=鷹宮 椿
=佐倉 裕
  

 

 人形を褒める時に、「生きているみたい」という賛辞はよく使われる。
    しかし人形は、死体である。
    温もりなどない。つめたく、堅く、静かである。
    だから、人形は死んでいるようにみえる。
    死んだ瞬間のまま、永遠に死に続ける。

      左之助は、箱を見つめている。
    喧嘩屋斬左は、不思議な依頼を受けた。
    人形を守ってくれ、というのである。
    依頼人は、東京でも知らぬもののないお大尽である。
    彼は、死んだ自分の娘を模った人形を、贅を尽くして拵えさせた。
    その人形があまりに見事な出来なのでか、その人形が化けてでる、という噂が立った。
    そしてさらに、その人形を狙うものまで現れたという。
    豪商は一連の噂を払拭し、人形を盗賊の手から守るために斬左を守り役に選んだのだ。
    左之助はあまりにばかばかしい依頼を初めは一蹴したが、使いの者に日参され、いいかげん辟易して受けたのだった。
    丁度暇ではあったし、懐具合といえば素寒貧状態、反して報酬は大変な高額だった。仕事の期限は一月。
    『ただこうやって箱を眺めてりゃいいんだから、ボロイ仕事だな。ったく、金持ちってのはわかんねえ奴らだ』
    左之助は心底呆れながら仰々しい桐の箱を一瞥した。実は、左之助は中の人形を見てはいない。
    元々左之助は人形になどこれっぽっちも興味なかったし、箱には鍵が厳重に掛けられていて、中をみることはできなかったのだ。
    豪商は、人形の保存と盗難防止のためだと言っていたが、守り役に指名した左之助にさえ見せないとは、少し妙な話ではあった。しかし、そんなことは左之助にはどうでもいい話である。ただ報酬を受け取れればいい。少しでも早く、この阿呆らしい仕事から解放されて、うまい飯と馴染みの女の懐にありつきたいばかりだ。
    左之助の頭上には、満月が朧に霞んでいる。  
  今日の夕暮れ、薄暗くなって人形の収められている土蔵に向かう道すがら、左之助はひとりの女とすれ違った。
    珍しい風貌に、初めは異人かと思った。
    沈む太陽のような色の髪に、青いぎやまんのような瞳。滑らかで、透き通るような白い肌。
    はっとするほど、美しい女だった。
    その女のまわりの空気さえ、変わって見えるほどの。
    すれ違いざま、女の髪が風で流れて、そっと肩を撫でた。
    左之助はしばらくして振りかえったが、女の姿は、もうなかった。
 
追いかけたい。
     その衝動に駆られないでもなかったが、追いかけたところで仕方もない。女が誘いに乗ったとして、仕事を投げるわけにも、仕事場へ連れて行くわけにもいかなかった。      
 女の面影を宙に浮かべながら、ここへ通うようになって初めて、目の前の箱の中に収まっている等身大の人形に気が向いた。女の、人形のように造り物めいた美貌から喚起された関心だ。
     左之助の来ない昼の間、この人形は毎日髪を梳かれ,着物を着せ替えられているらしい。奉行人達が囁き合っているのを耳にしたことがあった。
     (粋狂な)
     苦い口調でそう言った、実直そうな初老の男はその後に、死んだお方は死んだまま、そっとしておいておやりなさるのがいいと付け加えていた。
     よく出来た人形は魂を宿すという。
     あるいは、左之助の依頼人は娘を呼び戻そうとしているのだろうか。
    『まあ、えれえ別嬪だったらしいし、化けて出んなら一遍面ァ拝んでみてえもんだな』
     心中独りごちて、再び夕闇に見た女を思い出す。
     空気まで変わるようなと感じた印象は、゛この世のものならぬ゛と表現すべきであると、今気がついた。
     そこで、眉をしかめる。
     何故こうも、あの女が気に懸かるのか。
     自慢ではないが、左之助は思春期以降この方、女に不自由したためしはない。
その代わりに、両手両足の指に余る程女の身体を知っていながら、恋の甘い蜜とやらを味わったこともなかった。
     触れなば落ちんどころか、触れずとも向こうで勝手に落ちてくるような環境で恋が出来るとしたら、それは一種才能に違いない。生憎、左之助にその才能は無いと、本人を含めて周りの誰もがそう思っていたのだが。
    『へっ、馬鹿らしい』
     これが恋などと決まったわけではない。まして相手とは、この広い東京で二度と会うこともないだろう。
     未だ中天にある月を見上げる。夜明けまでが約束した刻限だ。先はまだ長い。俸給が滅法高いとはいえ、あまりに退屈なこの仕事に好い加減うんざりしていた。これがまだ、半月続くのだ。
     左之助が突然身を緊張させた。
     かたり。
     どこかで、ごくごく微かな物音がした。
  
「何だ・・・?」
    左之助は耳を澄ました。
    カタン・・カタン・・。
    幽かだが、確かに聞こえる。
    左之助は音のでどころを探った。
    どうやら、その音は、箱の中から聞こえるようだ。左之助はそっと近寄り、箱に耳を近づけた。
    カタン・・・カタン・・・。
    音は、段々高く、激しくなっていく。
    大抵の者なら、そこで肝を潰して悲鳴を上げ、逃げ去っていただろう。化けてでるという人形の噂を知っていればなおさらだ。しかし左之助は臆する事無く箱に手をやる。
    「俺様が化け物の正体とやらを暴いてやるぜ」
    左之助はカタカタと揺れる箱の錠前を握りつぶした。彼の強力にかかれば訳もない。
    ゆっくりと、箱の蓋に手を掛ける。
    少しの抵抗の後、桐の箱が開いていく。
    初めに感じたのは、かぐわしい香の香り。
    白い刺繍入りの絹の布団が敷き詰められた中で、ひとりの女が身を横たえていた。
    女の着物を見慣れた左之助には、水色を基調に色とりどりの牡丹の花をあしらった淡い色の着物が、ひとめで高価なものだと見て取れる。
    しかし何より左之助を驚愕させたのは、横たわる女の姿だった。
    緋い髪。蝋のように白い肌。ぽってりとした桃色の唇はもの言いたげにうっすらと開かれている。
    あの女だ。
    あの燃える日と夕闇の紫の交じり合う夕焼けの中、すれ違ったあの女。
    左之助の頭は、まっしろに染まっていく。
    しかし、目は貪るようにただ女の姿を見つめていた。
    魔物に魅入られたかのようにふらふらと女の側に膝をつく。
    知らず震える手をのばすが、この世のものならぬ姿に畏怖を感じて触りかね、阿呆のように体の上の空を撫でるばかりだ。
    どんなつわものを相手にしても震えることなど一度とてなかった喧嘩屋斬左が、女の姿に手を震わせるなどありえないことである。しかし左之助はただ痴呆のように女をみつめ、空を撫でていた。
    これが、本当に命のない人形なのであろうか。
    左之助にはとても信じられなかった。
    「それに、俺は確かにこの女が歩いているとこを見たんだ・・」
    左之助にはこの女が生きているようにしか思えなかった。
    その時、空を撫でる左之助の指が女の絹糸のようななめらかな艶のある緋色の髪に引っかかってしまった。
    冷たい髪の感触が左之助の無骨な指の間をすり抜けていく。
    左之助は慌てて手を引いた。
    触れてはいけないものに触れ、汚してしまった罪人のように項垂れ、息を詰める。
    その刹那。
    女の瞼が幽かに震え、螺鈿のようにきらめくあおい瞳がゆっくりと姿を表したのだ。
   
かたり。
     瞼の上がりきった瞬間、先刻(さっき)の音を再び左之助は聞いた。生唾を呑み、人形の肌へ躊躇いがちに手を伸ばす。堅く冷たい、無機物の感触。触れた掌に、きりきりとぜんまいの振動が伝わってくる。
    『絡繰』
     酔狂な、と苦い口調が耳朶に甦える。
    「・・・はっ・・・」
     嗤いとも、安堵の息ともつかぬ声を漏らし、左之助は腰を落とした。
    『ったく、金持ちって奴ぁ・・・』
     この分ならば、人形の身体中の関節が人間のように動く位は当然、秘処まで本物同様に造りこんであるに違いない。
    『生き人形ねえ・・・』
    左之助も、物見高い舎弟達に無理矢理に連れ込まれて、どこぞの寺の境内に掛かっていた小屋で見たことはある。だがあれは、金を稼ぐ道具だ。どれほど金をかけて緻密に造ろうが、むしろその故にこそ資金(もとで)を回収し、興行主の懐を潤すだけのものを稼ぎ出す。しかし、この人形は個人の持ち物だ。娘を偲ぶためとはいえ、度を越している。それとも、それを可能にする財力があるならば、子を亡くした親の総てがこうするのだろうか。
     もう一度左之助は、箱を――柩を覗き込む。
     ただ見開かれているばかり、そこに何も映しはしない瞳が虚ろに煌めいている。生命(いのち)がないとは信じ難い、けれど間違いなくただの殻が横たわっている。
     この娘の親達は、何故こんな人形を造らせたのだろう。こんなものが眼前にあっては、時間に癒されるはずの悲しみが日々新たになるばかりではないのか。
     娘の魂を呼び戻す。
     ほんの戯れの考えが、いやに真実味を帯びて左之助に迫る。
    『ぞっとしねえ』
     眉をしかめ、目を離せずにいる人形を改めて見つめた。
     それにしても。
    『よく似てやがる・・・いや、生き写しだ・・・』
     そう、あの女に。彼女の着物こそ、この人形と較ぶべくもない粗末なものであったが・・・・・。
    左之助は、夕暮れにあの女を見て以来、頭の隅に引っかかっていた小さな違和感の源に気がついた。
    『ありゃあ・・女じゃ・・・ねえ・・・』
     確と見定めたわけではないが、春まだ浅いこの時期に洗いざらして薄っぺらな単衣、その上から脇の大きく開いた、剣客風の袴を履いていた。
     男装、ではなかろう。襟元を大きくくつろげて着崩していた。女ならば胸乳が丸見えだったはずだ。気付かなかった自分が信じられない。
    「なんだってえんだ」
     思わず、声に出して呟いていた。
     これほどの美貌がざらにあろうとは思えないが、それでも面差しだけなら似ていることもあろう。けれど、異人めいた緋い髪と碧い瞳、こんな特徴を備えた者が二人といるだろうか。それも、対のように男と女。
    「お前ぇさん方ぁ、何者(なにもん)だい、お嬢さん」
     絹の褥に寝(やす)む、物言わぬ人形に問うてみる。小さく開いた唇が、語ろうとする兆しならず接吻(くちづけ)を求めている表情(かお)に見え、黄昏時に擦れ違った幻想のような若者より、余程現実の生々しさをもって左之助を刺激する。
    『どうかしてらあ』
     ふるりと頭を振ると、惜しい気もしたが見開いたままの人形の瞼を閉ざしてやった。      
 翌朝、左之助は朝餉を馳走になる前に主への面会を申し出た。
     幕末の混乱に乗じて一代で成り上がった、人となりは知らねど外見ばかりは温和そうな老人に、壊した錠前を見せて事情を簡単に説明する。
    「ああ、あれをご覧になられましたか。いやなに、盗人除けとは建前でしてな。
娘の遺影代わりに金に飽かせてあんな人形を拵えたと、他人(ひと)様に蔑まれるのが恥ずかしいばかりに・・・。そうですか、そんな大きな音をたててねえ・・・。暫く動かすこともなかったので絡繰の調子が狂いましたかな」
     それならば、一度見られた以上は錠をする必要もないはずだが、夕方再び左之助が出向いた時には、箱により堅固な施錠がなされていた。
 
あの日から、左之助はこの人形が頭から離れなくなった。
    今まではただ漫然と時が過ぎるのを待つばかりだったこの仕事も、箱の中にあの人形が入っているのだと思うといてもたってもいられない気持ちになる。
    そしてあの男。
    この人形と、どういうかかわりなのか。
    この人形を辿れば、あの男に再び出会えるのか。
    再び会ってどうするつもりなのかと問われれば、なにかはっきりした目的があるわけでもない。
    しかし、どれほど自分の思考が普段とかけ離れていることに気づいていても、彼にはどうしようもない衝動があの男に向かっている。
    この理解不能なもやもやとした感情も、彼にもう一度会えれば晴れるのではないか、そう自分に言い分けることで左之助は自分を騙していた。
    そしてあの人形を見てしまった日から数日後。
    機械仕掛けの鼓動を聞こうと、左之助はうずくまり箱に耳を当てていた。なんの手がかりもない今、左之助にとってはあの無機質な音色さえ人形のささやきのような気がしていたのである。
    しかしその世は、人形は完全な沈黙を守り、幽かな音さえ立てなかった。
    沈黙は彼らのさだめだというのに、左之助は焦燥に駆られ、桐の箱を揺さぶる。
    「おい、どうしたよ。今日はなんも言わねえのか」
    箱は奇妙なまでにあっけなく動く。
    左之助は箱が妙に軽いのを不審に感じた。数日前箱に触れた時は、たかが人形が入っているにしては恐ろしく重たかった覚えがある。精巧なカラクリが人形の体内に仕込んであるならその重さも当然ではあったのだが、そのことがますます人形を人形らしく感じられなくさせていた要因でもあった。しかし今触れたこの箱はまるで何も入っていないかのように軽い。
    なにも入っていないように・・?
    左之助は慌てて箱の錠前を壊す。
    心臓が早鐘のように打つ。
    果たして。
    箱の中には、絹の刺繍布団の他には、何も入っていなかったのである。
    瞬間、左之助の頭にはカッと血が登った。
    あれを、一体何処へやりやがった。
    今日一晩中、俺に空箱を見張らせるつもりだったのか。
    実際左之助の怒りは、商人に謀られた事ではなく、純粋にいると思っていた人形の不在に対するものだったのだが、左之助自身それには気づいていない。
    すっかり頭に来た左之助は、あの福助じじいを殴りつけてやろうといきり立って立ち上がった。
    その時。
    部屋に何処からともなく強い風が吹き込み、行灯の火が消えた。
    とたんに、バタン!という激しい音がして、土蔵の換気用の窓が開く。
    その世は新月、濃密な闇の中で、左之助は視界を奪われ立ち尽くす。
    自分が目を閉じているのか開いているのかさえわからなくなる。
    しかし、背後に確かな気配を感じて、左之助は振り返った。
    そこにはあの緋色の髪の女、
    いやそれは着物ではなく、あの日すれ違ったと同じ羽織袴姿、
    男だ。
    左之助は目を裂けんばかりに見開き、立ち尽くす。
    頭から冷水を浴びせられたように毛穴という毛穴が収縮し、髪が逆立つ。
    左之助の中の動物的勘がガンガンと警鐘を鳴り響かせている。
    どんどん鼓動はゆっくりになり、体が見る間に冷えて行く。
    冷たい汗が一斉に噴出す。
    こいつは、
    左之助は「今すぐ去れ、さもなくば目を閉じよ」と命じる本能に必死で逆らい、全ての力を振り絞って手を伸ばした。
    緋色の男は、そこに左之助がいたことに驚いたようにあおい螺鈿の瞳を見開いていた。
    しかし自分に向かって手を伸ばす左之助に気づくとゆっくりと体を遠ざける。
    そしてそれにしたがって彼の体は次第に拡散し、急速に存在を失って行く。
    「おい、」
    左之助は裏返った震える声で声を絞り出す。
    手は確かに彼の手を掴むはずだったのに、むなしく空を掻くばかり。
    そして男は、瞳にかすかな驚愕を滲ませながら、闇に溶けていってしまった。最後に瞳のあおが残像のように左之助の瞳に焼きついた。
    後にはただ虚ろな闇が、広がるばかりである。
    「消え、ちまった・・」
    左之助はそうして朝まで立ち尽くしていた。

 

 

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