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眠り姫






 あの森に入ってはいけない、と村人たちはこぞって青年を止めた。
 あのお方、と老婆はくちごもった。・・・あのお方、夜の君の呪いが、五百年の間この森を支配しているのだ、と。
 あの森に入って、生きて戻ってきたものは誰もいない、と。
 闇の公子、妖魔の王の意に添わぬ者が無断で入れば命はない、と老婆は囁いた。
 しかし青年はどんな言葉にも耳を貸そうとせず、その端正で精悍な顔の上に、不敵な笑みを浮かべるばかりであった。
 森へ向かって立ち去っていく青年の背を見送りながら、老婆は跪き、神々に青年の無事を祈った。

 青年は旅する者だった。この世に産まれ出た時より、どうしようもないほどの喪失感と切なさに心を支配されていた。
 そしてこの世のどこかに、この痛みを止められるものがあるはずと、ひとり世界を彷徨う身となった。
 心の向くまま、青年は平らな地球を旅した。時には土地の者たちに乞われてドラゴンを打ち倒し、時には海中の王国に招かれ、王女に恋われて命からがら逃げ出したりもした。
 いつしか青年は英雄と呼ばれたが、しかしどんな冒険も目を見張るような富も、そしてどれほど美しい女性でさえも彼の心の空虚を埋めはしなかった。

 呪いの森にほど近い都で、青年は老いた占い師に声を掛けられた。占いなど頭から信じない青年は、そのまま立ち去ろうとしたが、占い師は皺だらけの手で青年の腕をとり、囁いた。
「あなたさまのお探しになっておられる方は、もうお側近くにいらっしゃいます。しかし、邂逅は互いの身の破滅。あのお方が、」
 と言って声を更にひそめた。
「闇の公子が許しはなさいますまい。更には天も。どうあがいても許されぬのならば、いっそ諦めなさいませ。知らなければ、生まれぬ思いのはず。このままもと来た道をお戻りになり、安楽な一生をお送りなさいませ」
 訳のわからぬその言葉に、青年は狂れる老人の妄言と切り捨てて銀貨を一枚投げ立ち去った。

 今、呪いの森の中で、青年ははぜかあの占い師の言葉を思い出していた。
 闇の公子。その名を知らぬ者はない。あらゆる悪を支配する妖魔の王たる王。彼の目に留まった者は必ずや破滅すると言われた。それが寵愛であろうが、憎悪であろうが同じ事。
 青年も旅の途中で幾度か、その名を耳にした。しかし偶然かあるいは必然か、妖魔の王にまみえる事は一度としてなかった。
 あの占い師も老婆も、引き返せと言った。しかし青年の心は、今までにないほどの高まりを感じていた。
 遥か向こうに、白磁の城がそびえたつのが青年の澄んだ瞳に映る。
 あの中に、俺が求める何かがある。
 この胸の虚を埋める、何かが。
 青年はまるで篝火に吸い寄せられる愚かな虫のように、荊を切り裂きながら白磁の城へと向かっていった。
 棘の生えた蔦が絡む大門を打ち壊し、城の中へと進入した青年は、目を見張った。
 五百年の時は、城の周りや内部を朽ちさせ、荒れ放題にさせてはいたが、その美しさはたとえようもなかった。全てが白磁でできあがっている城は、その内部も磁器に溢れていた。城のいたる所には、彩色されないままの白磁で作られた今にも動き出しそうな動物たちが配され、さしずめ白い動物園の様相を呈していた。
 しかし全てが白のみというわけではなく、天井までが深青の柔らかなビロードが張られ、サファイアが散りばめられた部屋があれば、深紅のビロードにルビーの部屋が対になっている、といった具合だった。
 人どころか妖魔の類の気配も一切感じられない。青年は城の美しさに驚嘆しながら、白磁の床に響く自らの足音のみを頼りに進んでいった。
 そしてとうとう、ひとつの大きな黒檀の扉に辿り着いた。
 重い扉を開くと、すぐにまた、一回り小さな扉。それを開けると、また扉。
 ひとつ扉をあける度に、青年の鼓動は高鳴っていく。
 様々な材質の扉をいくつも開き、やっとひとり通れるくらいの扉に辿り着いた。
 その扉は最上の翡翠でできており、王家の紋章であろうか、細かな装飾が彫りこまれていた。
 青年はそっと扉を撫でる。冷たい翡翠の感触に、なぜかしら身震いした。
 この扉の向こうに、一体なにがあるというのか。
 ひとつ息を吸って、取っ手に手をかける。
 ゆっくりと扉を開いた。
 そこは、輝く純白の部屋だった。絹の壁にはダイアモンドが埋め込まれ、中央に置かれた天蓋からは、同じくダイアモンドが縫い込まれた練絹が豊かにたゆたっていた。
 そして何より、青年の目を釘付けにしたのは、その天蓋の下で眠るひとの姿。
 その肌はどこまでも清らかに白く、ふっくらとやわらかな頬にはほのかな赤みが差し、煌めく髪は燃える夕陽さながら、長い睫は青褪めて虹色に輝く瞼に影を落とし、唇はつやつやと熟れた桜桃だった。
 青年は思わず息を呑んだ。
 普段は精悍な印象が強く、悪童じみた言動から野性味を強く感じさせはしたが、その顔立ちは美しく端正で、鍛え上げられた体はしなやかな野生の獣のごとく、地上の娘たちのみならず海の王女をも夢中にさせる魅力を備えた彼である。多くの女性たちと恋の駆け引きを楽しみはしたが、そのいずれにも心を与えぬがゆえに、恋と恐れとを母の胎内に置き忘れてきたと称され、事実一度も恋を知らなかった。その彼が、どれほどの美貌を前にしてさえ心を奪われなかった彼が今、名も知らぬ眠り人を前にただ呼吸さえも忘れ、立ち尽くしていた。
 青年は寝台の前に跪き、生まれて初めての涙を滂沱と流した。歓喜と底知れぬ苦しみとが同時に襲いかかり、ドラゴンやトロルでさえ倒した彼の心を激しく打ちのめした。渇ききっていた泉に突如清水が湧き出したように、胸の虚が音を立てて埋められていくのを感じた。
 青年は瞬時に、自らの心の虚の意味と、これまでの放浪の意味とを悟った。
 ああ、と青年は歎息を漏らした。そしてついに出会ったそのひとの、床に零れ落ちるほど豊かに渦巻く夕陽色の髪に、そっとくちづけたのであった。
 それから、青年は眠りびとの守人となった。
 五百年の間誰もいなかった城の埃を払い、かいがいしく彼のひとを世話する。
 青年は、彼を目覚めさせようと様々な方法を試したが、その気配さえ見られなかった。妖魔の操る闇の魔法が、彼を深い眠りにつかせているのは確かなようだった。
 もしこのひとが目を覚ましたら、と青年は考える。
 瞳の色は、どんな色をしているのだろう。
 声は?笑顔は?
 青年は想像の翼を広げ、無邪気に心を弾ませた。窓を開けて新鮮な空気を部屋に入れ、かのひとの周りを香りのよい花で溢れさせた。天気のよい日は彼を草木の生い茂るベランダと連れ出し、太陽のぬくもりを与えた。そして夜は眠る彼の枕元で、青年自身の事やこれまでの冒険を、そして時にはためらいがちに彼への思いを、そっと語りかけた。青年は穏やかな日々に心を満たされていた。ただ、そのひとの左頬には刻印のように十字傷が刻まれていて、それは彼の姿を少しも損なうものではなかったけれども、青年の心をかすかに不安にさせるのだった。

 ある日、青年は森を出て、近くの村へ向かった。自分の為の食料と、白磁の城の伝説を仕入れる為だった。青年は、村の語部の住まうテントを訪れた。
 揺れる蝋燭の光のもと、盲いた語部は語った。
 「遥か昔の事、ひとつの国があった。小さな国であったが、民に飢える者はなく、豊かで美しい国だった。正しき王は、あの呪われた森の奥深くにある白磁の城に住まっていた。王には、ひとりの息子がいた。剣のごとくすんなりと伸びた体に練絹のごとく白い肌、夕陽のごとく眩い髪を持ち、誰もがひとめで心奪われるほどの美貌と、優しき心の持ち主だった。剣をよくした為に剣の心の君、という意味の名で呼ばれた。王以上に王子は民に愛され、彼が嗣子である限り国は安泰と謳われ、まさしく国はいやましに栄えた。王子の姿と心の美しさは、平らな地球の隅々にまで聞こえた。ある夜詩人が、王子の事を歌にして歌った。それを耳にした妖魔の王は、わが目で王子の姿を見んと、白磁の城へとやってきた。妖魔の王もまた王子の美しさに惹かれ、地底の都へ連れ去ろうとした。しかし王子はそれに逆らった。妖魔の王に逆らって、無事でいた人間はひとりもいない。それは剣の心の君ほどのお方でさえ同じ事。妖魔の王は城と王子に呪いをかけた。王子はたちまちに意識を失い、二度と目覚めなくなってしまった。城は命ある者は誰一人入り込めなくなり、無理に立ち入ろうとすると一瞬にして雷に打たれ焼け死んだ。王子を失った王は悲嘆にくれ、無謀にも妖魔に弓引いて国は滅びた。そして今も呪いは解かれぬまま、王子は白磁の城で眠り続けている。」
 青年は語部に呪いを解く方法を尋ねた。
「ひとつだけある。それは、王子の運命の相手の吐息を吹き込むことだ。運命の相手からのくちづけのみが、王子を目覚めさせることができると言われている」
 運命の、相手。
 青年は、人形のように眠るそのひとの側に立っていた。少し肌寒い風が薄い刺繍のカーテンを揺らし、空には弓の形をした月が浮かんでいる。
 青年は今まで、世話をする為以外に彼に触れた事がなかった。触れたい気持ちが湧かないといえば嘘になったが、何も知らない彼に無断で触れる事は彼への冒涜と思われたし、神々しいまでの美しさと、彼への思いの強さゆえに軽々しく触れる気にはならなかったのだった。
 青年は改めて、彼の眠る姿を見つめた。
 淡い月の光に照らされて、白い顔が浮かび上がる。安らかな寝顔はまるで幼子のようにいとけなかった。そっと呼びかければすぐにでも目を覚ましそうに見えるのに。こんなにも心は彼に占められているのに、こんなにもすぐ側にいるのに、どこまでも遠く、隔てられていた。
 青年は、夕焼の光を紡いだかと思われるような金糸の髪にそっと指を絡めた。青年の無骨な指を絹糸のような手触りがさらさらと通り抜け、背筋をなにかがぞくりと駆け抜ける。
 ふっくらとした頬に、触れてみる。吸いつくように柔らかな肌は微かに暖かく、確かに彼が生きている事を物語っていた。微かに開いた桜桃の唇は、まるでくちづけをねだるよう。
 そう、彼は待っているのだ。
 運命の人が、目覚めのくちづけを与えてくれるのを。
 永きの眠りから、揺り起こしてくれるのを。
 心臓の鼓動は早鐘のように打ち、手が小刻みに震えた。
 青年は息をつめ、ゆっくりと唇を落としていった。
 つやめく唇に、唇でそっと触れる。
 なんという。
 それはなんというあまやかなくちづけであったろう。
 唇が触れた途端、青年の体を甘美な衝撃が走りぬけた。思うまま彼を抱きしめたいという衝動に両腕は震えた。
 しかし。
 かのひとは目を、覚まそうとはしなかった。




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