幸福論 

 


「なあ、左之?」
 洗濯物を干しながら振り返ると、縁側には腕を枕に長々と伸びている左之助の姿があった。
 にやにやと締まらない笑みを浮かべながら、剣心の方を見つめている。
「左之?聞いているのでござるか?」
「んあ?なんだって?」
 剣心を見ていたくせに、話をまるで聞いていなかったらしい。
「何にやついてるのでござるか。拙者の話、聞いてなかったのでござるか?」
 剣心は呆れたように溜め息をついた。
「これを干したら買い物に行くから、一緒に来るかと聞いたのでござるよ」
「おうっ。行く行く!」
「また結構な大荷物になるでござるから、荷物持ち、よろしく頼むでござるよ」
「おうっ」
 以前なら、面倒くさがって文句たらたらだった左之助が、最近は喜んでついてくるようになった。
 頭ふたつも小さい剣心の後ろを、まるで子犬のようについて歩く左之助の姿に、自称舎弟たちは泣き暮らしているともっぱらの噂だ。
「…左之、どうしたのでござるか?最近、ごきげんでござるな」
「ん?まあな」
「何かいいことでもあったのでござるか?」
 左之助は体を起こすと、眩しそうに剣心を見つめている。
「左之?」
「ん?い、いや。なんでもねぇ」
 左之助はあわてて明後日の方向に視線を逸らせた。
「おかしな左之でござるなぁ」
 左之助に背を向けて、洗濯物の残りを干し始めるが、すぐにまた、後頭部に左之助の視線が張り付くのを感じる。
「まったく、おかしな左之でござる…」
 剣心は小さくつぶやいて、笑みを漏らした。

「なあ、ちょっと散歩でもしていかねぇか?」
 買い物を終えて、大荷物を抱えた左之助が、剣心の頭上から遠慮がちに声をかける。
「散歩って…。左之はだいじょうぶでござるか?」
「おうっ。こんな荷物、屁でもねぇや」
 大仰に何度も持ち上げて見せて、剣心の顔を覗き込む。
 剣心の返事が、戻ってこようとしている。
 その一瞬、左之助は下っ腹に力を入れた。目を閉じる。
「で、どこへ?」
 応えは、諾だ。
「じゃあっ、じゃあよ、河原の方に行ってみねぇ?いいとこ知ってんだ」
 剣心が笑って頷くと、子供のように顔をほころばせた。
 上、斜め60度。それが左之助から見る、剣心のいつもの姿だ。
 少しふわふわした滑らかそうな艶のある髪は、光によってその表情を変えた。
 髪が風になびく度ちらりと覗くのは、思わず息を呑むほど白く、細いうなじ。
 屈んでやっと目に入る横顔には、いつも淡い笑みを浮かべている。その頬に落ちる、長い睫の影。
 吸い寄せられる視線をそっとほどくように、時折振り向いてはこちらを見上げ、微笑みを投げる。
 その度に慌てて視線を彷徨わせる左之助だったが、剣心が向き直るとすぐに、真っ黒な両目は剣心の背中へと張り付いた。
 ちいせぇなあ、と左之助は心の中でつぶやいた。
 明治の世で、左之助ほどの長身は希にしかいない。だから左之助にとって殆どの人間は小さき者であったが、中でも剣心はとりわけそう感じられた。女子供に間違われる身長に、剣術小町の異名をとる薫と並んでも、どちらが少女なのか一目では判別しがたいその優美な姿が、一層左之助を困惑させる。
 しかしどれほどいとけなく、優しげな姿をしていようとも、彼は幕末最強の、いや明治の世でも最強の男に違いなかった。彼の強さは、誰よりも左之助が認める所だった。
 左之助にとって、自ら認める負けは生涯一度きり、剣心との戦いのみだ。
 自らの強さだけを恃みにしていた左之助にとって、敗北は存在意義の危機に等しい。しかし力で圧倒したばかりでなく、左之助の中にある傷に触れ、それを癒してくれた剣心に負けを認める事はつまり、左之助にとって剣心が唯一絶対である存在に君臨した瞬間でもあったのだ。
 左之助にとってはそんな七面倒くさい分析などまるで考えの外だったが、ただ、完膚無きまでに打ちのめされて見上げた青い空と一緒に視界に入ってきたあどけない微笑は、その瞬間に左之助の心をまるごとさらってしまった。
 それはまるで、出会いがしらの事故のように突然で、避ける術などありはしなかった。
 今、心の中に生まれつつある感情の名前を、左之助は知らない。
 左之助はただ、一身に剣心を見続けてきた。
 自分自身さえ気付かなかったほど、それは左之助にとって自然の成り行きだった。
 ただ彼を見ていたいという、純粋な想い。
 お陰でいまや左之助の瞼の裏には、膨大な数の剣心の姿がひとつひとつ大切にしまい込まれている。
 俺が投げた言葉に、伏し目がちに返された曖昧な微笑み。
 敵に向かう時の、迸るような殺気を込めた目の光。鮮やかな色の髪が宙を舞って、彼自身がまるで燃えさかる火の玉のようだ。
 ふたりきりのおだやかな昼下がり、柱に凭れてうつらうつらと眠る、そのあどけない穏やかな寝顔。
 しかしどれほどたくさん彼のデータを集めても、左之助は満足しなかった。
 もっと知りたい。
 もっと色んな表情を、姿を、言葉を。
 思いを、過去を、傷を、誰にも見せない、心の奥を。
 彼の、全てを。

「左之…?」
 ぼんやりと物思いに耽っていた左之助に、剣心は振り返って小首を傾げる。
 ふわりと、白い首筋が露わになる。
 左之助は慌てて目を逸らすが、どうしても視線がそこへ戻ろうとするのを止めれられない。
 実は膨大な量のデータの中には、左之助の雄を刺激するようなものが少しばかり、正直に言うと結構たくさん、あったりする。
 風呂上がりの桜色に染まった肌だとか、緩く着付けられた着物の隙間から一瞬覗いた桃色の乳首とか、庭で行水を使っていた時に見てしまった可愛らしいおしりのくぼみとか、見事な曲線を描くほっそりした脚だとか。
 だから、その時目に入った、傾げられた首の絶妙な角度や、首筋のラインはばっちり左之助のデータに蓄積されたのだけれど、それらは主に目覚めの際に左之助を悩ませ、ここ数年ご無沙汰だった右手のお世話になる羽目に左之助を追い込むのだった。
 なぜか顔を赤らめる左之助の様子を知ってか知らずか、剣心は日常の細々とした出来事の話をする。こんな時の剣心はとても幸福そうで、左之助の胸にはなぜか切ないものがこみ上げた。
「ほら、こっちだよ、こっち。」
 左之助が剣心の先に立って、差し招く。
 そこは、人気のない河原だった。川の流れる音がさらさらと響き、見晴らしもいい。滅多に人の通らないここは、ふたりきりでゆっくり話をするのに格好の場所だ。
 左之助は、二人で坐るのにちょうどいい大きさの石に剣心を座らせ、自分も隣に腰掛けた。
「…静かなところでござるな」
「ああ。昔からよくぼんやりする時に来てたんだ。…ほら、俺らが最初にやりあった場所、ここからそれほど遠くないぜ」
「…あの時は、すまなかった。拙者、あんなに左之を傷つけるつもりはなかったんでござる、しかし左之は強かったし、本気で向かって来たから、手加減する事ができなくて…。痕に残ってなどおらぬか?」
「馬鹿、謝ったりすんな。おめぇに謝られたら、なんかますます俺情けねぇだろ」
「……すまぬ」
 しばらく、沈黙がふたりの間に落ちる。
 川の水の流れる音だけが、あたりを包む。
 ふと、左之助がそれを破った。
「でもよ、なんかちょっと悔しいよな」
 何が、と問いを含んだ剣心の瞳が向けられる。
「だってよ、俺はもう、お前にあんな風に向かって来られる事なんてねぇだろ。おめぇが戦ってるとこはもう横で見てるだけで、正面から受け止めるのは他の奴らばっかりになっちまった。」
 剣心はくすくすと呆れたように笑いながら言った。
「おかしな事を言うでござるな、そんな事が悔しいのか?」
「ああ。おめぇは知らねぇだろうけどな、おめぇと戦うのってすげぇんだぜ。なんつーか…、なんもかんも忘れてよ、自分が剥き出しになるっつうか…。周りじゅうがキラキラして、生きてるって感じがすんだ。」
 それに、戦っている時の剣心は本当に綺麗で、思わずこのまま殺されてしまいたいと、あの瞳に見つめられながら、こときれたいと思ってしまうほどなのだ。
 もちろん、そんな事は口に出しては言えなかったけれど。
 そっと目を伏せる剣心の横顔を、左之助は静かに見つめる。
「だから、お前と戦ってる奴らも、ああいう気持ち味わってるのかと思うとよ、ちょっと羨ましいかも、なんてな。俺はもう、お前から、あんな風に向かってこられねぇのかと思うと、余計な」
「そんなことは、わからぬよ、左之。昨日の友が、今日は敵になっている事などあの頃の京では毎日のようにあった…」
 呟くような声に、耳を澄ます。
「じゃあ、俺もまた、おめぇと戦う事ができる日が来るか?」
「…拙者は、そんな未来など見たくはない」
「それが俺の望みでもか?」
「…左之…」
「俺はよ、お前と並べる男になりてぇんだ。今はかなわねぇ、情けねえけど、本当の事だ。でも、いつかは必ず、おめぇと引けをとらねえ男になる。そしたら…」
 剣心、お前を守りたいんだ。
 その時心に浮かんだ言葉に、左之助は自分で驚いた。
 剣心を、守りたい?
 負かしたいのではなく?
 しかしどれほど考えてみても、自分の気持ちは鮮やかだった。
 剣心を、守りたい。
 誰よりも強い剣心を、守りたいなどと冗談もいいところだ。
 彼を見続けてきた左之助には、他の誰よりも剣心の強さがわかっている。
 剣心は強い。心も、剣術も。
 でも、と左之助の心の奥から小さな声が聞こえる。
 俺は知っている筈だ、誰よりも強い剣心の、もうひとつの側面を。
 その笑顔の奥に隠された、脆弱な心を。
 したたかな強さと、くずおれそうな弱さが、あざなえる縄のように複雑に絡んでいるのが、剣心だった。
 そのひとつひとつを知るたび、左之助の心は喜びと痛みに震えたのでなかったか。
「剣心…」
 左之助は、たったいま辿り着いたひとつの答えに自ら驚愕しながら、改めて目の前のちいさなひとの姿を見た。
 細く、うすい肩。剣術をよくする男の手とは思えないほど優雅な指先。彼を構成する全てが、思わず目を奪われるほどの鮮烈で優しい美しさに充ちている。
 そんな事は、ずっと前から知っていたはずだった。
 しかし今、左之助の目にうつる剣心の姿は、今までとは全く違う意味を持って左之助の心にせまった。
 こいつ、こんなに儚かっただろうか。
 目を離せば、全てをなかった事にして消えてしまいそうな気がして、左之助は息をつめた。
 彼が消えてしまったら、という考えが頭をよぎった瞬間、左之助の目の前が真っ暗になる。
 どんな敵に対峙した時でも震えた事などなかった左之助が、想像しただけであまりの不安と恐怖に押しつぶされそうになっていた。
 突然胸を襲った苦しみに耐えかねて、左之助は石の上に置かれた白魚のような手に震える手を伸ばした。
 この時になって、やっと左之助は気付いた。彼に対する気持ちの呼び名を。
「左之?どうかしたのか?」
 自分の手の上に重ねられた、冷たくかじかんだ大きな手に、剣心は気遣わしげな声で尋ねる。
「剣心…、お、俺が、俺が守るから。」
 思わず顔を見上げると、そこにはいつになく真剣な面もちの左之助がいる。
「俺が、守るから。だから、」
 突然、強く引き寄せられる。
「だから、どこへも、どこへも行くな。」
 その広い胸に強く抱きすくめられて、剣心は一瞬言葉を失う。しかし、すぐにくすくすと小さな笑いを漏らした。
「何がおかしい?」
 少し拗ねたように、左之助が問いかける。
「拙者、誰かから守ってやると言われたのは、生まれて初めてでござったなあ、と思って。」
 途端に左之助は顔を赤らめた。
「馬鹿にしてやがんのか?俺じゃあ役不足だとでも言いやがるのかよ」
 剣心は左之助の胸に頬を擦り付けながら、小さく首を振った。
 冷たい頬の感触を胸に感じる。彼の鼓動を、間近に感じた。
 心臓の鼓動でさえあまりにも愛おしくて、胸を締め付けられる。この鼓動を守る為なら、自分はどんなことだってするだろう。
 真っ青に澄んだ空には、雲が流れている。いつもと同じ、せせらぎの音が流れる。しばらくふたりはそのままお互いの鼓動に耳を澄ました。
 この時になってやっと左之助は、彼を抱き寄せていた事に思い至る。
 あまりの気恥ずかしさに慌てて身を離す。どんな顔をしていいやらまるでわからず、わたわたと辺りを見回した。
 今やっと、自分の気持ちを理解したばかりの左之助には、戸惑いも大きい。
 しかしいまや、左之助は自分の求めているものが何なのか、はっきりと悟っていた。
 自分と同じ思いを、彼が返してくれればそれ以上の幸福はない、けれども何より左之助は隣に坐るひとが確かに生きているという事実に、ここに存在しているという真実に幸福を感じていた。
 願わくば、このまま時が止まってしまえばいいと。
 俺は一生彼の事を求め続け、守り続けるだろう、と左之助は漠然と感じていた。
 きっとその為に俺は生まれたのだ。
 ここまで歩んできた道程は全て、彼に出会う為だったのだと。
 彼の言葉や信じるもの全て、俺が守る。誰にも、汚させはしない。
 彼が信じた道を阻むものがいれば、俺が全力で排除してみせる。
 剣心、お前がお前であり続ける為なら、俺は俺の命を投げ出したって惜しくはないんだ。
 左之助は、まだ何も知らない。彼の辿ってきた道のりも、彼の頬の傷の意味さえも。
 それでも、なお。
 胸から溢れそうになる想いを、左之助は辛うじて押さえた。
「そろそろ行こうか、左之?」
「あ、ああ、そうだな」
 立ち上がって先に歩き出す剣心を、いつもの通りに見下ろしながら左之助もあとに続く。
「左之、…ありがとう。」
 ふと、立ち止まった剣心が、振り返らずにそう呟いた。
「え?何か言ったか、剣心?」
「いいや?」
 くるりと振り返っていつもの笑みを左之助に投げる。
 いつもと同じように、呆然と見惚れてしまう左之助をそのままに、剣心はひとりさっさと行ってしまう。
「あっ、待てよ、剣心!」
 我に返った左之助が、慌てて跳ねる赤毛を追って走り出した。
 空は今日も青く澄み、雲が流れている。
 鳥は囀り、かたつむりは枝に這い、世は全てこともない。
 そしてふたりの関係にも、何の変化も起こってはいない。
 今はまだ。
 今は、まだ。






















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