。  

 何かが狂い始めていた。それは小さなひずみから始まった。気象管理システムの小さなエラーが続き、奇妙なコンピューターウイルスが流行りはじめていた。様々な分野のシステムコンピューターに壊滅的な打撃を与え、日常生活にまで異常をきたすようになっていた。全てコンピューターによって成り立っていた人間たちの生活は、急速に崩壊しつつあった。そして彼らは今更原始の生活に戻る事など出来はしない。
 世界中の有能なSEやプログラマー、はてはハッカーまでが総力を上げてワクチンの開発にあたったが、その手がかりさえつかめていないのが現状であった。
 ウイルスは、『バタフライ』と名付けられた。

   朝の光が窓から差し込む。
 左之助の目に、明るいオレンヂが入った。剣心は羽のせいでうつぶせにしか眠ることができない。だからいつもベッドでは左之助の腹の上で眠る。今では左之助も、胸の上に剣心の重みがなければよく眠ることもできないのだ。
 左之助は明るい色の髪にふちどられた清らかな寝顔をうっとりと眺めていたが、突然残酷な破壊欲に駆られて、自分の身体を揺すぶり始めた。
「起きろ、剣心。朝だぞ!」
「んー・・」
 剣心は左之助の身体の上から振り落とされまいと左之助にしがみつく。
「さのぉ」
 剣心は眠たそうな目で左之助に抗議した。
「おはよ、剣心、」
 左之助は剣心の瞳に自分の姿が映っているのを認め、我慢しきれずに頬ずりをした。
「やあ、さのぉっ」
 剣心は押し付けられる不精ひげを痛がって笑いながら悲鳴をあげる。ふたりはばたばたとベッドの中でじゃれあった。
「今日は、ずっと家にいられるんだぜ。急に休みになったんだ。」
 左之助は剣心を抱き上げながらそう言う。
「なんか、最近なんもかんもおかしいんだよ。電車は止まっちまうわ、ナビは狂うわで、外はパニックだぜ。まあ、それで休みができたのはよかったけどな。」
 剣心は余り左之助の言っている事を分かってはいないようだったが、嬉しそうにしている左之助を見るのが楽しくて、にこにこしていた。
 ふたりで温かい朝食をとった後、左之助は最近ほとんど触らなくなってしまったパソコンのスイッチを入れた。剣心に、映像だけでも外の世界を見せてやろうとおもったのだ。
 すると、その直後に異変が起こった。
 プログラム画面が表示され、画面が黒転すると、全ての文字や数字がバラバラと崩れ落ち、残ったいくつかの文字が集まっていくつもの蝶の形を作るとふわふわと漂い始めたのだ。
 ウイルスに感染するには、媒体との接触が不可欠なはずだ。まだ起動しただけなのに、と呆然とする左之助の側に剣心が寄ってきて、画面の中で漂う蝶をそっと指でたどった。
「けん、しん・・?」
 剣心は左之助の顔を見上げながら、嬉しそうに笑った。
 画面の蝶と同じように、ふわふわと揺れる剣心の羽。
 その時、左之助の頭に稲妻が走った。
 嵐の日。システムの異常。『バタフライ』。
 左之助の直感が、今世界中を破壊しているウイルスと剣心とのつながりと強烈に訴えている。
「お前、なのか?」
 言葉は疑問の形を取っていたが、それが真実である事を左之助は確信していた。
 もしこのままにしておけば、世界は遠からず崩壊してしまうかもしれない。左之助は事の重大さを理解していた。しかし、同時にどうすることもできない、いやするつもりのない自分にきづいてもいた。
 彼を失わない為ならば。
 左之助は剣心を抱き寄せ、柔らかく腕に閉じ込める。
 剣心は左之助の腕の中でクスクスと笑いながら、画面の蝶をなぞり続けていた。  

 世界はどんどん破綻を来していた。流通が完全にストップし、食料や必需品を求めて暴動が各地で勃発していた。貧しい者から餓死し始め、家を失った者の死体が道に溢れる。
 左之助は友人の仕切る闇ルートから何とか二人分の食料を入手し日々を送っていた。嗜好品の類は大変入手が困難だったが、剣心の為にせっせと色とりどりのお菓子を運んだ。
 ふたりの生活はまさに蜜月と呼ぶに相応しいものだった。それがどれだけの犠牲の上に成り立っているものだとしても。
 剣心は外の騒ぎも知らぬげに左之助の手から食み、左之助の腕の中で眠っていた。
 左之助は痺れるような幸福感の中に浸っていたが、(あの日から左之助の良心は眠り続けている)ひとつの疑惑が剣心の胸にとりついていた。
 剣心が、ベランダの外を眺める。その時、剣心の瞳は左之助を映してはいない。そしてふわふわと羽がはばたくのを見る度に、左之助の胸には黒い感情が渦を巻くのだ。

  「剣心、もうベランダに出ちゃダメだ。」
 左之助はとうとう我慢しきれずにそう言った。しかし剣心は不思議そうに左之助を見つめるだけで、外を眺めるのを止めようとはしない。

   そしてある日の事。
 また外を眺めていた剣心に、左之助の負の感情がとうとう爆発してしまった。
 剣心の腕に痣ができるほど強く引いてベランダから引き戻すと、剣心の身体を揺さぶる。
「そんなに、外に出てえのか!剣心!!」
 剣心は驚いて左之助を見つめる。しかしその青く光る瞳さえ自分を拒んでいると思い込んだ左之助はますます逆上して叫んだ。
「外に出て、どこへ行くっていうんだ!俺の、俺の側にいりゃいいじゃねえか!」
 そう、左之助は剣心を捕まえてからずっと、彼がその羽を開いて飛んでいってしまうのではないかという危惧を抱えてきたのだ。初め、剣心を捕らえたのは羽の為だった。珍しい蝶を捕まえ籠に閉じ込めて愛でる気持ち。しかしそのうちに左之助にとって羽など、剣心を失うという恐怖そのものでしかなくなっていたのだ。いつのまにか、羽抜きでの剣心の存在の方が、左之助にとって大きなものになっていたのである。
 左之助は激情に任せて、邪魔な羽を掴む。
 こんなのがあるから、剣心は俺から離れようとするんだ。どこかへ飛んでいっちまおうとするんだ。
だったら、こんなもの、無くていい。
そしたら、ずっと剣心は俺のモンだ。
 剣心は細い悲鳴を上げながら背を反らす。
 べりべり、といういやな音を立てて、剣心の羽は砕け散った。きらきらと、青い光の粒が部屋中に舞う。左之助は手を鱗粉で染めながら、夢中で剣心の羽をむしった。
 ほろほろ、ほろほろ。
 剣心の羽が部屋に舞う。繊細な羽は、細かく砕けてフローリングに降り積もって行く。
 剣心の胸には、その時ある感情が溢れた。
 背中が焼け付くように痛んだが、左之助を憎いとは思わなかった。この思いを伝えたかったが、左之助はこの感情を表す言葉を教えてはくれなかった。その言葉を、左之助は一度も剣心に言った事がなかったから。
 だから剣心は感情を伝えるすべを知らない。
 剣心は薄れる意識の中、必死の思いで左之助に向かって手を伸ばす。そして左之助の頭を抱えると、そっと唇を合わせた。
 左之助。
 剣心は呟いて少し笑うと、ゆっくりと目を閉じる。
 そして剣心は、左之助の腕の中でぐったりと力を失った。
 青い光の粒が降り注ぐ部屋の中で、左之助は初めて剣心の身体を思いきり抱きしめる事が出来たのであった。

   それから数日後。
 眠りつづける剣心の背中から、何百匹というアゲハ蝶が溢れ出てきたのだ。
 驚いてそれを見つめている左之助の腕や肩に止まり、何度か周りを飛び回った後、蝶たちは開いていたベランダの窓から外へ飛び去っていってしまった。
 左之助は絶望に打ちのめされた。
 やっと、自分だけのものにできたと思ったのに。
とうとう剣心は、ここから出ていってしまったのだ。
 左之助は剣心の抜け殻を抱き締めた。

   そしてそれから数ヶ月後。
 おかしな病が流行り始めた。
 全く健康な若い者が、突然倒れて意識を失ったかと思うと、背中を食い破って沢山の蝶が溢れてきたというのである。初めはオカルト的な珍事件として、半ばデマとして、処理されていた。しかし、その奇病は爆発的な勢いで広がっていた。必死の研究で、どうやら蝶の鱗粉が這いに吸い込まれ、それが病を引き起こしているということまではつきとめられたが、それほど気をつけていても細かい鱗粉を吸い込まないで呼吸することなどできはしない。いつのまにか人々の肺には鱗粉が蓄積され、突然発病し死に至る。唯一の対処法は、蝶が飛び出す前に病人の身体を燃やしてしまうことだったが、倒れるとすぐに蝶は現れるので間に合わない事がほとんどだった。
 あっという間に生物の四分の一が死亡し、地球には蝶が溢れて行った。空は鱗粉で霞みがかかったように曇っている。
 もともとコンピューターウイルスのせいで大きな打撃を受けていた世界は病に対抗する力を残してはいなかった。裕福な者たちは地下のシェルターや超高層マンションにこもって暮らしていたが、彼ら以外の人間が死に絶えた後、何の能力も持たない彼らだけで生き延びる事はできないだろう。
 近い将来、ただひとりを除いて、人類は死に絶える。
 人類だけでなく、蝶以外の生物は、みんな。  

 左之助は、ベランダから空を見上げる。ふと強い風がふいて、霞が晴れた。
 ぬけるような青い、青い空を、たくさん、たくさんの蝶が埋め尽くしている。
 地球は、剣心で溢れていた。
 だから剣心はいつも左之助と一緒だし、左之助のものだ。もう籠は、必要ない。
「おかえり、剣心。」
 左之助は夏空のような笑顔で言った。

ende

 

 

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