死後の恋

 

 

 

 さいしょ、おれは空をみあげているのかと思った。

 真夏の突き抜けるような青さの空じゃなくて、夜が明ける寸前の仄暗い、でも透明な感じの空。

 でもすぐにまちがいに気づいた。

 おれが見ていたのは夜明けの空じゃなくて、誰だか知らない女の瞳の色、だったのだ。

 いつからこうしていたのか、おれはくっつくくらいに顔をちかづけて、そいつの目をじっとのぞきこんでいたのだっ

た。

 おれはあわててからだを離した。見ず知らずの女に近寄っていい距離を大きく侵していたからだ。

「あ、すまねぇ・・・」

 しかしその女はおれの言葉を完全に無視して、繕い物に熱中している。その深い色をした瞳さえ、おれの方へ

向けようともしない。

 感じのわりぃ女だな。

 まるでおれなんかいないみたいに無視するから、おれはわざとジロジロ見てやる。

 へえ、と思わず声がもれた。

 それまで目ばかり見ていたので気づかなかったのだが、その女はおれでも思わずはっとするほど、綺麗な顔

立ちをしていたのだ。 

 異人かと思うくらい赤い髪はふっくらした頬のあたりでばっさり切られて、首が丸出しになってしまっている。何

か事情があって髪を落としたのか。しかしその髪型のせいでますます幼く見え、まるでかむろのようだ。

 白粉も塗っていない肌は、透き通るように白い。不思議な色を湛えた大きな瞳に、細い鼻梁。ちいさなあご。桜

桃のような唇。

 まるで愛らしい京人形のようだ。

 ただ、そのやわらかそうな左頬に薄赤く切り傷が十字に走っていて、おれのこころに小さな波紋を落とした。

 こんだけべっぴんなのに、勿体ねえ。どうしてこんなでけえ傷、こしらえちまったんだか。

 でもその傷でさえ、そいつの持つ優しげな雰囲気を壊してはいなくて、不思議なやつだな、とおれは思った。

 しかし次の瞬間、おれは我が目を疑った。

 ゆるく着付けられた着物のあわせからのぞくはずの膨らみが、ない。

 よく見れば、まさにしらうおのようなという形容がふさわしい手も、おれの片手で一掴みにできそうな細い首も、

華奢ではあるが女のものではなかった。

 ただ男と言い切るにはあまりに儚い感じで、どちらかといえ ば少女、という方がしっくりくる感じだ。

 年は一体いくつなんだろう。多分おれよりは年下・・・、と思っ て、おれははたと立ち止まった。

 おれ?

 おれって、いくつだっけ?

 ていうか、名前は? 

 ここで一体何してんだ?

 ここどこだ?

 ありゃ? 

 ありゃりゃ?

 

 

 きょうもあいつは、縁側で洗濯物を畳みながらうとうとしている。

 あ〜あもう、折角きれいに洗濯したのに、皺になっちまうぞ。

 でも、おれの声がこいつに聞こえることはない。

 誰もおれが見えないし、聞こえない。何も触れない。

 ふわふわ浮きたきゃ浮いてればいいし、どこへだって飛んでもいける。きままなもんだ。

 だけどおれはなんとなく、この家に居続けている。

 あれから色々考えてはみたんだが、おれはさっぱりおれ自身のことを思い出せなかった。

 ただ気づいたらあいつの目を覗き込んでた、ってだけ。

 おれの最初の記憶はただ、夜明け前の空の色だ。

 

 あいつは毎日、家事ばかりやって暮らしている。

 ちいさな身体でくるくるとよく働き、その顔から笑みが絶やされることはない。

 さらにその外見のせいもあってか、あいつのまわりにはよく人が集まる。

 だけど穏やかに微笑むばかりのあいつがおれにはさみしげに見えて、そんな姿をみるとなぜか胸が苦しかっ

た。

 その理由が、ここにはいない誰かのせいじゃないかと思い始めたのは、あいつがいつも身に着けている小さな

守り袋をみてからだ。

 あいつはいつも、きれいな布で作った小さな守り袋を持っていた。中には胡桃ほどの大きさの透明な石が入っ

ていて、ひとりきりになるとよくその石を出しては眺め、撫でたり両手で包んだりしてる。

 おれから見ればただの石ころなのだが、あいつにとっては相当大事なものらしい。誰にも見せたことはないし、

持っていることさえ秘密のようだ。

 誰かの贈り物なのだろう。こいつにそれを贈り、そしてこれほど大事にしてもらえるような奴。

 贈り主は一体誰なのか。

 あいつの笑顔は、一見優しげだがそれ以上誰も触れられない、どこか鎧のような趣があった。

 その穏やかな拒絶にあわない人間は、結局のところあいつのまわりには誰一人いないように思えた。

 あいつがその鎧を解いてみせるのはただ、透明な石を抱く時だけだ。

 きっと、周囲の人間はその時のあいつの顔をみたら驚くだろう。

 おれだって、初めて見た時は正直、心臓が跳ね上がった。

 そしてそれはきっと、石を贈った奴の前でだけこいつが見せていた表情なのだろう、と気づいて以来、おれはあ

いつがそっと守り袋を取り出すのを見る度、ジリジリと腹が焼けるようになった。

 なんだよ。結局そいつ、おまえの傍にいないじゃねえか。

 ばかじゃねーの、そんな石っころ大事に抱きしめてよ。

 そんな奴の為に・・・そんな顔しやがんのかよ。

 おまえのこと、ひとりにしてんじゃねえか。

 そんな奴が、そんなにいいのかよ。

 ちぇっ。

 

 それでも、おれはあいつの傍から離れられなかった。

 なんか・・・、誰かに向けられた、誰かだけのものだとしても、あんな顔見ちまったら、・・・なんか。

 おれは、こいつのことなんも知らない。

 まだ若いのにどうして家でおさんどんばっかりやってんのかとか、髪が赤い訳も、ここに住んでる理由も、そして

頬に刻まれた傷の意味さえ。

 しかもあいつは、おれの存在さえ知らないのだ。

 面白くねぇ。

 

 そんなふうにして、どれくらい時を過ごしただろう。

 その日もおれは、洗濯物を干すそいつのまわりをふわふわ飛んで上からつむじを眺めたり、顔をのぞきこんだ

りしていた。

 すると娘が、随分と取り乱して廊下をあわただしくかけてきた。

「・・・・・!!」

 娘は裸足のまま庭に駆け降り、手紙をあいつに押し付けた。そのまま泣き崩れる。

 あいつはゆっくり何度か首を振って、手紙を広げた。手が激しく震えている。

 手紙はすぐに取り落とされ、あいつは何かを探すようにきょろきょろとあたりを見回している。

 いったい何があったのか。

 何度も首を打ち振り、よろよろと後ずさる。

 震える手は、胸元を探って守り袋を探している。

 しかし激しく震えている為守り袋を掴みきれず、地面に落ちた。あの透明な石が転がり出る。

「おいっ・・・!」

 思わず支えようとして手を差し出すが、あいつはそのままおれをすり抜け、地面にくず折れた。

 真っ白に洗い上げたばかりの手ぬぐいが土にまみれる。

 あとはただ、娘のあげる嗚咽ばかりが庭に響いていた。

 

 それから、あいつはぼんやりとすることが多くなった。

 前のように笑みを浮かべはするが、それは昔そうしていた記憶があるからしているだけ、といった感じだ。もは

や鎧でさえない。

 あいつが泣いたのは、一度きり。

 両手で顔を覆って、静かに静かに泣いた。手の間から、雫がとめどなく零れ落ちた。

 おれはすっかりうろたえて、すり抜ける腕であいつを抱きしめ、聞こえない声で泣くな、と繰り返すしかなかっ

た。

 なんでこいつを泣かすんだ。

 おれは、知りもしないそいつを憎んだ。

 なんだよ。

 こいつのことひとりぼっちにしたくせに、ずうっとこいつの心独り占めにしやがってよ。

 その上まだ泣かせんのか。

 おまえなんかより・・・、おまえなんかよりおれの方が、ずっとこいつの傍にいるのに。

 おれはぜったい、こいつを泣かせたりなんかしないのに。

 ひとりぼっちになんかしないのに。

 おれはただ、傍にいないヤツの代わりに、触れられない手で一生懸命こいつを抱きしめた。

 その時、こいつの口から微かな悲鳴が迸った。

「左之・・・っ」

 それは、周囲にいる者たちからはよく聞かれたが、こいつの口からはっきりと聞くのは初めてのことば。

「左之っ・・・左之、左之ぉっ・・・・!」

 一度堰をきった言葉は、とめどもなくあふれ出た。

 こいつが一言発する度、なぜかおれの心が激しく揺さぶられる。

 なぜだろう。以前にこの言葉を聞いた気がする。

 いつ?どこで?

 ひどく懐かしい。こんな風に呼ぶのは、ただひとりのはずだった。

「左之、左之ぉぉっ!!!」

 血を吐くような小さな悲鳴を聞くたび、張り裂けそうなほど胸がしめつけられる。なにか大切なことを忘れてい

る。

 おれを見上げて笑う顔。おれの腕の中で眠る顔。何度も好きだとわめくおれの口を手で塞いでにらんだ顔は、

照れて真っ赤に染まっていた。

 様々な表情のあいつが、おれの頭の中で万華鏡のようにまわる。

「け・・・、けん、けんしんっ・・・!」

 

 そうだった。

 一瞬にして、全ての記憶が怒涛のように流れ込む。

 どうして忘れていたのだろう。傍に来ることに精一杯で、そこまで手がまわらなかったのか。

「剣心。剣心」

 おれも応えるように何度も呼んだ。

「剣心、ごめん。ごめんな」

 聞こえてはいないだろう。剣心は泣き止まなかった。最後には子供のように泣きつかれて眠ってしまった。

 

 その後も、剣心がおれの存在に気づくことはなかった。

 それはおれにも、どうしようもないことだった。

 この先きっと色んなことが変わる。時間とはそういうものだ。

 もしかしたら、おれのことも忘れてしまうかもしれない。

 いつか他の誰かを想い、心を通わせることも。

 それでもきっとおれは一生、こうして剣心の傍にいるだろう。

 なにもできないままで。

 本当は、あの時もあの時も、離れたくなかった。

 だから今こうしてずっと傍にいられて、結構おれは幸せなんだぜ?

 

 でも、もしも。

 剣心がいつか死んで、それでもまだおれのことを想っててくれたら。

 そうしたら。

 今度こそ、ほんとうにずっと一緒にいられるだろうか。

 どうかな?剣心。

 

 ある時、ひとりの女の子と町ですれちがった。

 その子はおれとすれ違いざま、手をひいていた母親にこう言った。

「ねえ、あのお姉ちゃんのうしろのでっかいおにいさん。背中の字、読めるよ。アク。ね!」

 聞いたかよ剣心、このニブチン。あのガキにはおれが見えるってよ。

 

 あれ?

 剣心、今おれの方見て、笑ったか?

  

 

 

 

 

2005.8/13了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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