助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

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 役者の道を歩み始めた左之助だったが、朝から晩まで裏方の仕事で走り回る生活であの女形の姿を見ることさえ稀だった。ただあの役者が、左之助のいる中村座と一年間座付きの契約を結んでいたことだけが左之助にとっての幸運だった。
 彼は当代きっての名女形と謳われた澤村菊之丞の息子であったが、養子であることは誰もが知っていた。京から芳町へ色子として五つで売られてきたのを、菊之丞に買われたという話だった。
 彼にはある噂があった。それは、彼が異人とのあいの子であるというものだった。
「その証拠に、あの髪の色を見てみねぇ。血の色みてぇな真っ赤な色してらあ。目の玉ときたら蜻蛉石だ。あれはどうみても日の本の国の産じゃあるめぇぜ。浜村屋も、よくもまああんな薄気味の悪ぃあいの子拾ってきたもんだ」
 口さがない者たちは影で彼の事を唐人形などと罵った。しかし、彼が役者として稀有な才能と凄絶なまでの美貌の持ち主である事は誰もが認めざるを得ない事実だった。
 六つで初舞台を踏み、十六で若女形、十八で立女形と異例の出世は、養父である大御所・菊之丞の後押しばかりではなかった。立女形とは、一座に属する女形の最高位を意味する。人気、実力、容姿ともに比類なければ到底つとめる事は出来ない立場であった。
 ただ姿が美しく、芝居のうまい役者ならごまんといる。彼には、それだけではない何か壮絶な吸引力があり、それが江戸っ子を熱狂させた。舞台に出てきただけで観客に息を呑ませることができる役者というのはそう多くない。女たちは皆彼に憧れ、男たちは彼の演じる女性を理想に求めた。彼を写した姿錦絵は飛ぶように売れ、彼が身に着けた品や着こなしはそのまま街の流行となった。
 贔屓から莫大な金を貢がせるのも噂の種になった。役者は衣装を自分で用意しなければならない。自然、贅を凝らした衣装比べとなる。彼は一年で千両の給金を取るいわゆる千両役者だが、立場上出ていく金も半端ではなかった。贔屓たちは彼の歓心を得ようと争って彼に金を貢いだ。しかしどれほど多くの切り餅を目の前に積み上げられようと、彼は眉ひとつ動かさなかった。
 一度、そんな態度に焦れたあるお大尽が、衣装代にと積み上げてみせた小判を二階の窓から撒いた事がある。ちょうどその日は折しも十五夜、彼は小判が月の光に照らされてきらきらと光りながら舞い散る様を見て初めて、綺麗でござんすな、と笑ったという。
 役者にとって、贔屓筋との色勤めは当たり前の事だった。もともと役者という職業自体が売春と深く関わりがあった。芳町では客は舞台で相手を見定め、その後気に入った者を座敷に呼ぶ。舞台に比重を多く置く者を舞台子、色勤めを主にする者は色子や陰間と呼ばれていた。ちなみに芳町で遊ぶには吉原で花魁を揚げるのと同じくらいの金がかかったという。
 彼は大御所の御曹司であった為、以前から誰でもが相手にできるという存在ではなかった。しかし贔屓に相応しいと師匠が選んだ相手は別だった。その為、彼の贔屓になりたい者は競って菊之丞へ金品を贈った。
しかし師匠であり父でもある菊之丞と彼とがただならぬ関係である事は、公然の秘密だった。菊之丞は女形として一時代を築いた大御所であるが、既に年は四十を超え、美貌は衰えを見せ始めていた。既に江戸三座でも一番の人気を取る女形は、弟子であり息子の剣心である事は誰の目から見ても明らかだった。菊之丞の心中は複雑なものがあったろう。しかし息子への執着は異常なほど深く、その事がまた噂の種となった。
 左之助にとって剣心はまさに、雲の上の存在だった。
 楽屋ですれ違ったり姿を見かけることはあったが、口をきく機会さえ一度もなかった。大抵の女形は、舞台の上では絶世の美女でも化粧を落とせば普通の男になってしまう。しかし剣心は化粧を落としても変わらぬどころか更に愛らしく、左之助の視線を釘付けにした。
 剣心は中二階の突き当たり奥、立女形の為だけに用意された楽屋にいる。左之助は一階の雑居部屋だ。
 左之助は思った。少しでも彼の目に、自分の姿を映したい。
 その為には、左之助自身が出世する以外に道はなかった。
 まず手始めに、左之助はトンボを徹底的に練習した。トンボとは、立ち回りでやられ役が切る宙返りの事を指す。もともと運動神経が飛び抜けてよかった左之助は、あっという間にトンボの型を習得し、若年ながら右に出る者はないほどになった。この頃から発育のよかった左之助は、実際の年齢より三つ四つ年嵩に見られるほどの体格をしていた。彼は誰よりも高く飛び、また誰にも真似ができないトンボを編み出した。それが稲荷町の頭の目にとまった。
 左之助のトンボは観客の喝采を浴びた。トンボの見事さだけでなく、その姿の良さも評判になった。長く均整の取れた手足に、野生の獣じみた精悍な顔つき。獰猛に切れ上がった眦、そして何かに飢えたような目の光。左之助はその他大勢の役ながら舞台で際立って映った。台詞ひとつない、ただのやられ役のひとりだったが、数日経つと観客から「トンボ!」と大向こうがかかるようになった。
 しかし舞台での好評とは裏返しに、同じ稲荷町の仲間からは孤立するようになった。座に入った当初から拾ってくれた名題上役者に心根を買われて可愛がられ、また仕事に真面目であり若年でもあったので比較的過ごしやすく来たのだったが、特にうだつの上がらない者たちにとって後から入った若く才能のある者は脅威の対象だ。自然と左之助への風当たりは強くなった。
 左之助はまだ若年ながら、恐ろしく腕っ節が強かった。大の大人を何人も打ち倒すほどの強力の上に、気性も荒かった。その事を重々承知している稲荷町の仲間は、面と向かって左之助に喧嘩を売ることができない。返り討ちにあってはそれこそ格好がつかないからだ。そこで姑息な嫌がらせをするのだが、左之助は全く相手にしなかった。
 一度左之助の弁当に、大きなヒキガエルが入れられていたことがあった。左之助は顔色を変えず、そのままヒキガエルを一息に飲み込んでしまった。そして、
「誰だか知らねぇが、好物をあんがとよ」
 と驚きで声もない者たちに言い、しばらく腹の中でゲコゲコ鳴いている声を周りに聞かせては大笑いしていた。そんな事があるうちに、左之助は仲間内から一目置かれる存在になっていった。
 ある日、左之助が他の者と稽古で立ち回りを演じていた時、遠くで見ていた剣心は振付師にこんな事を尋ねた。
「あのトンボの名は、なんというのでござんしょうか。」
「ああ、あの男は左之助とかいう稲荷町でございますよ。信州の出だそうですが、なかなか姿がいいしうまいトンボを打つので最近評判だそうです」
 左之助がトンボを切る度に、汗が光りながら舞い散る。仲間たちに囲まれて冗談を言い合い、屈託なく笑う左之助を見て、剣心は眩しそうに目を細めた。
 しかしこの時剣心が自分を見ていた事に、左之助が気づく由もなかった。


























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