相楽君の恋人          鷹宮 椿


俺の名は相楽左之助。
未だに『喧嘩屋斬左』の名の方が、通りはいいようだがな。
最近俺は、ある奴に出会って、喧嘩屋を廃業した。
奴は、自分を流浪人だと名乗った。
ずっとひとりで流れるのだと。
そいつの名は、緋村剣心といった。
 
「ううーん・・」
左之助は息苦しさに目を覚ました。
「もう少し、寝かせてくれよ、剣心・・」
「ダメでござるッ。左之はいつもそうやっていつまででも寝るんでござるからっ。もうおてんと様はすっかり昇ってるんでござるよっ」
強く鼻を摘まれる。むずむずしてきて、左之は大きなくしゃみを遠慮なく発した。
「ひゃっ・・!」
途端に悲鳴が上がる。
慌てて左之助は起き上がると剣心を探した。
剣心は、左之助の股間の辺りでひっくりかえっていた。
「すまねぇ、でえじょうぶか?」
そっと左之助は剣心を手のひらに包む。
むう、とむくれる剣心の顔を見て、左之助は笑いを抑え切れない。袖口で剣心の顔を拭ってやると、剣心はぷるぷると顔を振りながら立ちあがった。
「全く、左之はッ!」
ぷんぷんしている剣心を、左之助は笑いを堪えながら宥めている。
「しょうがねぇだろ、そんなにちいせぇもんだからよ」
そう言って人差し指でちょんと頬をつついた。
そう、剣心は、左之助の手のひらに載ってしまうほどの大きさしかなかったのである。

 
それは一月ほど前の事。
左之助は仕事をひとつ片付け、つまらない喧嘩でイラつく心を洗い流すように酒を煽って深夜に寝床に帰ってきた。
煎餅布団の上で大の字になっていたら、ガリガリと障子を掻いている音が聞こえてきた。きっと、最近長屋の辺りをうろついている野良犬だろう。時々暇つぶしに遊んでやったり餌をやったりしていたので、すっかり左之助に懐いていた。
「っんだよ、五月蝿せえなあてめぇは、どっかでメス犬でも見つけてサカッってろ!」
怒鳴りつけてやったが、一向に引っ掻くのを止めようとはしない。普段なら、虫の居所の悪い左之助には近寄らないはずなのだが。不審に思った左之助は靴を引っ掛けて障子を開けて見た。
すると果たして、ぱたぱたと尻尾を振りながら野良犬がお座りをしていた。
「なんだよ、てめぇはよ。」
よく見ると、犬は何かを口にくわえている。手を出すと、素直にそれを左之助の手に置いた。
「なんじゃ、こりゃあ・・」
柔らかく、暖かい感触。暗くてよく分からないので、部屋の中に入り、行灯の明かりに照らして見る。
初め、目に入ってきたのは赤い糸の束。
「人形か・・?」
野良の奴、どっかから子供の人形をかっぱらってきたのだろうか。
しかし、人形にしては、余りに精巧な作りをしている。そして、ほんのりと暖かいのだ。
左之助は恐る恐る、鼻に手をかざしてみる。
なにやってんだ、生きてるわけねぇじゃねぇか。
そう思いながらも、息をつめてうかがう。
微かだが、呼吸を感じた。
「う、嘘だろ・・」
驚きの余り、取り落としてしまいそうになるのを慌てて手で支えた。
それは、両手で持って少し余る。八、九寸(三十センチ足らず)で、女の子供が着せ替えをして遊ぶ人形と同じ位の大きさだった。
意識を失っているようなので、左之助は手ぬぐいを濡らすと水を二、三滴顔に降り掛けてやった。
「ん・・」
しばらくすると、それは呻き声を上げてゆっくりと目を開けた。
「ほ、本物だ・・」
それは左之助の手のひらの上で大きく欠伸をして、きょろきょろと辺りを見回している。
そして固まっている左之助と目があった。
「おろ、ここはどこでござるかな。」

 
それが、左之助と剣心の出会いだった。
 
剣心は小さめの卵よりもまだ小さい頭、その中で大きな位置を占める蒼い瞳、そして小さな鼻と唇、絹糸のように細く赤い髪を持っていた。大きさが違う、というだけで、それ以外の作りは全く普通の人間と変わりない。しかし剣心を一目見たなら誰でも手に包んで慈しみたくなるような、人を惹きつける容姿をしていた。まるで人形のような姿なのに、剣心の身体からは生きている者の光が溢れていた。
あの夜、剣心は何日も食べ物にありつけず、空腹のあまり倒れていた所を、野良にくわえられて左之助の元につれてこられたらしい。つまり、剣心は野良に助けられたのだ。その小さな彼に諭されて、剣心は喧嘩屋を廃業し、暫くの間、ということで剣心は左之助の長屋に留まる事になった。剣心は余り自分の事について語らなかったが、あえて聞き出そうとはしなかったし、何か秘密があるのだと左之助は気付いていた。
左之助は近所から使わなくなったままごとの道具や、数の欠けた雛人形の道具を手に入れては剣心の部屋を作ってやっていった。小さな箪笥や卓袱台などを作ったり、布の切れ端などを使って布団を縫ってやったりまでした。
 左之助は意外と自分が器用な事に初めて気がついた。剣心の生活用品を作るのは楽しかった。何か作る度に、剣心がとても喜んでくれたからだ。
 手ぬぐいは小さく切って、剣心に丁度いい大きさにした。着物は、人形用の物を買ってきたり簡単なものなら左之助が縫ったりした。(剣心が縫うには針が大きすぎて無理なのだ。)風呂は桶に湯を汲んだもので、剣心にはちょっとした大きさになり、泳いだりして楽しそうだ。出かける際は左之助のポケットの中か、首からきんちゃくを下げてその中に入っていた。歩きながら小声で剣心と話をするので、左之さんは最近独り言を言う、ちょっとおかしいんじゃないか、と不名誉な噂が流れるようになった。仲間から最近付き合いが悪い、と言われている事も知っていた。しかし左之助は気にしない。剣心の事で手一杯で、そんな事はどうでもよくなっていたのだ。
剣心と野良は仲が良い。野良はよく剣心を舐め回すので、剣心はびちゃびちゃにされている。剣心は一生懸命野良の背中に登っては落っこちるので左之助は気が気ではない。野良の毛に埋まってもがいていたりする。でも、剣心も野良も楽しそうだ。
左之助は毎日のように剣心を連れて散歩に出かけた。
四月は桜。五月は藤、牡丹、菖蒲にさつき。
左之助は花を少し摘んで、剣心の髪にさした。ちょっと剣心には大きい花もあったが、どの花も剣心によく映えた。そして、花を眺めて日向ぼっこしながら弁当を食べる。剣心の分は、小さな食器に取り分けてやる。
日に日に、ふたりの距離は近づいていった。お互いが、お互いだけに染まって行く生活だったからだ。
そして剣心はある夜、左之助と酒を酌み交わしながら今まで語ろうとしなかった自分の話をし始めた。
「拙者は、戦国の世の頃に生まれたのでござる」
戦国の乱世、剣心は剣の腕を買われて暗殺稼業に手を染め、何十人、何百人となく人を斬ったのだという。それには辛い過去と不幸な巡り合わせがあるのだが、剣心が悪鬼、修羅と呼ばれるほど人を斬ったという事実は拭えない事だった。そして剣心はその報いを受ける事になる。
「拙者は敵討ちに合い、殺されたのでござる。人殺しには相応しい最後でござった。しかし、拙者の罪はそんな事で終わるほど、軽くはなかったのでござる。拙者はこのように縮んだ身体で、拙者の犯した罪の分だけ人を救わねば往生できない。この身になってから、もう三百年近く経つよ。わかったでござるか?拙者は、人殺しの上に、呪わしい化け物なのでござる・・」
剣心は虚ろな目で言った。
「恐ろしいか?左之助が厭なら、今すぐにでもまた流れるよ。今まで黙っていた拙者を、どうか許して欲しいでござる。左之には、嫌われたくなかったんでござる・・。」
左之助はそれまでじっと剣心を見つめながら話を聞いていたが、突然白い歯を出して笑うと、剣心の頬をつんつんとつついた。
「ばあか。」
剣心は驚いて左之助を見上げる。
「おめぇが何かわけありだって事は、どんな間抜けだって気がつくさ。俺はそれを承知でおめぇを置いてる。だから、剣心も出てくなんていうなよ。三百年だあ?だったら、ちょっとくれぇここでゆっくりしてってもいいだろ。おめぇがいなくなったら、野良だって寂しがるぜ。な?」
左之助は剣心に向かって手を差し伸べた。
その手のひらに剣心はよじ登る。そのまま左之助は剣心を目線の高さまで持ち上げた。
ふたりは目を合わせてにっこりと笑った。
ふたりの間に、目に見えない何かが流れ始めていた。

 
● ある日のふたりの一日
・ 午前八時 剣心起床。着替えをして、小さい柄杓の把手を取ったものに溜めてある水で顔を洗う。左之助は間だ寝ているので暫くはひとりで縁側にある剣心用の小さい物干し竿(左之助作)に布団を干したり、洗濯をしたりする。
・ 午前十時 とうとう我慢しきれなくなって左之助を起こす。大体鼻をつまんで息を止める方法を取るが、服の中に入ってくすぐる、という方法もある。
・ 午前十時半 朝食。大体左之助が近所から貰ってくる。剣心用の小さな食器セットに左之助がとりわけてやる。食事はふたり一緒。卓袱台の上に、剣心の卓袱台を置いて食べる。今日の献立は浅蜊の味噌汁にご飯、ほうれん草の胡麻和え。
・ 一一時 剣心が五月蝿いのでしぶしぶ洗濯、掃除。
・ 十二時 外出。一緒に出かける。定食屋に入って昼食。こっそり膝の上の剣心におすそ分け。今日は鯵の開き二枚にご飯五杯、赤出汁に菜の花のおひたし。
・ 一時 町をぶらぶらする。かわいい蝶柄の布切れを馴染みの布屋に分けてもらったので剣心の着物を作ることにする。剣心は女の子みたいだといって嫌がるけど、左之助は似合うと思った。
・ 二時 剣心が小用をしたいと遠慮がちに言ってきたので草むらに下ろす。剣心はいつも恥ずかしがってぎりぎりまで我慢するのでよくない、と左之助は思う。用を足している間、見ると大変怒るので後ろを向いているが、その間に危ない目にあったりしないかと心配でならない左之助である。
・ 三時 近くの公園へいく。今は藤棚の藤が大変綺麗に咲いている。剣心は花を見るのが好きだ。左之助はあまり花を見る週間はなかったが、剣心と一緒に見る花はいいもんだと思っている。左之助が花を支えて、大きな牡丹の花の中に立たせたりして遊んだ。屋台で団子と茶を調達してきて、花を眺めながら食べる。剣心には重くて団子の串を持って食べる事が出来ないので残念そうだ。今度、つまようじで団子を作ってやろうと思う。途中から昼寝。
・ 六時 寒くなってきたので起きる。一度帰宅。別の家から夕食を調達。献立は、煮込み饂飩に大根葉のおひたし。饂飩が太くて剣心は食べるのに苦労する。剣心にとっては饂飩、というより餅のようだった。
・ 七時 入浴。湯を桶に入れて剣心が入る。左之助はその後湯屋へ。
・ 九時 左之助は賭場へ遊びに行く。今日も剣心を連れて行く。剣心は左之助の晒しの中に隠れて目を教えてやったので、左之助の大勝となる。ほくほくで深夜帰宅、就寝。
以上、一般的なふたりの日常生活である。
   
 左之助は以前足繁く通っていた花街からすっかり足が遠ざかっていた。
ある日、左之助は街でばったりと馴染みの傾城と会った。野暮用があって久しぶりに吉原に行った時だ。
「あら、左之さんじゃあありいせんか。最近お見限りで寂しゅうござります。たまには昔からの馴染みの揚巻にもお情けをお掛けくだしゃんせ」
彼女は吉原でもお職を張る太夫だ。揚屋に行く途中の花魁道中を止めて、左之助に声を掛けてきた。それは彼女と左之助の仲を表す行為で、周囲にざわめきが走る。『喧嘩屋斬左と花魁揚巻がいい仲である』という以前から流れていた噂を知る街の者たちは噂が本当であった事を確信して、それぞれ男たちは羨ましがったり溜息をついたり、女たちは声を上げて悔しがったりした。
「あ、ああ。久しぶりだな。最近ちっと忙しくてよ。また、暇ンなったら寄らせてもらうわ。じゃ、またな。」
左之助はそそくさと手を振ってその場から離れた。揚巻はその様子を意外そうに見た一瞬後、そっと唇を尖らせた。
吉原では、唯一のお上公認遊郭である。そこではその場でしか通用しないしきたりやルールが存在する。普段、一般の者たちは未公認の岡場所と呼ばれる吉原以外の遊郭で遊ぶ。吉原は一般人にとっては敷居が高すぎるのだ。喧嘩屋時代の左之助は、今のプータロー生活よりは随分と金を持っていたに違いないが、宵越しの金は持たないという江戸っ子気質では懐に金が留まっていた試しがない。
そんな左之助が吉原で幅を利かせていられたのは一重にその腕っ節の強さと女たちの人気による所が大きい。左之助と馴染みになる事はある意味遊女たちにとってステイタスだったのだ。
左之助は何となく落ち着かない気持ちにとらわれていた。
「左之、さっきのは左之の恋人でござるか?」
剣心がきんちゃくから顔を出してクスクス笑いながら言った。左之助はぎくりと身体を強張らせる。
「ち、ちげぇよッ。そんなじゃねぇッ」
左之助は語気荒く言い放った。剣心は驚いて左之助を見上げる。左之助の胸の晒しに捕まり、引っ張った。
「どうしたんでござるか?拙者、何か左之の気に障ること、言ったでござるか?」
剣心は澄んだ瞳で、本当に不思議そうに左之助を見上げている。左之助はその瞳を見続けることが出来ないで、そっぽを向いた。
剣心はその様子を見て慌てて言った。
「そうでござるよな、拙者に左之の個人的な事を聞く権利などないでござるよな。左之だって、秘密にしたいことのひとつやふたつ、あるでござるのに、拙者そういう事に疎くて、つい余計なことを口走ってしまった。済まない、許して欲しいでござるよ。」
剣心はしばらく左之助を見上げていたが、左之助がそっぽを向いたままなので寂しそうに俯くときんちゃくの中に潜り込んでしまった。
左之助はもそもそ動く気配に慌てて剣心の方を見たが、剣心はもうきんちゃくの中に潜ってしまっていた。左之助は弁解するように手を振ったが、もう後の祭りだ。仕方なく舌打ちをひとつすると、乱暴に歩き出した。
ぶらぶらと、左之助の胸元できんちゃくが激しく揺れた。
  「左之助様!よくおいでなんし。みんな、いついらっしゃるかと心待ちにしていたんでありんすよ」
廓に入った途端、女たちが左之助を取り囲んだ。ひさしぶりに訪れたここは、いつものように左之助を受け入れている。
「駄目でござんすよ。左之さんはわちに逢いに来てくだすったんだ。他のは散りなんし」
揚巻は花魁らしい迫力と厳しい瞳で他の女たちを追い払うと、左之助を自室に連れこむ事に成功した。(ちなみに、それまで揚げていた客を追い払って、である。)
「まったく、左之さんの事となると皆目の色が違うんでありいすから、油断も何もあったもんじゃありいせん。」
彼女はぶつぶついうと、左之の側に腰を下ろして酌をし始めた。
「ほんにおひさしゅうござります。今日の昼に、お会いできてうれしゅうございました。もしかしてわちは、左之さんの幻でも見たのじゃないかと心もとのうて。でも左之さんはほんに来てくだすった」
「すまなったな」
そう言った後、左之はデジャビュに襲われた。そうだ、謝らなければならないのは俺の方だったのに。あれから、剣心とは一言も口をきかず、長屋に置いたままひとりで出てきてしまった。今ごろ長屋でひとり待っているだろう。
俺は一体何をしてんだ。
「左之さん、実は最近妙な噂を聞きもうした。左之さんが、喧嘩屋を止なさったとか・・。もしかして、」
「本当だぜ。俺ァもう斬左じゃあねぇ。今やしがないプータローの相楽左之助さ。」
その言葉を聞いた彼女は一瞬言葉を失った。
「ま、まことにござりいすか?」
「ああ。」
彼女は左之助の過去について何も知らなかったが、何かを抱えて生きている事は感じ取っていた。そして、それが一生消えない傷であることも。それがどうだろう、今の彼は憑き物が落ちたように明るい眼をしている。
「何か、あったんでありいすか?」
「そう、見えるかい」
「……」
彼女は一瞬哀しそうに目を伏せた。しかし次の瞬間には激しく強い吉原きってのお職女郎、花魁揚巻の瞳で見上げる。
「左之さんの心を溶かせる女なんて、居やあせぬと思っておりましたが・・。そう、そういうことでありいすか。」
「何の話だよ」
「とぼけなくてもよろしゅうござんす。いいひとができたんでござりいしょう?」
「いいひとだあ?!」
左之助はすっとんきょうな声を上げる。
「まったく嘘が下手なんでござりいすから。・・でも、もう他の女は抱かないなんて野暮なことはおいいせんでしょう?左之さん。」
彼女はそう言って左之助の肩にしなだれかかった。
「おめ、なんか勘違いしてる気がするぞ・・。でもまあいいか。据え膳食わぬは、ってもんだ。ありがたく頂くとするかい」
左之助は彼女の顎をくいと上げさせるとくちづけた。柔らかい唇を味わう。
その時、左之助の頭には稲妻のように剣心の姿が映し出された。
『左之。』
剣心が小さい手を精一杯伸ばしている。一度ふざけて剣心を掴んで口の中に入れる真似をした事があった。その時に初めて間近に見た剣心の小さな顔。唇は赤いかと思うほど鮮やかな桃色で、白い肌によく映えて、指で触れた感触は柔らかかった。
左之助は唇を放すと、指でその感触を確かめ、形を確かめる。
剣心のとは、違う。形も、感触も。
左之助はいつのまにか頭の中で一生懸命剣心の唇を思い描きながら貪った。
髪も、腕も、足も、腰も、瞳も、剣心の全てを拡大して思い浮かべる。
途端に、左之助は横っ面を強く張られた。
「って・・」
一瞬頭が真っ白になる。
「左之さん、この揚巻をおみくびりかえ」
そう言って、揚巻は大門が閉まっている時刻にもかかわらず、容赦なく左之助を叩き出した。
左之助はもう他の女の所にしけこむ気も無くして、ぼんやりと大門に寄りかかって夜を明かすという、今までならばありえないような失態を晒す事になったのであった。
早朝。
今だ朝靄がかかり、目覚めてもいない街を歩く。
左之助は自己嫌悪にかられながら家路を辿っていた。
どうして、あの時剣心の姿が浮かんだのか。
その答えは、とっくに出ているのかもしれない。左之助はただ、認めたくなくて、受け入れたくなくて、答えを口に出すのを先送りにしていた。
とうとう左之助の足は長屋に辿りついてしまった。
「しゃあねえ、ぐだぐだ言ったってなんもなんねぇってんだ」
左之助は思いきって障子を開け放った。
「たでえま・・」
それでも口の中でもごもごと言ってしまうのはどうしようもない。
「けんしーん・・」
そっと中をうかがう。
いつもなら、走り出て迎えてくれる剣心の姿がない。
「剣心ッ!」
左之助は慌てて部屋中を探しまわった。
どこにも居ない。
目の前が真っ暗に染まって行く。
その時。
「お帰り、左之。遅かったでござるな。」
明るい剣心の声が響いた。
「け、剣・・心・・」
剣心は、たすきがけをしてとてとてと出てきた。
「ご飯の準備、したかったでござるけど、拙者には無理でござった。せめて、左之の半纏、洗っとこうと思って、昨日からやってたんでござる。やっと、さっき洗い終わったんでござるが、どうにも、干すのはできなくて・・。悪いでござるが、左之、物干し竿にかけてはくれまいか?」
よく見ると、目の辺りが赤くはれている。
「すまねぇ、剣心・・」
左之助はがばりと膝をついた。
「俺が、俺がわりぃのによ、ホント、どうしようもねぇよな・・。すまね・・」
剣心は優しく笑みながら左之助の膝に登った。
「もう、いいではござらぬか。ほら、そんなことより、洗濯物!」
左之助は照れ隠しに笑いながら、剣心を肩に乗せ、縁側に出た。剣心は左之助の鉢巻に捕まりながら足をぶらぶら遊ばせている。視界の端に、剣心の小さな形の良い白い足首が映る。左之助は首を傾けて剣心に頬をすりよせた。剣心は擽ったがってなますます足をばたつかせた。
今日もいい天気になりそうだ。
左之助は空を見上げながらそう思った。

  つまらない事で、剣心と喧嘩をした。
普段まるで喧嘩をしないふたりなので、いざ喧嘩となると仲直りの手がかりが掴めないで長引いてしまうのだ。
きっかけは、ほんの些細な事だった。剣心が野良と遠出をして左之助を心配させたのだ。
「勝手にどっか行くんじゃねぇ!」
左之助は剣心を怒鳴りつけた。
剣心はびくりと身体を縮こませた。
「おめぇがどこにも居なくて、俺がどんだけ心配したと思ってんだよ!!」
左之助は感情に任せて強く机を叩いた。
その振動に剣心は驚きよろけて倒れ込んでしまう。
それを見て左之助は力を込めすぎた事を後悔した。しかし怒り出した手前、そうすぐに謝ることもできない。左之助はどうしていいか分からなくなって、腕を組むと横を向いた。
剣心はよろよろと立ちあがる。
「どうして左之助はそんなに乱暴なのでござるか。少しは拙者の身体の事も考えて欲しいでござるよ」
剣心は初めて左之助に対して感情的な言葉を放った。それに触発されて、左之助もますます感情的になってしまう。
「分かるわけねぇだろ!俺ァそんな大きさになったことなんざねぇんだ!大体、誰がそんな大きさで居てくれって頼んだよ!」
 左之助は迸る言葉を止めようとしたが、それは左之助の心の中でずっとくすぶっていた何かを刺激して、止める事が出来ない。
剣心は初めて聞く左之助の言葉に呆然としていたが、言葉の意味が染みとおるにつれて、瞳に傷ついた色が流れ始める。
それに焦った左之助は、さらに決定的な言葉を放ってしまった。
「そんなじゃ、いつふんづけちまわねぇかと思って、満足に部屋も歩けやしねぇよ!大体おめぇのせいで俺ァダチと遊びにもいけやしねぇんだ!」
数瞬の沈黙の後、剣心は妙に抑揚のない声で呟いた。
「左之は、拙者が邪魔だったのでござるか・・」
剣心の蒼い瞳は左之助の方を見ているけれども、その視線は左之助を通り越してどこか違う所を見ている。
違う、違うんだ。そうじゃない。
左之助は心の中で必死に否定したが、その思いは喉で詰まって言葉にならない。
「・・世話になったでござるな。もう、左之の邪魔は、しないから。」
剣心はそういうと、左之助の部屋から出ていった。
左之助は自分の言った酷いセリフと今起こっている事とに混乱し、痴呆のように立ち尽くすしかない。
左の字の障子前で、心配そうに中をうかがっていた野良は、激しく唸りながら左之助に向かって吠えつくと、剣心の後を追って走って行った。

 
「けっ!出ていきてぇなら、勝手に出て行きやがれ。こっちこそ、願ったり叶ったりだぜ。」
左之助は一人だけの部屋でそう怒鳴った。乱暴に寝転がり、大の字に手足を広げる。
身長百八十一センチ、明治の世に左之助ほど背の高い者はほとんどいない。その彼にとって四畳半程の長屋はこれ以上無く窮屈なものだった。そして剣心が来てからは、ますます左之助の空間が狭まり、窮屈さが増しているはずだった。
それなのに。
何という事だろう、左之助はその部屋を広く感じてしまうのだ。
あの、いつも剣心が側にいる、という感じ。
いつも肌に密着している、充足感と、一体感。
自分の手のひらの中の世界で、にこにこと笑っていた、優しい化け物。
『こうして左之と出会えたのだから、呪わしいこの身も、捨てたものではないかもな』
そう言って、笑っていた。
突然消えた剣心の存在の穴は、真綿のようにじわじわと左之助の息を塞いでいく。
ゆっくりと、しかし確実に、左之助の中で警告の鐘が鳴り響き始める。
このままではいけない、俺は大事なものを失おうとしている。また失うのか?失って、泣くのか?あの時と同じように。取欲しいものを欲しいと言えない奴は阿呆だ、だが何が欲しいのかわからない奴はもっと阿呆だ。
俺は、何が欲しいのか分かってる。
何よりも、俺の身体がよく分かっている、剣心はもう俺の中の一部だ。だから失うとこんなにも痛む。
足に何かが触れる。
視線を向けると、足の指先には布の切れ端が当たっていた。いつか、剣心の着物にと手に入れた蝶柄の布切れだった。まだ途中までしか、作っていない。
左之助は部屋中を見回した。そこはいたる所剣心の為のもので溢れていた。
剣心の部屋、剣心の着物、風呂桶、卓袱台、箪笥、物干し竿、布団、逆刃刀。
ここには剣心の気配が沢山残っていた。
左之助はがばりと起き上がると、おもちゃのような逆刃刀を掴んで、靴を履くのもそこそこに部屋を飛び出して行く。
欲しいものに、欲しい、と言う為に。


 
剣心は、左之助の部屋を飛び出してから、胸が潰れそうなくらい痛むのを感じていた。足を前に出し、とにかく歩きながら、これでよかったのだと必死に自分に言い聞かせていた。
左之助と暮らすのは楽しかった、自分が咎人である事を忘れそうになってしまうくらいに。でも、左之助には彼の人生がある事を思い出してしまったのだ。左之助には綺麗な、女性の、そして同じ大きさの恋人が居るのだ。左之助を自由にする為に、剣心はわざと左之助から離れたのだった。
今まで、剣心は普通の人間たちと関わるのを避けてきた。それは自分の身体のせいもあったが、必ず訪れる離別を避けたかったからでもあった。どんな生き物も、剣心より先に老いて死ぬ。剣心はそれに耐えられそうに無かった。だから、左之助の元にも、長く居るつもりはなかったのに。
どうしてだろう、あの太陽のような笑顔を見ていると、出て行く、と言えなかった。
何よりも、剣心自身があのごつくて大きな手に縋っていたのだ。剣心は発作的にあの手に包まれたくて左之助の元へ走って戻りたくなった。それを剣心は足を踏ん張って耐える。
その時。
剣心の耳にいくつもの低い唸り声が入ってきた。
驚いて見回すと、何匹もの獣の気配が剣心を取り囲んでいた。普段なら絶対に踏み込まない、野犬たちの縄張りに剣心は入り込んでしまっていたのだ。
野犬は、全部で四匹。剣心はどうにか逃れようとしたが、剣心を囲む輪はどんどん狭まって行く。剣心は腰に手を伸ばし、硬直した。
逆刃刀が・・!
きっと、左之助の部屋に置いてきたのだ。
今まで何があっても肌身放さず持っていた相棒を忘れるなんて、と愕然としたが、そんな事を考えている場合ではない。その間にも、野犬どもが涎を垂らして低く唸り近づいてくる。
剣心は覚悟を決めた。
罰が当たったのだ、拙者には、犬に食われて死ぬのがお似合いだ。
剣心はぎゅ、っと目をつぶって身を固める。
犬たちは一斉に剣心に襲いかかろうとした。
その時、一匹が跳ね飛ばされ、ギャン、という悲鳴が響く。
「野良・・!」
剣心の前には野良が立ちふさがっていた。
たちまち激しい乱闘が始まった。野良は相手の鼻先や喉を狙って激しく噛み付いた。野良はなかなか強かったが、剣心を守りながら四匹を相手にして苦戦していた。二匹揃って襲いかかられた時、庇いきれず剣心は跳ね飛ばされてしまう。激しく地面に叩きつけられて意識が薄れていく。
「野良・・。左、之・・」

 
左之助が犬の争う声に気付いて剣心の元に辿りついた時、野良は随分と不利な戦局にあった。左之助はあっという間に間に入り、長い足で犬どもを蹴り飛ばす。野犬たちはたちまち尻尾を巻いて逃げて行った。野良は細かい傷を沢山負っていたが,運良く深い傷はひとつもなかった。
左之助は野良に礼をいって撫でると、ぐったりしている剣心を抱き上げた。
「剣心・・。ごめんな、俺のせいでこんな事に・・。」
左之助は震える手で剣心を撫で、頬擦りをする。
「俺、ずっと恐かったんだよ、剣心はいつかまた流れるつもりで、俺のトコに長居する気なんてなかったろ?いつも、いついっちまうかって、そればっか気になってよ、すげぇ恐かった。だから、あんなひでぇ事・・。バカだよな、おめぇに行って欲しくねぇって思ってたのに、おめぇをなくしちまう事しか、できなかった・・」
左之助の目からは大粒の涙がいくつも流れ,剣心の頬を濡らした。
剣心は目を開けるタイミングを逃して困っていた。
実は左之助が抱き上げてくれた時に、意識は戻っていたのだ。
嗚咽を殺して泣く左之助の涙が、いくつもいくつも剣心に降り注ぐ。剣心にとって左之助の涙は、小さな鞠くらいの大きさがあった。それがどんどん身体に落下してくるのである。特に顔に落ちると息が出来なくなる。とうとう剣心は我慢しきれなくなって咳き込み始めた。
 この世の終わりのように悲しんでいた左之助は、小さな咳を耳にし、手の中の身体が震えるのを感じる。
「剣心・・?」
剣心は慌てて死んだふりをする。しかしつい瞼を薄く開いてしまった。
「こら、剣心!いつから気がついてやがった!」
左之助は剣心を握って揺さぶった。
「ご、ごめんでござるよ。左之があんまり真剣だから、なんか起きられなくなっちゃって・・」
安堵と驚きが入り混じって混乱している左之助を宥めるように言う。
「でも、左之の本心が聞けて,拙者嬉しかった。本当は,拙者も同じ気持ちでござったよ。」
「剣心・・」
左之助は思っても見なかった剣心の告白に耳を疑った。
「でも、だからこそ、拙者は行かなくてはならないのでござる。・・さよなら、左之。今まで、ありがとう。楽しかったでござるよ。」
剣心はそういって身体を鷲掴んでいた左之助の手を開かせ地面に降りた。
「また、流れるでござるよ。さよなら。」
しかし左之助は放そうとはしない。
「左之・・、」
「・・厭だ。放さねぇ。」
まっすぐに剣心を見ながら、はっきりした口調で言い切った。
「側に、いてくれ。」
「だめで、ござるよ・・」
剣心は蚊の鳴くような声で言った。
「さ、左之には左之の生活があるし、拙者と居ても、左之の人生はめちゃくちゃになるばかりでござる。そろそろお互いの生き方に戻るのがいいでござるよ・・」
左之助は鋭い瞳で剣心を睨みながら言った。
「そうじゃねぇだろ。俺はおめぇの気持ちの事が聞きてぇんだ。おめぇがホントに出て行きてぇんならいいさ、行けよ。でもそうじゃねぇんだろ。」
剣心はびくりと身体を強張らせた。
「おめぇが俺に嘘をついて出ていっても、俺はどこまでも追いかけるぜ。」
すると、剣心の瞳はみるみる内に赤く潤んだ。そのまるい瞳涙で更に大きく見える。ぽろぽろと真珠のような粒がこぼれた。
「どうして・・どうして左之は、拙者の欲しいものをくれるのでござろう。いつも拙者が心の底で欲しがってた言葉をくれる。でも拙者はそんな事が許される人間ではない」
「だから、幸せになっちゃいけねぇってのか。そしたら、俺の幸せはどうなっちまうんだよッ。」
左之助は激高して叫んだ。
「俺はおめぇといるのがいいんだ。なのに俺を不幸にするのか?」
「左之・・」
「おめぇが必要なんだ。おめぇじゃなきゃ駄目なんだ。」
剣心の胸に熱いものが込み上げる。
「拙者といたら、左之は揚巻殿とも、あまり逢えないでござるよ?」
「おめぇといるから、いい。」
「拙者といても、子供はできないでござるよ?」
「おめぇがいるから、いい。」
「左之の方が,先に死ぬでござるよ?」
「なんとかする。」
ちょっと泣きそうになりながら左之助は駄々をこねるように言った。
「わがままでござるなあ」
剣心も透明な雫を手で拭いながらいった。
「でも、拙者もわがままでござるから、おあいこでござるな」
剣心は真っ赤な目と鼻をして、にっこりと笑う。左之助に向かって両手を差し出した。
左之助も笑って、手のひらを差し出す。手のひらによじ登った剣心を顔の位置まで持ち上げた。
剣心はちょっと顔を赤らめながら、ゆっくりと目を閉じる。
瞼も鼻も頬もほんのりと赤くて、髪はふわふわしていて、まるで八重桜の花みたいだと左之助は思う。
そして、左之助はゆっくりと、花びらに唇を寄せていった。
これほど滑稽なくちづけを経験したものもいないだろう、左之助の唇は剣心の顔の三分の二を覆ってしまったし、左之助には剣心の唇がどこに触れたのかもよく分からなかった。
くちびるを放した後、ふたりは目を合わせて、クスクスと笑みを漏らした。


 
ふたりの未来に明るい要素はあまりなかった、絶望はいたるところに転がっていた。大きさの違いとか、生きる長さの違いとか、でもふたりはあまり深くは考えなかった。考えても仕方なかったし、それよりふたりでいることに夢中だった。
左之助の明るさが、全ての闇を追い払っていた。左之助が、なんとかする、と言ったのだ。剣心は左之助を信じていた。きっと何か、ふたりにとって最良の解決法が見つかるに違いない。

左之助は時々考える。
もし、自分が剣心と同じ事をすれば、同じ大きさになれるのだろうか、と。
剣心が悲しむから、実行に移したりはしない。しかし、時々、ほんの少し、思うのだ。
剣心を思いきり抱き締められるのなら、俺はどんなことでもするのに、と。

きっと、左之助は剣心よりも先に死ぬだろう。
剣心の大きさが変わる事もないだろう。
それでも。

そして今日も、剣心は左之助の手の中で笑っている。  
 

 

                                        了

 

 

 

 

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