王子は何度も、彼に暇を出そうかと考えた。しかし、故郷の弟妹たちの為に彼がここにいることを考えると、けして首を縦にはふるまいと思われた。さらに、一度盾になった者は生涯そのくびきから逃れられぬという。途中で逃げ出した者には追っ手がかかり、死を与えられる。それに、密かに彼に暇を与えたとしても、すぐに代わりの盾が用意されるばかり。
それならば、彼に側にいて欲しい。
王子は自らの思いに愕然とした。
なんという愚かで、醜い思いだろう。
しかし彼へと向かう心を、どうする事もできない。
なぜだろう。自分はただ、彼にすまなく思って見つめていただけだったのに。
彼の全てが好ましく、慕わしかった。跳ね上がる剛い黒髪も、笑うとのぞく白くて大きな歯も、あのどこまでも澄んだ強い瞳も、なにもかも。
言葉を交わす事さえできなかったけれど、そっと遠くから彼の姿を透き見、その度に小娘のように胸を躍らせた。そしてその彼が、命を賭して守るのただひとりの人が、この自分なのだ。
その事に思い至る度、眩暈がするほどの罪悪感と独占感に我が目を覆った。
どうして彼が。
あの出会いの時、何者にも縛られず屈しない彼に惹かれた自分であったのに、その自分こそが彼を縛る鎖であろうとは。
でも、彼を失う事が、どうしてもできない。
側にいて欲しい、その思いこそが、彼の命を縮めるのだ。
王子は城の自室から、子供たちと無邪気に遊ぶ彼の姿を見下ろし、ひとり静かに涙をこぼした。
ある日、王子は王の狩に随行する為に城を出た。
王子を一目見んとあっという間に人々が集まり、行く手には花びらが振り撒かれた。
王子は親衛隊に取り巻かれ、見事な黒毛の馬にまたがってゆっくりと進んでいく。
すると突然、子供がひとり道中に割って入った。
新入りの兵隊が罵声をあげ、鞭を振り上げる。
王子はそれをとどめた。見ると賢しげな男の子だ。その子は馬上の王子を見上げて一声、
「殿下へ贈り物がございます。災いから御身をお守りする品です。どうかお受け取りくださいませ」
と地に額をつけた。
王子は馬より降りると手ずから贈り物を受け取り、礼を述べると子供に褒美を取らせた。
民より慕われる王子は、このように下々の者たちから贈り物を受ける事が多かった。特に身寄りのない子供をよく見舞ったため、子供たちより心づくしの贈り物をよく受けた。それらは一度側近の者たちの手により検分されたが、王子がそれを大切にした為に、側近の目には塵同然であっても王子の元へ返されるのを常とした。その贈り物も、特に何の問題もなく、その日のうちに王子のもとへ戻された。
自室に戻り、部屋に鍵をかけてそっと包みを開く。
そこには、掌に収まるほどの大きさの、太陽を象った金のペンダント。
精緻な模様が彫りこまれた、見事な品だった。
贈り主の名はない。しかし、包みに触れた時から、あの青年の気が伝わった。
野生の獣のように自由で奔放でありながら、太陽のように笑うあの青年。
偶然かもしれない。あの子供に与えたものか、それとも都へのぼる前に拵えたものか。
でも、もしかしたら。
彼が、自分のために。
王子はその贈り物を胸にそっと抱きしめた。
その日から、王子にとってそのペンダントが、一番の宝物でありお守りとなった。
その頃、天上には神々がましました。しかし神々は既に人間に対する興味を失っていた。かつて人間を創造したにもかかわらず、それを過ち、あるいは失敗と断じ、省みることさえ忘れ果てた。つまり神々にとって人間とは、その程度のものだったのである。どれほど人間が神々に祈ろうと、そのみしるしを得られないのはそういう訳であったが、人間は自らの親の愛を疑いもせず、永遠に叶えられぬ願いを抱えて祈り続けていた。
しかしそんな神々の中でも、低位の神には人間に興味を覚えるものもあった。ある時幼い神は、運命の糸もてあやとり遊びに興じた。そしててんで何の意味も法則も規律もなく、人々の魂をその糸で結んでいったのである。その愚かな行い(つまり人間などに関わろうとした事自体である)はすぐさま高位の神に知れるところとなり諌められたが、『神は過ちを犯さぬ』ゆえに、結ばれた魂たちはそのままにしておかれた。神々にとって、人間たちの間で誰と誰とが結ばれ、結ばれなかろうが問題ではなかったからである。
その中に王子の魂もあった。
王子の魂は、平らな地球の果てに住む、さる貴公子のものと結ばれた。
運命の糸に、逆らうことはできない。大抵の者は運命の糸に心をも添わせ、幸せな一対となった。ただひとりをのぞいては。
結ばれた瞬間王子は天地が逆になったかのような眩暈と身を切り裂かれるような痛みを感じた。胸に隠した太陽のペンダントを握り締め、ただ秘密の想い人の事を思った。
しかし天上で神々がなしたことなど、どうして人間たちが知りえようか。王子は自らの身に起きた事など知る由もなく、常と変わらぬ日々を送った。
もとより現実に想い人と結ばれるとは思ってもみなかったが、知らぬ身であればこそ、夢想する自由だけは残されていた。
その点ではまだ、王子は幸福であった。
さて、王子はその美貌と優しさと剣腕をもって平らな地球の隅々にまでその名が聞こえていたが、実際に王子を目にした事のない者たちにとって、王子は歌の中のみに存在した。
今夜もひとりの詩人が王子の歌を歌った。以前よりどんな者でも一目で虜にならぬ者はいなかったが、今の王子はどこか違っていた。優しさにどこか憂いが含まれ、かと思えば慈愛に満ちた笑みは空を舞う小鳥のようにかろやかだった。以前が白磁の彫刻の美であったなら、今の王子は生の歓びに歓喜して咲く一輪の花であった。詩人は王子を心に想い描きながら、詩心のおもむくままに歌った。
その歌を、あるひとりの男が耳にした。
実際それは、男でさえなかった。その歌を聴いたのは、一陣の夜風であった。彼は夜風であり、黒狼であり、黒鷲であり、闇そのものであった。
彼の名は、広く世界に知られてはいたが、口にすることさえ畏れ多く、代わりの多くの名を持って呼ばれた。
闇の公子。夜の君。すべてが彼を表してはいたが、彼の支配するのは闇の全てであり、地底にある妖魔の王国であった。
妖魔の王。
人間を弄ぶのを至上の楽しみとする、最も忌避すべき存在であった。
闇の公子は、詩人の歌に興を動かされた。そしてわが目で王子の姿を確かめんと、瞬時に黒鷲に姿を変えて夜空へ舞い上がり、千里の道を駆けた。
王子は眠りにつく前のひととき、満月を見上げながらひとりもの思いに沈んでいた。その白く浮かぶ憂いを含んだかんばせは満ちた月の光に照らされ、長い睫毛の影を頬に作った。その横顔をひとめ見んと星ぼしさえ城へ集った。
そこへ突然、巨大な黒鷲が羽音とともに部屋へ飛び入ったかと思うと、たちまちのうちにそれはひとりの男の姿をとった。その男は、黒い炎と輝く髪と黒檀の瞳、そしておそるべき美貌を持っていた。
男は恭しく王子に礼をとった。顔には微笑が浮かべられていたが、その笑みはなにかしら不安を抱かせた。
「あの歌い手の歌は真実であったな。いや、それ以上といえる。地上なら尚更、予の王国においてさえも稀な花だ」
王子は突然の事に驚き怪しんだが、瞳はすばやく剣の在り処を探した。すると男は低い声で笑いを漏らした。
「美しい王子よ。そのような無粋なもので、予の体を傷つけることはできぬ」
ここにきて、王子は今目の前にいる男が誰なのかを悟った。
男は王子の手を取り、甲にくちづけた。唇が触れた先から、恐るべき戦慄が沸き起こった。
「王子、そなたを我が王国に招こう。そなたには全てが与えられる。常に予の傍らにいる事を許す。我が手を取れ」
妖魔の王の誘惑に耐えられる人間は皆無であったろう。低く音楽的な声は王子の理性を奪おうとし、黒く燃える瞳は王子の心を攫おうとした。大抵の人間であれば、何を悩むこともなく公子の寵愛を喜んで受け入れただろう。しかし王子の心には、妖魔の王の魔法よりも強い魔法がすでにかけられていた。
王子は青ざめ、その答えがもたらすものをも知りながら、しかし首を横に振った。
公子はしばし驚き、さらに興をあおられたようだった。
「我が想いを拒まれるとは。我が胸が痛みに張り裂ける前にそなたの心が変わればよいが。そのかぐわしい胸の中には、一体どんな秘密が隠されているのであろうな」
王子は慌てて、胸にあるものを握り締めていた手を放した。しかし、公子の目を逸らすことはできない。
公子の手が、王子の胸にのばされた。王子は必死に抵抗したが、恐るべき力の前には王子の腕力など赤子も同然であった。
とうとう、胸に下げたペンダントの鎖を易々と引きちぎられてしまう。
「ほう、これは美しい。しかし・・・」
ペンダントに触れた途端、あろうことか公子の口から低い呻きが漏れた。
なんということであろうか。金のペンダントが、なにものをも傷つけることあたわぬ闇の公子の手を、煙と音を立てて焼いているのだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・!!」
公子の闇色の瞳は、驚きと怒りに燃え上がった。
妖魔は、黄金を忌む。しかし黄金そのものが妖魔を傷つける事はできない。妖魔を殺すことができるのはただひとつ、太陽の光のみ。このペンダントにはおそらく、太陽の力が篭められているのであろう。しかし、闇の公子をも傷つける力にはまだ足りない。そこには、もうひとつの力、強い想いの力が必要だった。
公子は痛みに歯を剥き出し、虹彩を猫のように細め、銀色に光らせながらなおもペンダントを握り締めた。
闇の公子は、人間の過去や思いを、本を読むごとくに読み取ることができた。それは物を通しても同じ事。
公子はそのペンダントから、それを作った者と、その想いの源を探し当てようとしていたのである。
そして公子は、過たず見た。
匠の技を持ってそれを作り、彼自身を思わせる太陽の力を含ませ、更に強い想いの力で護符とした青年の姿を。
そして公子は青年が全てを捧げる相手が誰であるかを知り、その想い人の秘密を知り、互いが互いの心を知らぬまま想いあっていることを知った。そして更に王子の魂にふりかかった、神の悪戯さえも。
そして、互いの心に大切に仕舞われた思い出がダイアモンドのごとく輝いているのを見て、それを読み取った。
それは、ある冬の寒い夜のこと。
王子は寒さから熱を発してしまい、床に臥せっていた。
体調を崩している事が知れると、すぐさま王子はどんな病もたちどころに治すという苦い薬を飲まされるのが常であったが、その時は袖に流し込んで飲んだふりをした。その薬が病を治すものではなく、眠り薬である事を知っていたからである。
そして、寝台にひとり横になってから半刻。
眠り薬の効いた頃を見計らったように、ひとりの男が王子の寝室へそっと滑り込んできた。
そう、王子の盾にして秘密の想い人である、あの青年であった。王子の熱と痛みをその身に引き受けるべく、やってきたのだ。
扉の外では側近が見張り、奴隷の手で王子を穢さぬよう青年の両手は鉄の鎖で戒められていたが、部屋の中には王子と青年のふたりきり。
王子は眠ったふりをして時折青年の姿を透き見、手を伸ばせば触れられるほど側近くにある彼を全身で感じた。
青年は、まさか王子が眠ったふりをしているなどとは思いもよらず、愛おしさに胸を震わせながらその清らかな寝顔を見つめた。そして常の通りしかじかの呪文を唱えて王子の病を受け取る。途端に体に悪寒が走り頭が熱で朦朧としたが、それさえも王子のものであると思うと手放しがたく思われた。
王子は自分が病に伏せれば彼に会える事を知っていたが、その病の苦しみを彼に与えるのは彼の望む所でなかった。更に守り主が健やかであればあるほど盾の寿命も長い事を知り、体の管理には心を配ったため、滅多にふたりきりになる機会はなかったのだ。
熱で少し赤らんでいた顔色が戻り、呼吸も深くなった様子を見て、青年は目を細めた。胸に溢れる思いに耐えかね、あまりにも離れがたく、跪くと王子のほっそりとした白い指先に触れるか触れぬかのくちづけを送った。
この時青年は思った。いつまでもこうして王子が眠っていれば、と。
そして王子は思った。この瞬間が永遠に続けば、と。
闇の公子は、哄笑とともにペンダントを床に投げ捨てた。
そして打って変わって優しい笑みを浮かべながら、厳かに告げる。
「気が変わった。お主が望まぬゆえ、地底には連れゆかぬ。その上、その美しさに免じて願いさえ叶えてやろう」
王子は気丈にも公子の目をまっすぐに見返しながら言葉を返した。公子の言葉に、どこかたくらみごとの色を読み取ったからである。
「私は、なにひとつ願ってはおらぬ。どのような願いと申されるのか」
「どんな願いか、それは叶えられた時に知ることになろう。しかし、」
そこで公子は瞳を禍々しい銀色に輝かせた。
「予の誘いを退けた罪は償ってもらう。お主はこれより、願い叶えられるまでの間罰を受けよ」
その言葉が耳に入った途端、王子の体は金縛りにあったように硬直した。公子の言葉は呪いであった。耳を塞ぐ間もなく、逃れようもなかった。
名は、呼べなかった。思えば名さえ知らなかった。
しかし、胸に焼きついたひとの姿を一心に思い、彼を呼んだ。
そのまま倒れこむ王子の体を、公子が優雅に抱きとめる。逃れようと身を捩ったが果たされず、そのまま意識は暗い闇の底に吸い込まれてしまった。
その途端、部屋の扉が乱暴に蹴破られ、青年が飛び込んできた。
禍々しい妖魔の気配を感じ、王子が自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのだ。
そして王子を抱く黒髪の美貌の男の姿を認め、目の前が怒りで真っ赤に染まる。
「そのひとに、薄汚ねぇ手で触るんじゃねぇ・・・!!」
「ほう・・・、お前か。」
ニヤリと笑いながら、
「ではお前は何だ?奴隷の身ではないのか?」
いつしか青年がしたように王子の手を握り、指先にくちづける。
「・・・!てめぇっ!」
青年は怒りに任せて公子に殴りかかったが、指先から弾き出された光の輪によって床に這わされた。ギリギリと歯噛む青年を見下ろし、懐柔するように優しい声で語りかける。
「そう猛るな。おぬしの願いを叶えてやろうというのだぞ。そこでおとなしく見守っておれ」
そして王子の柔らかな右頬を幾度か撫でると、ナイフよりも鋭い指輪の先端で頬に十字を刻んだ。
青年が絶叫をあげ、手足が千切れてもと暴れた。しかし公子の戒めが外れようはずもない。
「予の玩具である印だ。そして、罰にも願い事にも期限が必要であろう」
公子は王子の小さな顎に手を添えると、その輝く桜桃そのもののような唇にくちづけた。
青年は憤怒そのものと化し、人間ならば睨まれただけで命を落とすと思われたが、公子には蚊に咬まれたほどのことでしかなかった。
「呪いは成った。王子は今後、運命の相手の吐息を吹き込まれるまで眠り続けよう。お前は王子を探し出すまで、心に虚を抱えてこの平らな地球を這いずるがよい」
そして一瞬にして黒鷲に姿を変えると、国中に哄笑を響き渡らせながら飛び去っていったのだった。
いかなる手をもってしても王子を目覚めさせることはできなかった。王は悲嘆に暮れ、国中が悲しみに染まった。
盾である青年は、王子を守れなかった咎を負わされ処刑された。
王は悲しみのあまり平常心を失い、あろうことか妖魔の王に弓引き、国は滅びた。そして白磁の城には魔法がかけられ、侵入を図る者には雷の鉄槌が加えられた。
そしてそのどさくさに紛れ、いつのまにか青年が贈った太陽のペンダントは失われた。
妖魔にそそのかされた醜い人間が城に忍び込むのを許され、金のペンダントを盗み出したのを知っているのは、白磁の城に据えられた動物たちばかりであった。
そうして、五百年の時が流れた。
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