夢の浮橋            鷹宮 椿

 

 

 

 

 剣心はぼんやりと空を見上げてひとつ、息をついた。

 抜けるように青い空には、ぽっかりと白い雲が浮かんでいる。

 彼が吐き出した溜息の固まりは、ふわふわと空へ向かって飛んで行く。

 気付くとこうして空ばかり眺めている。

 左之助が日本に居なくなってから、剣心は空ばかり見るようになった。すぐ側にはいないけれど、少なくともこ

の空の下のどこかに彼が居ることを思って。

 左之助が別れを告げたとき、自分は笑って送り出したはずだった。必ず帰って来ると、左之助が言ったから。

 今、あえてこの国から飛び出す彼の覚悟を知っていたから。

 だから自分は笑って、待っている、と言ったのだ。

 そして左之助も笑って、剣心の頬や髪に触れたのだった。

『必ずお前のところに帰ってくるから、待っていてくれ』

 その無骨な長い指に感触を覚え込ませるように、何度も触れて・・。

 剣心はふと我に返って、きょろきょろと辺りを見まわす。

 きっと赤くなっているであろう自分の頬を、ごしごしと擦った。

「・・左之のばか。」

 しかしその言葉も、届く事はなく空に吸い込まれて行く。

 剣心は再び溜息をついて、洗濯物をたたみ始めた。

 一見、いつもと変わらない毎日を剣心は送っている。

 でもふとした瞬間、どうしようもないほどの欠落感に襲われるのだ。

 例えば、洗濯ものを干す時。誰も来ていないのに、勝手口の木戸を振り返る。

 食事の支度をする時。洗う米の量を、少なく感じる。

 そして、夜眠る時。

 ふたりが一緒に眠る時、左之助はいつも剣心の枕を投げ飛ばして、代わりに自分の腕をさしこんできたもの

だった。腕が痺れるからいいという剣心の頭を、強引に押し付けて。

 そして左之助の肩のくぼみは剣心の頭に、まるであつらえたようにぴったりとはまった。そこが余りに居心地

よくて、剣心は朝気付くと左之助のわきの下にもぐり込むように体を丸めているのだ。

 別に、いつもいつも左之助のことを考えている訳ではない。

 日々の家事や雑用、そして子供たちの成長を見守ることで、剣心は満たされていた。 でも、本当にふとした時。心もとなさに襲われる。

 あの男と出会い、過ごした時間など、ほんの短い時にすぎなかったというのに、自分の心にこれほど深く、

刻み込まれている。

 彼と出会ってからの出来事、交わした言葉、視線。ひとつひとつが涌き水のように、溢れ出る。

 そして自分が彼にした数々の仕打ちに思い至って、呆然とするのだ。思えば、自分はいつも彼を待たせてば

かりだった。彼から逃げることでしか、自分の気持ちを表せなかった。

 おいてけぼりにしたり、嘘をついたり、裏切ったり。

 よくもまあ、愛想をつかされなかったものだと思う。

 あの頃は、愛想をつかしてしまって欲しいと、祈るような気持ちでいたのだけれど、自分から手を放せずに、

曖昧な態度を取り続けたこと自体、彼を望んでいたのだと今ならわかる。

 なんという、幼い恋だったのだろう。

 全く自分は、ことこういう感情に関しては特に、あの頃から少しも成長していないと苦笑するばかりだ。

 彼を待たせてばかりだった自分が、今、初めて彼を待っている。

 彼も、自分を待っている間、こんな気持ちを持て余していたのだろうか。待っている、と言っても、彼がただま

んじりと一所にうずくまっていた事など一度もなかったけれど。

 その問いに答えられる者は、今、この国にいない。

 剣心は、自室の文机の前にぺたりと座り込むと、机上の地球儀をくるくると回した。この地球儀は、蔵の中に

埃を被って埋もれていたものだ。剣心は折れた足を直して綺麗に拭き、部屋へ置いた。

 地球が丸い事は、幕末の頃年上の志士に聞いて知っていたけれど、こうして見ると不思議な気がする。

 この地球儀は舶来物で国名など全て外国の言葉で書かれていて、剣心には読むことすらかなわない。まる

で呪文だ。かろうじて、日本がどれかわかるほどで、その日本は剣心の人差し指ほどしかない。

 左之助は今、どの辺りにいるのだろうか。

 剣心は指先でそっといろんな国を辿りながら、ぼんやりと回した。

 例えばここから、と剣心はアフリカの辺りを指で押さえながら考える。

 ここからこの家まで戻るのに、一体どの位の時がかかるのだろう。

 一ヶ月、二ヶ月、それとも半年?

 自分の考えに思い至り、剣心は愕然とする。

 これではまるで、自分は左之助においてけぼりにされたようではないか。

 あの日、左之助は言った。

 「今のままじゃ俺、一生おめえに追いつけねえよ。おめえのことずっと守りたかったけど、俺にゃあ役不足だ。

俺がお前を守る、なんてよ、今の俺じゃ、言えやしねえ。なんだかんだ言っても俺アまだヒヨッ.子だ。俺、ちゃ

んとおめえの事守れるくれえ、強くなりてえ。」

 あの時の左之助の、真剣なまなざし。

「俺、絶対おめえよりずっと強くて、すげえいい男になって帰ってくる。だから、」

 待っていてくれ、と。

 左之助がこの国を出ていくであろうことなど、剣心は左之助自身がその事を考えつく前からわかっていた。だ

から彼の申し出も、特に驚きもなく受け入れた。そして自分は笑って、「行っておいで」と背中を押しさえしたの

に。

 自分は一体、どうしてしまったのだろう?

 こんなにわがままで、物分りが悪いとは。剣心は愕然とする思いだった。こんな自分を知ったら、左之助は

きっと呆れ果てるに違いない。

 剣心はまた、情けない心持ちで空を見上げた。

  気持ちよく晴れた日の昼下がり。

 剣心は雑用で一人、町に出ていた。

 無意識に、周囲から飛び出す独特の髪型と、悪一文字を探している自分に溜息をつく。

 剣心は気分を変えようと、余り通った事のない道へ入ってみる。いつのまにか、剣心は町の外れまで来てい

た。

 目の前には、ちょこんと座った狐が二匹。

 こんな所にお稲荷さんがあったのか、と剣心はほんの気晴らしのつもりで小さな社に足を踏み入れた。

 社の周りには様々な草花が根付いていて、剣心は微笑を浮かべながら花びらを突ついてみた。

「おさむらいさん、よかったらお茶でもお上がり。」

 突然声を掛けられ、剣心はびっくりして振り返った。社には、ひとりの老婆が腰掛けている。

「驚かせてしまったかい。滅多に人が来ないもんで嬉しくって、思わず声かけちまったんだが・・」

「これは、勝手にお邪魔して申し訳ない。拙者もたまたま通りかかりまして、花が綺麗でしたので思わず・・」

「いいんだよ。もし急いじゃいないんなら、ちょっとばかり婆あの話し相手になっとくれよ」

 人のよさそうな、福々とした老婆に微笑まれ、剣心も笑顔で頷いた。

 老婆は社の奥から茶の道具をいそいそと取り出すと、嬉しそうに茶を淹れてくれた。

 ふたりは取り留めのない世間話をしながら、香りのいい茶を楽しんだ。

 剣心は、今夜皆で食べようと買い求めた豆大福を取りだし、老婆にすすめた。老婆は顔中しわくちゃにしなが

ら喜んで頬張った。しかし、食べてしまってから老婆ははたと気付いた風で、

「でもさ、婆がもらっちゃってもよかったのかい?家に帰って、ひとつ足りないんじゃ困るだろうに」

「大丈夫でござるよ、拙者の分を除けば皆の分はちゃんと・・・」

 そう言って、包みを開いて数を確かめる。

「薫殿に、弥彦に、剣路に、恵殿に、・・」

 あ、と剣心は小さな声を上げた。

 ひとつ、多い。

「なんだい?」
「ひとつ、多く買ってしまったようでござる・・・」

「間違えたのかい?」

「間違いではござらぬ。ただ・・」

「ただ?」

「ただ、帰ってくるまで取っておいても、いかに食い意地が張っているとはいえ、無理でござろうなあ・・」

 剣心は苦笑を浮かべながら空を見上げた。

「だから、召しあがっていただいてよかったでござる。家に帰ってから気付いていたら、拙者どうしていいかわか

らなかったでござるよ」

 ふうん、と老婆は唸った。そして、一言、

「会いたいのかい?」

 びくり、と剣心の体が揺れた。

 会いたい。

 その一言を、剣心はずっと形にする前に押し潰してきたのだ。しかしひとりの老婆が発した音は、否応なく剣

心の心に入り込み、簡単に揺らがせた。

 会いたい。

 百のいい訳や理由を並べても、知らないふりをしてみても、やはり、自分は左之助に会いたかった。

 絶対にそうではないのに、罰のような気がしてしまう自分 が、情けなかった。

 剣心はただ、困ったように笑うしかない。

 じっと剣心を見つめていた老婆は、手の中に包んでいた茶碗を干すと、社殿の中に入っていった。いぶかしむ

剣心の前に、白い紙を手にして戻ってくる。

「これ、あげるよ。」

 白く、薄い長方形の紙には、ヒトガタが描かれている。

「お守りか何かでござるか?」

「これはね、会いたい人に会えるおまじないさ。夜、枕の下に敷いて会いたい人の名前を呼んでから寝てご

覧。必ず、会えるよ。」

 老婆は、強引に剣心の手に紙を押し付けた。

 老婆に心を見ぬかれた恥ずかしさに頬を染める剣心をよそに、むりやり袂に紙を押し込んでしまう。

「大福のお返しさね。その人も、自分の分のを婆あに食われっぱなしじゃ悪いしね」

 と、にこにこ笑って立ちあがった。

「婆あにつき合わせて悪かったね。大福、おいしかったよ」

 剣心も、頷いて立ちあがる。

「お茶を、ごちそうさまでした。この・・、おまじまいも。」

 老婆は、満足したようにうんうん、と頷く。

「でもね、ひとつだけ覚えておおき。虹の橋がかかったら、必ず渡って帰ってくるんだよ。そうしないと、あんたも

あんたのいい人も、夢に閉じ込められて二度と目が覚めなくなるからね。わかったかい?」

 老婆の不思議な言葉に、剣心は戸惑いながらもとりあえず頷いた。

「承知したでござる。色々と、ありがとうございました。」

 剣心は老婆に頭を下げて、家路についたのだった。

 きっとあの老婆も、まさに老婆心から剣心の気が紛れるようにくれたものなのだろう。年頃の娘ならともかく、

三十路の男がいそいそとおまじないに興じるなど、寒気がする他ない。

 部屋に帰りつくと、老婆から貰ったまじないの紙を、文机の引き出しに仕舞い込んだ。

 それから、何日かが平穏に過ぎた。

 いつもと変わらない毎日、平和な日常。

 しかし、心の中に入り込んだ言葉が、剣心を揺らがせる。

 会いたい。

 一度形を持ってしまった言葉は、絶えず心をつついた。

 剣心は、文机にしまいこんだヒトガタを取り出して、何度も眺める。ふと我にかえっては恥じて仕舞い込む、そ

れを何度も繰り返す。

 ある日ぼんやりと歩いていて、気付くと剣心は破落戸長屋に居た。

 足が勝手に通いなれた道を辿っていたらしい。

 左の字が大きく書かれた障子は、ここにはもうない。

 左之助が住んでいた部屋には今はもう、剣心の知らない人間が住んでいる。左之助が居た頃には何度も通

い、泊まった部屋。あの頃とは何一つ変わらない。ただ、左之助がいないだけで。

 とうとうその夜、剣心はヒトガタを枕の下に敷いた。

 ただの気晴らしだ、と剣心は自分に言い訳をした。

こんなものが効くわけはない、だから自分は信じはしないけれど、気持ちを落ち着ける事くらいはできるだろう。

まじないの為には、相手の名を呼ばなければならないらしいが、信じていないのだから、名を呼ぶこともしな

い。だから、自分はまじないをしている訳ではないのだ。

 そこまで自分に言い聞かせて、やっと剣心は床についた。

 しかし、なかなか寝つけずに、思うのは左之助の事だ。

 剣心は冷え性で、いつも手足を冷やしていて寝つきが悪い。

 そんな自分を、左之助はいつも彼の体で温めてくれた。足を絡めて、手を繋いで。

 余りに冷たい自分の手足を左之助に預けるのが気がひけていたのだが、自分の体温で剣心を温められるの

がうれしいのだと言っていた、年下の男。

 剣心は、ひとりきりの布団の中で、手足を縮めた。

「左之・・・」

 思わず呟いて、はっと気付く。しまった、と口を塞いでみてももう遅い。剣心は恥ずかしさに頬を染めた。その

つもりはなかった、しかし枕の下に敷いたのは自分だ。

 仕方ない、と剣心は溜息をついた。大体、ただのおまじないなのだから。

 そうして剣心は、ゆっくりと眠りの世界へ落ちて行った。

  気付くと剣心は、広い草原にいた。

 見渡す限り広がるサバンナ。動物の匂い。吹きぬける乾いた風。草の匂い。命の匂い。

来た事はおろか、見たことさえない、場所。

剣心はただ、立ち尽くす。

「ここは・・・?」

 振り返ると、そこには大きな獣が立っていた。風になびく、黄金のたてがみ。少し開いた口からは、鋭い牙が

のぞいている。獅子というのは、この獣のことだろうか。強い意志を発する瞳は、ギラギラと光っている。

「・・・左之?」

 呼びかけると、獅子はあっという間に目の前で左之助の姿に変わった。しかし左之助は不満そうに唸りなが

ら髪をかきむしる。

「ちくしょう」

「?」

「なんでいつもいつもそうやって出てくんだよ。どうせ触れねえくせによ」

 そう言いながら、乱暴に手を伸ばしてくる。強く肩を捕まれ、引き寄せられた。

「あ?」

 自分で手を伸ばしておきながら、左之助は腕の中にあっさりと納まった剣心に驚きの声を上げる。

「おい、マジかよ!なんで今日に限って触らせてくれんだ?お前、剣心だよなあ?」

 剣心は、久しぶりに会った途端に左之助の腕の中に包まれ、どぎまぎした。

「さの、・・・」

「おい、しゃべんのか?一体どうしちまったんだ、大盤振る舞いだな!」

「左之、放して・・」

 左之助は驚きながらも剣心を放そうとしない。おろおろしながら訴える。

「ダメだ。放しちまったら、また消えちまうつもりだな?ぜってえ、放さねー」

 駄々をこねる子供のように、必死で自分を抱きしめてくる。

匂いも、腕や胸の感触も、そして態度も自分のよく知る左之助のままで、思わず笑みがこぼれる。なだめるよ

うにつんつんと尖った髪を撫でてやる。

「消えたりせぬよ。拙者、お主に逢いに来たのでござる。」

「逢いに?おめえが、俺に、か?」

剣心は、大輪が一気に花開くように鮮やかな笑みを浮かべた。

「そうでござる。逢いたかったでござるよ、左之。」

 左之助の頬を、両手で挟んだ。

 左之助は目を大きく見開き、頬を真っ赤に染め上げた。

「これ、夢、だよな。でも夢でもいいや、俺もう死んでもいい」

縁起でもないことをいうな、と額をつついてふと気付く。

「お主、会わぬ間にまた背を伸ばしたか?」

「んー?わかんね。そーいや、シナにいたころ、膝が痛くてギシギシいってたっけか」

 左之助の頭が、心なしか遠くなっている。自分の知らないうちに、大きくなっているのが少し悔しい。

「おめえは、髪、切っちまったんだな。でも、他は全然変わらねえ。あの時のまんまだ。」

 左之助は髪を指で梳いた。

「おめえと離れてからずっと、こうやって触りてぇ、おめえの側にいてぇ、って思った。大見得切って飛び出しと

いて、情けねえ、自分が剣心になんつったか忘れたのか、ってなんべんも言い聞かせた。でも何度もおめえの

夢見るんだ。追いかけても追いかけてもおめえは遠くて、まだまだ俺なんざ足元にも及ばねえ。…正直、ちょっ

と参った」

 そう言って照れたように笑う。なんという素直な心根だろう。自分は絶対に、こんな風に心の底をさらせない。

「日本を出てから、ずいぶん色んなもん見たし、色んな奴に会ったよ。強えぇ奴とやりあったり、喧嘩は強くな

くってもすげえ奴もいっぱいいた。ダチもいっぱいできたぜ。んで、おめえがどんだけすげえ奴だったかってこと

も、どんだけバカかってことも、ちょっとずつだけど分かってきた。でも、まだまだだ。世の中には、俺の知らねえ

とこも知らねえ奴もいっぱいいる。そういうの、考えただけでもワクワクすんだ」

 左之助の目はキラキラと輝いていて、剣心にはひどく眩しかった。

「嬢ちゃんや、弥彦や女狐は?皆元気か?」

「ああ。皆息災でござるよ。弥彦は随分と大きくなったし、剣の腕も大したものだ。それに・・・、いや、これはお

主が帰ってくるまで秘密にしよう。きっと驚くでござるよ」

 剣心はいたずらっぽく笑った。

「わかった。楽しみにしてるよ」

 左之助も笑う。

「なあ、俺に会いたかった、っての、ホントか?」

「ホントでござるよ。今日もな、歩いていて、気付いたらお主が住んでいた長屋にいたよ。もうお主がいなくなっ

てから随分経つというのに・・。拙者も、お主が帰ってくるまで待つと言ったのに、必ず帰ってくると信じている

のに、お主に会いたくてならなかった・・・。分かっているのに、気持ちを止められなかった・・・」

 左之助の胸に頬を埋め、心臓の鼓動に耳を澄ます。幼子のように力強い音に安堵し小さく息をついた。左之

助はいたわるように頭を撫でてやる。

「なあ、剣心。俺はいつでもここにいるぜ。」

 目を開けると、目の前には、見なれた左の字。

「ほら、な?おめえが来たくなったら、いつでもくりゃあいい。おめえが呼んだら俺、すっとんでくるからよ。・・・・

いてもいんだろ?おめえの、ここに。」

 左之助は、剣心の左胸をつついた。剣心はにっこり笑って頷く。

「いてくれ、ずっと。」

 左之助は剣心の手を取って言った。

「寄ってくだろ?」

 その言葉はいつも、この長屋の前で発せられた言葉だった。時には遠慮がちに、時には強引に。そして今、

彼は同じ言葉を優しい目をして言う。

 剣心はただ、左之助の手をそっと握り返して、応えた。

 長屋の中は、左之助が居た時そのままだ。狭くて畳も無い粗末な部屋。

 でもこの部屋には想い出が沢山つまっている。例えば天井の染み。ここで眠るたび、左之助の腕の中で見

て、形まですっかり覚えてしまった。

 左之助は、枕屏風の後ろに畳んでいた布団を敷いて座り、膝を叩いて剣心を呼んだ。剣心が布団のはしっこ

に座ると鼻を鳴らして膝を揺すった。膝に座れ、と言いたいらしい。

「なんも恥ずかしがることなんかねえだろ。俺たちだけなんだからよ。」

 強引に手を引いて足の間に座らせると、長い足で囲んでしまう。

「捕まえた」

 そう言っていたずらっ子のように笑う。でもその目はひどく真剣な色をしていた。

 なんだか落ち着かなくて、目を逸らそうとした所に顎を捉えられ、深くくちづけられる。

「ん・・・」

あっというまに左之助の舌が入り込み、すみずみまで辿り、なぞる。その度に剣心の体はびくびくと跳ねた。

 飢えきった獣のような荒さも焦燥もない。ただ、お互いが抱き合って同じ体温になる為の、優しい交わりだっ

た。

 剣心は安堵して息をついた。唇を合わせたまま、お互いの衣服を引き下ろしていく。掌で指で、体中を辿って

感触を味わう。

 左之助の体は幾分筋肉を増し、色も綺麗に日焼けしている。腹の筋肉の間をなぞり、へそをくすぐると左之助

は下唇に軽く噛み付いてきた。

 まるで動物同志がじゃれあうように、お互いの体を探る。離れていた時間を埋めるように、体の距離を埋めて

行く。

首筋を舐め、吸い痕を残す。左之助は、剣心の薄い皮膚を辿りながら自分の印を刻んで行った。長く触れられ

なかった時間も心を捉えて放さなかった彼の体に、自分の存在を思い出させる為に。鎖骨のくぼみを舐め、桃

色の柔らかいつぼみに辿りつく。挨拶するようにちゅっ、とくちづけると、剣心の体は激しく震えた。強い刺激を

嫌がるのを押さえつけて、舌を伸ばしてそっと舐め上げる。みるみるうちにそれは固く立ち上がった。それを

すっぽりと銜えて吸い上げてやる。片方も、指先で撫で上げている。

「ああ・・・」

剣心はかくんと顎を上げて後ろに倒れこんだ。それでも許さずに吸い続け、その間に白い太ももにも手を伸ば

す。柔らかい内側を摩り上げていく。びく、びくと震えが指先に伝わる。知らぬ間に袴は放り出され、着流し姿

になっていたが、その着物さえ腰の紐で辛うじて体に巻き付いている有様だ。

左之助の唇はへそを嬲って剣心の震えを激しくさせた。手は小さな双丘を鷲掴んではやわらかな感触を味わっ

ている。いつのまにか指が、ささやかに息づくつぼみを撫でていた。つぼみは指を吸い込もうとして収縮を始め

る。つぷ、と指先が入り込んでは出て行く。少しづつ深く、長く侵入を果たして行く。とうとう一本全てを銜えこん

でゆっくりと中を探られ、甘い溜息を漏らした。

 左之助は鼻先で精一杯立ち上がっている茎にくちづけ、ゆっくりと舐め上げた。徐々に口に含み、強弱をつけ

て吸い上げる。剣心は左之助の髪を掴みながら甘い悲鳴を漏らした。

「さの、さのぉ・・!もう、もう・・・」

剣心は涙をこぼして目元を染め上げながらそっと足を開いて腰を揺すった。しかし剣心の精一杯の誘いも無視し

て他の所ばかり触れてくる左之助に焦れ、とうとう剣心は左之助の下帯に手をかけた。震える手で下帯を解

き、おずおずとそれを握った。

 熱くて火傷しそうだと、朦朧とした頭で考える。普段なら恥ずかしくて絶対にできないことだが、その時は我慢

できなかった。自分で足を開くと、欲するものを握って入口に押し当てたのだ。しかしそれが限界だった。剣心

は猫のように鼻を鳴らしながら先端をつぼみに擦りつけた。つぼみは押し開かれ満たされる快感の予感にひく

ひくと痙攣を繰り返している。

 左之助はとうとう先端をつぼみのなかにもぐり込ませた。しかしすぐに出ていってしまう。それを何度も繰り返

されて、剣心はガクガクと震え出してしまった。深く吸い込もうと、左之助に合わせて腰を揺すりだす。

「左之、左之ぉ、やあ、も、やだあ・・」

とうとう剣心は泣きじゃくり始めてしまった。左之助は子供を宥めるようによしよしと頭を撫でると、ゆっくりと這

入っていく。

「あ・・・、あぁ・・・」

剣心は押し開かれる快感に足先を震わせた。ぴったりと隙間なく、左之助に満たされている。奥まで入り込む

と、左之助はゆっくりと動き始めた。けして乱暴に激しく突いたりはせず、剣心とひとつになるための交わり。

 剣心は体の奥深くで左之助を感じて涙をこぼした。このまま、くっついたまま離れたくなかった。

「そうだな、そしたらずっと一緒だもんな。俺もくっついちまいてえや」

声に出して言った訳ではないのに心が伝わっている。でもそれが不思議ではない。それほどつながっていた。

 以前ふたりがこうしている時は、ここでしかつながれないことが悔しかった。左之助は実際に憤りを口にさえ

した。全部でつながりたいんだ、ここだけなんていやだ、と。でも今は、完全な一体感に包まれている。互いの

心さえ同じだ。きっと、魂が交わっているのだと剣心は頭のどこかで思った。

「左之、左之、左之、左之、」

何度も繰り返し呼ぶ。抗いがたい絶頂感がひたひたと襲いかかってくる。

「ちきしょう、もうかよ、ずっとこうしててえのに、」

左之助は剣心の体を思いきり抱きしめた。

「ああー・・・!」

体が宙に浮きあがる。 そのまま、真っ白な闇の中にふたりで落ちて行く。

  そしてふたりは長屋の天井をふたりで眺めている。いつものように左之助は枕を投げて剣心の腕枕をし、剣心

は左之助の肩のくぼみに頭を押し付けて。そして睦言をささやき、くすくすと笑い合う。

突然左之助はがばと起きあがった。

「そうだ、とっときのもん、見せてやるよ。」

億劫がる剣心を無理やり起こして、二人は長屋の外に出た。

「そういえば、左之、ここは?拙者、見たこともない所でござる。」

「ここはアフリカだよ。アフリカ、どこかわかるか?」

地面に簡単な地図を書いて示す。

「日本にはいねえ動物が沢山いるんだ。真っ黒い肌した奴らもいるぜ。友達になった。・・ほら、こっちだ」

手を引かれてついた所は、湖だった。といっても、日本のものとは比べ物にならない広さだ。

「すごい・・・!」

思わず驚嘆の声を上げた。湖は、見たこともない桃色の鳥の大群で埋め尽くされていた。

「フラミンゴ、ってんだ。」

一体何羽いるのかわからない程の大群。鳥たちの撥ね上げる水飛沫が、キラキラと太陽をはね返している。

「もうすぐだぜ」

左之は剣心の手を取り、その時を待った。

と、突然。

刹那の静寂ののち、何万羽もの鳥が、一斉に飛び立つ。ものすごい羽ばたきの音、空は一面桃色に染まる。

剣心は声もなく呆然と見つめた。無意識に、左之助の手を強く握っていた。

「気に入ったか?」

剣心は興奮に頬を染めながら、無言で左之助の手を心臓に導いた。どくどくと、速い鼓動を繰り返している。

「俺もよ、おめえと一緒に見てえと思ったんだ、これ見た時。だから、おめえが来てくれてホントよかった。ここに

いると、俺たちがうだうだやってる事なんか、なんでもねえって気がしてくるよな」

遠ざかって行く桃色の雲を見ながら、左之助は言った。左之助がこうして自分の手から飛び立っていった事は

ほんの少し寂しい気がするけれど、彼を籠に閉じ込めることなど誰にもできないのだから、と剣心は改めて思

「お主はこれから、どこへいくのでござるか?」

「これから、ゴビ砂漠を横断するんだ。雨も降らねえ、草もはえねえ砂だらけンとこを、何ヶ月もかけて渡るんだ

と。かなりキツイらしいがなんとかやってみせるぜ。その後は、カサブランカってとこからスペインに渡ってヨー

ロッパを巡るつもりだ。その後は、アメリカ大陸にも行こうと思ってる」

「帰るのはまだ随分先になるでござるな・・・」

剣心はぽつりと呟いた。でも、早く帰って来いとは言わない。言えないのだ。

「でも、必ず帰る。俺が帰るのは、おまえんとこだけだ。」

「心配はしておらぬよ。お主は約束を違えぬ。ただ、怪我などしたら許さぬぞ。その体はお主だけのものではご

ざらぬ。拙者のものでもござるのだから。・・・よいな?」

「わかった。」

そういってふたりは、子供のように指切りをした。

「あ、見ろよ、虹だぜ!」

左之助が気付いて湖の方を指差した。くっきりと七色に彩られた、虹の掛け橋。

ふと、老婆の言葉が思い出された。『虹の橋がかかったら・・・』

「もう、行かねば。あの虹を渡って、帰るのでござる。」

しかし、絡めあった指を、どちらからも離せないでいる。

「そうだ剣心、これやるよ」

左之助はポケットから、クルミほどの石を取り出して剣心の手に握らせた。

「これは?」

「金剛石だよ。この間まで、路銀稼ぎに掘ってたんだ。結構採ったぜ。そん中でも一番のやつだ。おめえにやる

よ」

金剛石の原石。世界で一番固くて、美しい石。

まだ磨かれぬ石は、無限の可能性を秘めてじん、と剣心の手を冷やした。

「ありがとう。お主だと思って、大事にするでござるよ。」

にっこりと笑う剣心に、左之助は堪えかねたように強く抱きしめ、口付けた。離れる瞬間、ついた吐息さえ逃す

まいと吸い込んだ。

切なそうな瞳で、額を合わせる。

金剛石を握らせた手を取って、そっと口付け、そしてゆっくりと、手を離した。

そして、晴れやかな笑み。

「じゃあ、またな。」

「ああ、また。」

剣心は虹の方に歩いていく。

振りかえるまい、と剣心は思った。振りかえって、左之助の顔を見てしまったらきっと、自分は永遠に左之助の
夢の中に留まっていたいと思ってしまうに違いない。

虹のたもとにたどり着いた時、

「剣心!」

強く呼ばれて、思わず振りかえる。

左之助は、笑顔で大きく手を振っていた。逢えなかった間焦がれてさえいた、太陽のように明るい笑顔。

剣心も笑顔で手を振った。

最後の一瞬まで、左之助を見ていたいと思ったけれど、

虹の光が体を包んで、何も見えなくなってしまった。

最後に呼んだのは、左之助の名前。 左之助には届いただろうか。

きっと届いたに違いない、そんなことを思ううちに、ゆっくりと意識は遠ざかって行った。

  「いやっほう!」

雄叫びに続いて、大きな水音が響く。

しばらくして、ぷかりと、つんつん頭が水面に浮かび上がった。続けて何人もが岩の上から湖に飛び込む。

「左之助、えらく機嫌がいいな」

「おう。なんか、すげー夢見がよかったんだ」

何か思い出してはニヤニヤしている左之助を見て、岸に立つ男は呆れたように頭を振った。彼は、砂漠を渡っ

てヨーロッパまで行く商人だ。左之助は彼のパーティに用心棒として雇われる事になっている。

「ホント、あんたは変わった奴だな。明日っから砂漠暮らしだぞ。砂漠ってやつがどんなもんか、知らねぇ訳じゃ

あるまいし。大体あんた、ダイヤモンドの鉱脈を見つけたんだろう。ここに残って掘ってりゃ、億万長者だぜ。そ

れをあっさりダチらに譲って、本人は砂漠を横断してぇなんざ、正気の沙汰とは思えねえ」

「俺ァ、ダイヤ掘る為に日本をおン出てきた訳じゃねえんだよ。」

左之助は晴れやかに笑って水飛沫を上げた。

男は天を仰いで両手を上げた。しかし急に声をひそめて、

「おい、アレは?まだ、持ってんのか?」

「アレ?」

「アレ、だよ!」

そう言って、指でくるみほどのわっかを作る。

「あー、あれかあ。なんか今朝目が覚めたら、無くなってた」

たっぷり三拍分の沈黙の後、男の絶叫が響いた。

「無くなった、だとー!そりゃ、どういうこった!盗まれたのか?」

「違う、と思うぜ、多分。」

今にも失神しそうになっている男を指差して、笑い転げる。

「おい、左之助、て、てめえは、あの石がどんだけのもんか分かってんのか?!大きさはな、あの位のもんなら

無くはねえさ。でも、あの石は特別だ。一点の曇りもシミもねえ、あんな石は他にねえんだぞ!」

「だからさ。だから、命より大事なヤツにやったんだよ。」

左之助はそう言って、また水の中に潜り込んでいった。 左之助の足先が蹴飛ばした水飛沫が大きく上がり、

小さな虹がいくつもかかる。

左之助は湖に浮かびながら、小さな虹たちと青い空を満足そうに眺めた。

虹とこの空のずっと先にいる、恋人の事を思って。

  ゆっくりと、剣心は目を開けた。

いつもの朝。いつもの天井。でも、体がひどくだるい。

「あぁ、そうだ」

くすりと笑う。夢の中に、左之助が出てきたのだ。

起きあがろうとして、左手に違和感を覚える。何かを握っている。

見ると、手の中には透明な、くるみほどの石。

「まさか・・!」

枕の下を慌てて探ると、そこには何も書かれていない、真っ白な紙だけがあった。

手の中に残るこの石と記憶が、確かにあったことなのだと伝えている。

「左之・・・」

剣心は手の中の石にそっと口付けた。

しかし、立ち上がろうとした時、足に力が入らない事に気付く。腰が萎えている。

「もしかして・・・」

慌てて布団を剥いでみて、剣心は天を仰いだ。この年になって、まさかこんな目にあうとは。皆が起き出す前に

片付けなければ、弥彦の目などにとまったら、何と言われるかわかったものではない。剣心は顔を真っ赤に染

めながらそっと庭に下りて洗濯を始めた。たすきがけしたたもとの中で、金剛石がぶらぶらと揺れている。

洗濯が終わったら、余りの布を使ってお守り袋を作ろう、と剣心は思った。

その中に石を入れて、いつも首から下げていよう。

『俺はいつでも、ここにいるぜ』

心臓の上に、そっと手をあてる。

ふと、たもとの中から石を取り出して手に乗せる。

石が、太陽の光を吸収して、掌の中に小さな虹が架かった。 思わず、笑みがこぼれた。

この空もこの虹もきっと、左之助のいる所までつながっている。

今日も、いい天気になりそうだ。

剣心はどこまでも青く澄んだ空を見上げて、微笑みを投げた。

この空の下のどこかにいる、恋人に届くように。  

 

                                     了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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