青年は眠り続けるそのひとの前で立ち尽くしていた。
自分がこのひとの、ただひとり定められた運命の相手だなどと自惚れたわけではない。ただ、本当に少しだけ。
今思えば、この城に受け入れられた自分にはその資格があるのかもしれないと、ほんの少し夢見ただけなのだ。
ただひとつわかったことと言えば、自分とこのひととは決して結ばれない、ということだけ。
知ってしまうくらいなら、触れなければよかったと、今更悔いてはみるけれども。
知ってしまった今となっては、それもただの繰言に過ぎないのだった。
ただ焦がれ続けた唇の柔らかさのみが、青年の心を暖め、傷つけていた。
そして真実を知ってもなお、そのひとへと向かって止まない心を持て余す。
いつか、ずっと昔。同じような思いを抱えていたことさえ、思い出せないままに。
「・・・・・・?」
ぼんやりと意識が浮上する。
ここは一体どこだろう?
ずいぶんと深く眠っていたような気がする。柔らかいものの上に頭が乗せられ、剛い髪を優しく指で梳かれるのを感じている。
そうだった。
青年は目を閉じたまま笑んだ。
「左之?」
甘い声が耳元で囁かれて、くすぐったさに肩を揺すった。
こんな風に名を呼ぶのは、ただひとり。
自分は今恋人の膝で眠っていたのだった。
ここは、自分たちが初めて出会った森。
あの後、自分たちは何度もここで逢瀬を重ね、お互いの心を知り、結ばれたのだ。
どうしてそんな大切な事を、寝ぼけていたとはいえ忘れてしまったのだろう。
この、そんなふうにはちっとも見えないのにずっと年上で、少し短気な恋人にばれたら、どんな風に詰られるか知れない。
でも少し唇を尖らせて横を向く顔もとてもかわいいから、きっと自分は我慢できずに抱きしめてしまうのだろう。
「何を笑ってるんだ?」
つられて笑みを含んだ声が、頭上から降ってくる。
薄く目を開けると、夕焼色の鮮やかな髪が目の前にあって、つややかに光る束を摘んで指で梳く。その、絹糸のような感触。
ここで、初めて見た時から。
何かに攫われたかのように、そのひとの姿で視界がいっぱいになってしまい、何もかもがそのひとで染まった。その気持ちを何と呼ぶのかをようやく悟り、当たって砕けろとばかりに想いをぶつけた自分に、そのひとは優しく微笑んでくれた。
幸せで、あまりに幸せで。青年は恋人の細い腰に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「大きな子供みたいだな」
そう言って頭を撫でる感触が愛しくて、いつまでもこうしていたいと思う。
でも何も心配しなくても、自分たちはずっと一緒だ。
「なぁ、剣心。どこへもいかねぇよな?」
子供の駄々のようになってしまって少し照れる青年に恋人はくすくすと笑った。
「いかないよ。どこまでも一緒だと約束したろう?」
そうだった。決して、離れないと。
青年は安堵して、目を閉じる。
恋人のぬくもりを感じながら、また眠りに落ちていく。
青年ははっと目を覚ました。
昨夜、目覚めぬこのひとの側でそのまま眠ってしまったらしい。
頬に触れて、何故か頬が濡れているのを知る。
何か夢でも見たろうか。
しかし何も思い出せず、青年は首を傾げながら手で拭った。
顔を洗おうと、部屋を出て行った青年は何も知らない。
眠るそのひとの頬にも、同じ雫が光っていたことを。
そして毎晩眠る度に、夢の中で彼と逢っていることさえ。
自分が運命の相手ではないと知ってしまった青年であったが、彼はこう考えた。
今ここでこのひとを守る役目だけは、俺のものだ、と。
それでもふとした瞬間に、ひたひたと喪失の予感が押し寄せる。
いつか現れるかもしない、運命の相手。
何も考えたくなかった。ただ、少しでも長くこの静かな時が続けばいいと。
そう、できることなら、永遠に。
それは白椿が咲き誇っていた日のこと。
白い花弁が次々と舞い落ち、庭を白く染める。
絶え間なく降る花びらの囁きに隠れ、ひとりの男が世にも珍しい天馬に乗って静かにこの城を侵した。
その時青年は眠るひとの側に飾ろうと、庭に出でて椿を手折っていた。
天馬の鬣に劣らぬ銀髪と透き通るような青の瞳を持つその男は、城のあまりの美しさに驚嘆した。
偶然立ち寄ったこの地に呪われた城があると聞き興をあおられ、土地の者たちが止めるのも聞かず入り込んだ。
実のところ彼が彼自身の王国から遠く離れたこの地へ旅するきっかけとなったのは、ある夢だった。
その夢では、黒いマントを纏った男が彼に赤い糸を手渡し、これを辿ればお前の定められた相手に出会う事ができよう、と告げたのだ。
銀髪の男はその夢を見た次の日、供も連れずに旅立った。そして長い旅の果て、この地へやってきたのだった。
銀髪の男は、何百年も捨て置かれたとは思えぬほど手入れの行き届いていることを不思議に思いながら城内を探索していった。
そして最後に、黒檀の扉にたどり着く。
幾重もの扉の奥の、更に奥。
ダイアモンドがちりばめられた純白の部屋の中。
それらの宝石よりも一際輝かしい姿を、彼は見つけだした。
黒髪の青年は何も気づかぬまま、両手に花を抱えて、眠り人の側へ向かう。
青年は頬に笑みを浮かべながら思う。
あのひとの上にこのやわらかな花びらを降らせて、少しでも花の盛りを伝えよう。そうすれば触れられぬ自分のかわりに、この花びらがあのひとをなでるだろう。
青年は無意識にびろうどのような手触りの花びらに触れた。
黒檀の扉の後、最後に控える翡翠の扉。
出て行く時に閉めたはずなのに、うっすら開いていた。
それを見た途端、一瞬にして意識が白く染まる。
時間が引き延ばされたように、心臓がゆっくりと鼓動を打ちだす。
何も考えられないまま、青年は翡翠の扉を開き、中を見た。
そして青年は、あれほどみたかったあのひとの目が、自分以外の男の腕の中で開くさまを目にしたのだった。
それは夜が明ける直前の空の色であり、道端に咲く小さな菫の色であった。
青年にとって銀髪の男はただの曖昧な影であり、ゆっくりと瞼を開くそのひとの姿のみが全てだった。
一番怖れていた事が今起こっているというのに、青年が思うことといえばただ、なんて綺麗な瞳だろう、とかそんなことばかりで。
そしてその瞳はただ、彼を目覚めさせた銀髪の男のみに注がれているのだった。
それもまた、妖魔の策であった。
青年が夢での出来事を思い出せなかったように、王子もまた目覚めるとそれまでの記憶を全て失うように仕組まれていたのである。そして王子は天意の示した運命の相手によって目覚め、全てを忘れた故に何の逡巡もなく、目の前の相手に心を開いてしまったのだった。
呆然と立ち尽くす青年の足元には、彼に捧げるはずの白椿の花が取り落とされ、床に散らばった。
そしてその瞬間、青年の脳裏に、ある光景が雷のように撃ちこまれた。
それは、目の前とあまりによく似通った。
黒髪の美貌の男に抱かれ、同じようにくちづけられる、あのひと。
今と同じく、何もできない自分。そして、意識を失い寝台に横たえられたあのひとは、自分が初めて見つけた姿と寸分たがわぬもの。
そして闇が訪れ、哄笑とともに飛び去る黒鷲。
次々とフラッシュバックする映像に、青年は足元をふらつかせる。
こんな光景は、知らない。
黒髪の男も、くず折れていくあの人の姿も。
(やめろっ・・・・・・・・・!!)
その時あげた声が、いつかの同じ声に重なった。
『そのひとに、薄汚ねぇ手で触るんじゃねぇ・・・!!』
その瞬間、青年の中で何かが音をたて弾けた。
阻まれ、隠蔽されていた扉が打ち壊され、一瞬にして青年の中で全ての記憶がひとつに繋がる。
怒涛の勢いで全ての光景が、言葉が、感情が、青年の中に甦った。
胸に沸き起こるのは怒りと悲しみ、そして何より鮮やかな、五百年経ても変わらぬ想い。
青年は庭に走りいでると膝を地につけ、降りしきる白椿の中で慟哭した。
その日のうちに、青年はひとり城を抜け出した。
王子の姿は、見なかった。
青年には、やらなければならないことがあった。
あの銀髪の男が天の定めた相手で、彼が幸せなら、青年にはそれでよかった。
もとより五百年前から結ばれるはずもなく、自分の事さえ知らぬ彼であろうから。
しかし、あの妖魔の王だけは。
あの銀髪の男がどれほどの者であれ、妖魔を退けられる人間など居はしない。
あの妖魔から王子を守らない限り、王子にとっての真の幸福はない。
その為に、青年はぜひともあのペンダントを見つけだす必要があった。
そう、五百年前、前世の彼が王子に贈った、太陽を象った金のペンダントである。
そして、なにひとつ手がかりのない、孤独な探索の旅が始まった。
王子は目覚めたが、引き換えにそれまでの一切の記憶を失っていた。
彼は自分が何者であるかさえ忘れはて、赤子のごとくただ銀髪の男に全てを委ねた。うまれたての雛が最初に目にしたものを母と思うように、自分自身をも知らぬ無垢な無知ゆえに。
そして銀髪の王は国から迎えを寄越させると密かに遠く離れた自国へとかのひとを連れ帰った。
銀の王は、自国の外れの広大な土地を禁足地とし、その中心に象牙の塔を築いた。そしてそこに王子を住まわせた。周囲は水銀の池で囲い、力ある魔法の結界を廻らせ、獰猛な白い虎を幾匹も放った。
民衆は遠国から連れ帰ったという姫君を一目見たいと願ったが、一度の披露目もなかったがために訝しがった。ただそれまで浮いた噂ひとつたたなかった王が足しげく象牙の塔をおとなうのを見て、その寵の深さをおもいはかった。
銀髪の男は、広い寝台の中、絹に包まれるひとの寝顔をじっと見つめた。
やっと見つけた、運命の相手。
そして今、探し続けたひとは、自分の腕の中で眠っている。
手に入れたと、思った。
信頼しきった瞳。向けられる笑顔。心通い合う暖かさ。
男は生まれて初めてといっていいほど、満たされていた。
そっと髪を撫でようと手を伸ばす。触れる瞬間、そのひとの眉が顰められた。苦しげに幾度か喘ぎ、
「さの・・・」
呟くと、閉じられた眦からひとすじ、雫が流れた。
男は触れようと伸ばした手をそのままに、かのひとを見つめていた。
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