Forget me not   

 

 

あの魂を、ずっと見続けてきた。
美しいと、思ったから。
ただ見つめていたかった。
できるなら、ずっと。

  1、春
 花は桜。
 散り急ぐ桜吹雪の中、左之助はひとり夜道を歩いている。
 喧嘩で稼いだ金を景気よく仲間たちにばら撒いてやり、散々に騒いだ帰り道。なぜかひとりで夜桜が見たくなった左之助は、酔っ払った仲間たちと別れて散歩がてらやってきたのだ。すでに時は真夜中、人影もない。満月の光に照らされ、音もなく舞う花弁。
 ふと気配を感じて、振り向いた。
 一際咲き誇る枝垂れ桜、その下に佇む小さなひと。
風に靡く赤い髪を手で押さえ、こちらを見ている。
薄い色の花の中で一際明るい夕焼けの髪と、青白いまでに透けた肌。なぜかその人は、喪服に身を包んでいる。
 一瞬にして、心を奪われる。
 しかしもっとよく見ようと目を凝らした瞬間、掻き消すようにその姿は消えた。
 後にはただ、左之助ひとりが舞い散る桜の中、立ち尽くしていた。  
 あの夜から、左之助の様子が少し変わった。ぼんやりとしている事が多くなり、仲間と騒いでいてもどこか上の空だ。そして用もないのに夜中出歩いては桜を見に行く。
 その頃左之助は、侠客同士の喧嘩に首をつっこんでいていろいろ面倒な目にあっていた。普段の左之助なら、どうということもなかっただろう。しかしその日の左之助は突然の襲撃になすすべもなく、小刀で胸を深く刺し貫かれ桜の木の下に倒れ込んだ。
頭上には、覆うほどの枝垂れる桜。流れる血に、花弁が浮かぶ。
 左之助は薄く笑んだ。
 きれえだな。
 体が痺れて、どんどんと冷えていくのがわかる。
 どうしてだろう、少しも恐いとは思わなかった。ただ、この場所で死ねることが幸せだと思った。
 目を閉じて、あの日ここにいた人のことを思う。できるならもう一度、・・
 自分の考えを自ら冷笑するように息をつき、瞼を開けた。
 するとそこには、赤い髪。左之助の顔を覗き込んでいる。花をいっぱいにつけた桜の枝と、彼の長い髪とが絶妙の色合いで混ざり合う。
 とうとう幻覚まで見えてきやがったか、と思った途端、その人はにこりと笑った。
「お迎えでござるよ」
「おめえ・・、」
「お主は死ぬのでござる。ほら、もう体がいうことをきくまい?」
 こくり、と左之助はうなずいた。
「でも痛いのも苦しいのも、もう少しでござるよ。」
 その人は優しく左之助の髪を撫でながら笑みを浮かべた。
 左之助は咳き込んで血を吐きながらも、彼の手に頭を摺り寄せた。少しでも目に焼き付けようと、左之助はその人を見つめつづける。そっと彼が左之助の頭を膝に載せた。独りきりでの野垂れ死にしか自分にはないとずっと感じていた、思ってもない甘い最後に、左之助は少し照れた。
 渾身の力を込めて、その人へと震える手を伸ばす。
 しかしもう少しで手が届くという時、最後の力が尽きた。
 左之助の目に映った最後のものは、優しく澄んだ瞳と咲き誇る枝垂れ桜。
 そして左之助の頬には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
  深淵から引き上げられた左之助は、意識を失う前の光景を目にして混乱した。
「俺、一体・・」
「言ったでござろ、お主は死んだのでござるよ」
「え・・?」
 慌てて起き上がったはずなのに、彼の膝の上でまだ横になっている自分。初めて鏡を使わずに見る、自分の姿。大量に流された血。そして今の自分は透けて見えるような頼りない姿だ。
「これは抜け殻。お主は霊魂でござる。生き物というのは、何枚も着物を着たようなものでござって、その一番中にある核が、魂でござる。つまりお主は今、体という着物を一枚脱いだのでござるよ。そして霊の中には魂が宿っている。といっても、お主にはまだ分からぬか。」
 からかうような響きを含んで、その人は笑った。多分左之助はまだ自分が死んだということを受け入れられずにいるに違いない。
「難しいことはよくわかんねえけどよ、とにかく俺は死んだんだろ。」
 そういって左之助はニヤリと笑った。相手は目を大きく見開く。
「で、おめえはなにもんだ?迎えに来た、っていってたな」
 相手は苦笑を浮かべながら答えた。
「拙者は死神でござる。生きとし生けるもの全てに死を与え、魂を導く者でござるよ」
「死神・・」
「驚いたでござるか?」
 大抵の者は、死んだ事を認めようとせず逡巡するし、自分が死神であると知ると恐怖を露にするものだった。死神は左之助の反応を想像して苦笑した。
 しかし。
「へえ、死神か。死神ってのは、ずいぶんと可愛らしいもんなんだな。」
 そう言って左之助はにっと笑った。
「あんたみてえなのに迎えに来てもらえるたあ、まさに冥加だぜ。」
 死神はぱちぱちと瞬きした後、くすくすと笑い出した。
「お主のような者は、初めてでござるよ。全く、面白いな。」
 笑う死神の顔を、左之助は撃たれたように呆然と見詰めている。
「・・・?」
 自失したような左之助の表情に、死神は首を傾げる。
「なあ、あんたさ・・、この前ここに立ってたろ。」
「ああ、お主はここで命を落とすさだめであったからな。言ったでござろ、拙者は死を与える者だと。」
「じゃあ俺はてめえにまんまと嵌められたってことか。情けねえな、のこのこ何度も通って来て、挙げ句がこのざまか。」
「お門違いな事をいうな。さだめだ、と言ったろう?お主がここで死ぬのは、お主が生まれた時から決まっていたのでござるから。」
 では、と左之助は思う。
 自分の心に湧いたこの思いも、さだめなのだろうか。
「まあいいや。おめえ、俺の最後の願い、叶えてくれたもんな」
「最後の願い?」
「いや、なんでもねえよ、独り言さ。なあ、それよりよ。あんた、名前なんてえんだ?」
「死神に名を尋ねた者など、今まで一人もいなかったでござるよ。大体、拙者に名などない。死神は死神、それだけだ。」
 左之助はそれを聞いて不満そうに眉を顰めた。
「大体、そんな事よりお主、自分がこれからどうなるかという事は気にならないのでござるか?」
 死神は呆れたように言った。
「これから?」
「そうだ。お主は死んだ。でも次の生がお主には用意されている。生まれ変わるのでござるよ。」
 ふうん、と左之助は興味がなさそうに唸った。
「お主・・、自分の事なのに、どうでもいいのでござるか・・・?」
「だってよ、生まれ変わるってことは、もう俺じゃねえってことだろ?俺じゃねえ俺の事なんて、興味ねえよ。」
 今度こそ死神は驚愕を隠せなかった。
「お主は本当に変わっているな。でも、魂は同じ物なのだから、拙者から見たら同じお主でござるよ?」
「そんなもんか?」
「拙者は魂と接するからな。器が変わっても、魂は不変なのでござるよ。」
「じゃあ、俺が生まれ変わってもおめえには俺が分かるのか?」
「勿論でござるよ。拙者は死神だと申したでござろ?」
「でも、俺は何もかも忘れちまうんだよな?」
「そうなるでござるな。」
 左之助はじっと死神の顔を見ながら黙り込んだ。
「なあ、死神サン。俺、どうしても死ぬのか?」
人というのは死を恐れるものだ。左之助もやはり、恐いのだろうか。
「どうした?さすがのお前も怖じ気づいたか?」
「ちげえよ。ただ・・、何もかも忘れちまうのが嫌なだけだ。だってよ、次におめえに会った時、忘れちまってたら困るだろ?」
「何を言っているのでござるか、お主は。全く、冗談も休み休み言うがよいよ」
 なぜかどぎまぎしながら、死神は慌てて言った。
「じゃあ、死んでもいいからよ、俺の魂、持っててくれよ、なあ。」
 太陽のような笑顔を見せながら言う。
「なあ、いいだろ?」
 死神は馬鹿な申し出を笑っていなした。
「お主は魂の洗濯を受け、また生まれ変わらなければならぬのだから、くだらない冗談を言っている場合ではないよ。さあ、参ろう。」
「ちぇっ。」
 左之助は舌打ちしながら立ち上がる。しかし唇の端には笑みが浮かんでいた。
「じゃあよ、次、いつ会える?」
「次・・・?死神にまた会いたいのか?まったく、変わり者だな。」
「おうよ。次。また、会えるだろ?」
 死神は皮肉っぽく笑った。
「そうだな、五十年後、かな。」
「五十年!?そんなにか?」
「次のお主の生は、それだけの時間が与えられているのだ。次の生が尽きる時がきたら、また迎えに来るよ。」
「・・・わかった。五十年だな。必ず、あんたが迎えに来るんだな?」
「ああ。それが拙者の仕事でござるもの。」
「じゃあ、五十年後に、また会おうな。俺、忘れねえからよ。俺の事も、忘れんじゃねえぞ。」
 死神は自信たっぷりに言い切る左之助に苦笑しながら言った。
「わかったでござるよ。」
 しかし死神は左之助の戯れ言など信じてはいなかった。新しい生の為の洗濯を受けた魂は、前世の事を全て忘れ去る。それも死後に出会った死神の事なぞ覚えていられるはずがない。
 死神は霊魂となった左之助の胸に手を翳した。強い光が現れ、死神の手の中に美しく輝く魂が宿った。火のように激しく燃えさかる、熱い魂。
「忘れられなど、できぬよ。お主が拙者を忘れてもな」
 死神はいとおしそうに魂を愛撫した。魂は死神の手に懐くようにくるくると飛び回る。
「さあ、行くがよいよ。拙者はいつもお主を見守っているから。」
 いつのまにか死神の頭上には球状の虚無が広がっている。
 魂は嫌がるように死神の手にまとわりついていたが、促されてふわふわと虚無に向かっていく。そして虚無に吸い込まれていった。ゆっくりと、虚無が閉じていく。死神は、魂の激しい光を思って笑みを浮かべた。
 あの魂は、死神がいざなって来た全ての魂の中でも群を抜いて美しいものだった。
あの激しく鮮烈な光。様々に変化する色彩。力強い生命力。
 あの魂が特別なものであると、死神は知っていた。
この世にある物質の質量は不変だ。魂もまた、不変である。魂は限りなく転生を重ねていくが、魂そのものは変わらないし数も不変だ。この世が始まった時に生まれた魂が巡りつづけている。
 しかし、左之助の魂は違っていた。
 ある日、死神の目の前で突然生まれたのだ。
 そしてその魂を生に送り出してから、死神はずっと見守ってきた。魂の最初の生は、相楽左之助という青年だった。彼は、その魂そのものだった。鮮烈で力強く、まっすぐでそれでいて優しい心を持っていた。しかし彼には十九という短い時間しか与えられていないと知った時死神は驚いた。傷ついた心を抱えたまま、彼の生は終わってしまうのだろうか。しかし死神が生のありように手出しすることはできない。
 死神はただ、その魂を見つめつづけた。そして彼の命をさだめに従って刈り取り、また新しい生に送り出す。ただその魂を見つめる事が、永遠の時を漂う死神にとってただ一つのともしびだったのだ。
 五十年の後の、再会を胸に。  

2、夏
 降り続く梅雨の雨。雫に揺れる、紫陽花の色。
 静かに降りしきる雨の中、喪服に逆刃を携えた麗人が現れた。
「迎えに来たよ」
 息を引き取ったばかりの老人に向かってささやく。
「遅かったじゃねえか」
 振り返るとそこには、五十年前に出会った姿そのままに。
「左之、助・・・」
「おう。ちゃんと覚えてたな。」
「お主、覚えていたのか・・!」
「あたりめえだろ。約束だからな。」
「まさか、そんな・・」
 左之助は少し照れくさそうに鼻をこすりながら言った。
「だって俺、忘れたくなかったもんよ。でもあんたは五十年後だっていったろ?だから五十年、待ったんだ。自分で死んじまったらすぐ会えるって何度も思ったけど、そんなことしたらおめえ、ヘソ曲げて迎えにこねえかも、って思ってよ。長かったぜ。」
 そう言って、左之助は手を伸ばしてきた。頬をそっと指で辿る。
「そんな、お主そんな素振りは少しも・・!」
「素振り?」
 死神はしまった、というように口を手で塞いだがもう遅い。
「もしかして、あんた・・、ずっと俺の事見てたのか・・・?」
 死神はただ、頬を赤らめて顔を逸らすばかりだ。
 左之助は初めてみる表情に息を飲んだ。
「五十年待ったかいがあるってもんだぜ。」
「何か言ったでござるか?」
 呟きを聞きとがめた死神に笑いながら言う。
「いや、会いたかった、って言ったのさ。」
 そして死神に向かって手を伸ばした。
「なあ、死神サン。俺の魂、持っててくれよ。」
「また、その冗談でござるか?」
「やっぱ駄目か。じゃあ、次はいつだ?」
「次は、百年でござるよ」
 それを聞くと、左之助は苦く笑った。
「百年かあ。長えなあ。」
 薄く笑む死神にすばやく手を伸ばし、
 刹那。
 強く、抱きしめる。
「百年、待つよ。なあに、大した事ねえさ、百年待ったらこうして触れるんだもんな。」
 そのまま、左之助の姿はふわりと消え、死神の手の中には魂が残った。
 流星のように、死神の周りを飛び回る。そして、ほうき星の尾を残して、虚無へと消えていった。
 百年後に待つ、一瞬の為に。  


3、秋
 木々はとりどりに色づき、山を染める。
 今はもう数少なくなった自然、しかしここは見渡す限りの樹海だ。
 死神は目の前の木を見上げた。木は乾ききった枝を震わせ、残り少ない葉を死神の上に降らせる。
 死神は、自分の体を撫でるように舞う葉に優しく笑む。
 はらはらと、はらはらと。
 葉は手の平のような形をしている。
 死神の上に降る葉は、まるで彼を愛撫する手だ。
 たくさん、たくさんの手が、死神を撫でては落ち、撫でては落ちていく。
「迎えに来たよ」
 死神は、木の幹に触れながらささやいた。
 幹に、耳を押し付けて目を閉じる。
 ふわり、幹の中から手が伸び、死神の体を抱きしめた。
「百年、経ってたんだな」
 ゆっくりと、左之助の姿が現れる。
「ずっと、ここに居てよ、毎日思うんだ、ひとつ、太陽が昇って、沈むだろ。で、ひとつ、月が昇って沈むだろ。これで後何回、太陽と月、見たらおめえに会えるな、ってよ。でもあんまりたくさんありすぎて、もうわからなくなっちまってた」
 そして最後の葉が、死神を撫でて地に落ちた。
「なあ。俺また、生まれ変わらなくちゃいけねえのか?」
「勿論でござるよ。それが摂理でござる。」
 左之助の目の中に、影がよぎった。
「あんたは、それでいいのか?」
「拙者の仕事は健やかに輪廻の輪をまわす事でござるもの。」
「そうか。わかった」
もの言いたげな瞳で、左之助は死神を見つめた。
「じゃあ、次はいつなんだ?」
死神は悪戯っぽく笑いながら言う。
「すぐ、でござるよ。」
 むくれる左之助を、頭を撫でて宥める。
「さあ、参ろう?」
 そうしてまた、左之助は新しい生へと送り出されていく。  

4、冬
 しんしんと、重たい牡丹雪が地に降り積もっていく。
 一面は銀世界。絶え間なく降る雪に、視界が覆われる。
 ぴんと張った空気は、切れるように冷たい。
 死神は雪の中、膝をついてうずくまっている。
「どうして・・・?」
 死神の手の中には、一匹の蛍。
 蛍はゆっくりと、死神の手の中で光を点滅させている。
 しかしその光は頼りなく、今にも途切れそうだ。
「どうして?まだ、お主が死ぬ時ではないはずだ」
 死神は絞り出すような声でささやく。
「なぜ生き急ぐ?なぜ、さだめを拒むのだ」
 だんだんと、光が弱まっていく。
 死神は両手で蛍を包み込んだ。指の隙間から、光が溢れる。
 死神の手を、暖めるように。最後に一際明るく輝いて、
 そして光は、途切れた。
 両手を握りうずくまる死神の手が、優しく包まれる。
「泣かねえでくれよ。」
 な、と左之助は死神の顔を覗き込んだ。
「俺、我慢できなかったんだ。おめえはすぐだ、って言ってもよ。んで、人の時間から見たってすぐでも、俺にとっちゃ気が遠くなるような長さだったんだ。でも、おめえを悲しませるつもりじゃなかった。ごめんな。」
 死神は、苦しそうに呟いた。
「お主が、お主が拙者の事を忘れぬせいだ。お主が拙者を忘れぬから、お主は自身の生を生きる事をおろそかにしてしまう。拙者のせいだ・・!」
「あんた・・・」
「なぜ忘れぬのだ・・!なぜさだめからはずれる?」
 悲鳴のような死神の声に、左之助は驚く。
「左之助・・。どうか、拙者の事を忘れてくれ。そうしなければ、お主の生の意味がない。拙者は、お主がそれでも自身の生を懸命に生きればこそ、見守ってこれたのだ。お主の一生を見守るのが、拙者のねがいでござったのに・・!」
 左之助は、激高する彼を強く抱きしめた。
 この、ちいさな死神の事を忘れる。
 考えただけで、左之助の心は引き千切られたように痛む。
 忘れられるはずがない。
 魂の洗濯を受ける度に、もぎ取られようとする彼の記憶を、必死の思いで魂に刻んだ。どれほどの時がすぎようと、思いは色褪せなかった。
 なぜだろう、彼の事をひとめ見ただけで頭が彼の事でいっぱいになってしまった。
なぜか懐かしさが胸に溢れた。
 きっと、と左之助は思う。
 自分は、彼の為に生まれたのだと。
 永遠の刻を、独りで漂う彼の為に。
 だからこれほどまでに愛しく、これほどまでに恋しいのだ。
 彼の側にいたかった。
 刹那の逢瀬ではなく、いつまでもずっと。
 別れの度いつも、側にいたいと叫びたかった。
 でも彼は自分が与えられた生のかぎりを鮮烈に生き抜く事を望んでいる。自分の激しい生きざまを見たいと。今、左之助にとっての生は、一瞬の逢瀬の為の長い試練以外の何物でもない。
 彼がそれを望んでいる。
 左之助は唇を強く噛み、拳を握り込んだ。
 彼が望むなら。
 俺は、・・・
 左之助は一際強く彼を抱きしめた。
「わかった。忘れる。」
 でも、と左之助は明るく言った。
「おめえだけは、俺のこと忘れねえでくれ。どの俺の事も、全部。」
「忘れぬよ。絶対に、忘れぬ。」
 死神に向けられる、太陽のような笑み。
「じゃあ、またな。」
 俺の可愛い、寂しがり屋な死神。
 左之助はそっと、彼の唇に口付けた。
 そのまま、左之助の霊体は発光を始め、ふわりと融けた。
 そして現れる、ゆらめく魂。
 光の玉は、死神の唇に触れたまま一際強く輝く。その時、一瞬だけ死神の体も輝いた。
 自分の周りを飛び回る魂にうっとりと魅入る。
「さあ、お行き。」
 そうして、類まれな美しい魂は、死神の手を離れた。
「拙者はいつも、お主を見守っているから。」
 いとおしい、この光。
「また、会おうな。」  

0、巡る春
 そしてまた、季節は巡る。
 豊穣な大地から、次々に生命が芽吹く。
冬の間固く沈黙していた桜木も、かわいらしい蕾を膨らませている。
 その下で眠る、喪服の麗人。
 すやすやと、健やかな寝息。
 少年が、彼を覗き込む。
 この桜の木は、彼の遊び場だ。幼い時からずっと、彼の場所だった。桜、それも枝垂れ桜に登って遊んではいけないと、大人たちから何度も言い聞かせられてきたが、彼はここで遊ぶ事を止めなかった。両親に怒られた時、友達と喧嘩した時、彼はいつでもひとりでここに来た。彼の為の秘密の場所、それがこの桜の木だった。
 そこに、知らない誰かが眠っている。
 しかしなぜか彼は腹立たしく思わなかった。いつもなら、彼以外の者の姿をみれば追い出そうとやっきになるのに。
 顔を近づけて、寝顔を見る。
 青白い顔はまるで陶器の人形のようだ。でもかすかに震える長い睫毛が、その人が生きているということを示している。喪服なぞ着てこんな所に寝ている、その事が不思議でならない。目を覚まして欲しい、という思いと、このままずっとこうしていたいという相反する思いに少年の心は波立った。
 もしかして、自分はこの人に会った事があるのだろうか。どこかで会ったような気がする。でも、少年にはどうしても思い出せなかった。なぜか懐かしいような、くすぐったいような気持ちが少年の中で渦巻く。
ひらり、と気の早い桜の花びらがその人の上に降りかかった。
 あ、と思う間もなく、薄ピンクの花弁はその人の唇に落ちる。
 その人の唇の色の方が桜の花より鮮やかだと、何とはなしに考える。少年はそっと手を伸ばして、花弁を摘んだ。
 少年の無骨な、しかし意外と長い指が一瞬、その人の唇に触れた。
 柔らかい感触に、胸を突かれた。
「ん・・・」
高価な美術品に触っている所を見つかったかのように、少年はあわてて体を引き、その場から走り去った。
 その手の中には、しっかりと桜の花びらが握られている。
 走って走って、少年は自分の家に辿り着いた。
 あの人は、目を覚ましたのだろうか。
 少年は、自室に入ると、そっと手を開いた。
 手の平の中には、薄ピンクの花弁。
 確かに、あの人はいたのだ。
 少年はそっと、花弁を撫でてみる。
 やわらかい、びろうどのような感触。
 摘まんで、自分の唇に当ててみて、少年は顔を赤らめた。
 なにしてんだ、俺。
「あれ?」
 頬が、濡れている。
 次々に目から暖かい雫が溢れ、ぽたぽたとフローリングの床に染みを作った。
「おいおい、」
 少年は驚いて声を出すが、涙は滝のように流れ、止まらない。
「なんなんだよ、一体?」
 落ち着こうとしたが、体が震えていうことをきかない。胸の中に、大きな固まりがあってそれが勝手に暴れているのだ。
 少年のまだ知らない感情が、彼の幼い体の中で暴れている。
 少年は鳴咽を上げた。
 とうとう我慢しきれず、少年は泣きながら家を飛び出した。
 全速力で走って、桜のもとへ。
 はたして。その人はまだ桜の下にいた。
 自分は眠りを破らずに済んでいたらしい。
 何事もなかったかのように、その人は眠りつづけている。
 少年は、彼の前に膝をついた。
 涙が溢れて、よく見えない。少年は必死に鳴咽を堪えた。
 さっきちょっとだけ触れた、桃色の唇。
 少年はゆっくりと、顔を落としていく。
 もう少し。もう少し。
 息を詰めながら、とうとう触れ合う。
 すると、その途端。
 彼の体が光を放ち始めたのだ。
 次々に変化する、虹色の光。
 しかしその後、少年は自分自身の体も同じように光っている事に気づいて驚いた。
「一体、どうなってんだ・・?」
「お主がしたことではござらぬか」
 ふと見ると、その人は起きて自分を見ている。
「まったく、油断も隙もない。お主、まんまと拙者を騙したな」
 少年は訳が分からずただ呆然としている。
「あの時、お主、魂の欠片を拙者の中に残しただろう。おかげでお主の魂は少し端が欠けておるぞ」
そういってその人はくすくすと笑う。
「ほら、拙者の中に残されたお主の欠片が、お主に反応して光っておる。・・綺麗なものでござるな。魂のない拙者には持てぬ光と思うておったが、」
 その人は自分の手をかざして光を見詰めた。
「お主の魂、暖かいでござるな。」
 少年は、光り輝くその人を見て目を奪われた。
「今日は偶然お主に見つかってしもうたが、今はさだめの時ではない。お主の生はまだ残されておる。さあ、もうお帰り。」
 訳が分からぬまま、優しく言われて少年はうなずいた。
「じゃあ、またな」
 いたずらっぽく笑いながら、その人は言う。
 少年も笑ってうなずいた。
 少し走って、振り返る。
 その人は、桜の木の下で靡く赤い髪を押さえて立っている。いつか、どこかで見た光景。
 少年の瞼の裏で、一瞬桜が満開に咲き誇った。
「なあ、俺たち、ずうっと一緒だよな」
 少年は、自分が発した言葉に驚く。勝手に声が出ていた。
 少年は首を捻りながら、元気に走り去っていく。
 その人の頬に、ゆっくりと笑みが広がった。
「もちろんでござるよ、左之。」

こうして、季節は巡り、輪廻も巡る。
ふたりの思いを乗せて、永遠に。  

 

                                  了

 

 

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