助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

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 舞台の終盤、揚巻が助六を裾に匿う場面で左之助は追っ手のひとりに扮していた。
 意休との戦いで傷を負った後、天水桶の中に身を潜めたお陰で失血してびしょ濡れで気を失っている助六を裾に隠し、揚巻は追っ手たちをきっと睨む。助六を出せと詰め寄る面々に、
「待ちや待ちや。そんならこの揚巻が、嘘を吐くとおもやるか。憚りながらこの揚巻、嘘吐くような女郎じゃないぞえ。そりゃ何じゃ、その棒の端がわしが身へちょっとでもさわると、吉原五丁町は真っ暗闇ぞえ。さあさ、わっちが相手になろう。この揚巻を、相手にしいや」
 金銀混ざりの菊に市松模様の打掛が水に濡れるのも構わずに、襟をきゅっと掴んで威勢を張る。剣心の鈴を張ったような瞳は緊張で大きく見開かれ、恐ろしく澄んで凛とあたりを睨みつける。細くて小さな体から、命に代えても恋しい男を守り抜くという意気地がほとばしった。取り囲む者たちは一様に、本気でその勢いにひるみ顔を見合わせた。
 左之助は我を忘れて見惚れながら、裾の中で匿われている「助六」という男を激しく羨んだ。左之助にとって今目の前にいるのは当代一の立女形、緋村剣心丈でありながら同時に吉原一の花魁、揚巻太夫でもあった。
 その日の夜。
 舞台が全てはねた後、誰も居ない小屋で左之助はひとり舞台に立っていた。
 紫縮緬で左鉢巻をしめ、黒羽二重の下には緋襦袢を着付け、手には紺の蛇の目傘。みすぼらしい衣装ではあるが、助六のつもりである。
 左之助は目を閉じて、昼間の舞台を頭に思い浮かべた。
 懐手をして長椅子に座る。
 すうっと息を吸い込んだ。
「いかさま、この五丁町へすねをふんごむ野郎めらは、俺が名を聞いておけ。まず第一に、おこりが落ちる。まだ良いことがある。大門をずっとくぐると、俺が名を掌へ三べん書いて舐めろ。一生女郎に振られるということがねぇ。遠くは八王子の炭焼き婆ぁ、田んぼのはっかけ爺ぃ、近くは山谷の古遣り手、梅干婆ぁにいたるまで、茶飲み話の喧嘩沙汰、男伊達の無尽の掛け捨て。ついに引けのとったことのねぇ男だ。江戸紫の鉢巻に、髪はなまじめ、はけ先から覗いてみろ、安房上総が浮き絵のように見えらぁ。相手が増えれば龍に水、金龍山の客殿から目黒の尊像までご存知の、江戸八百八町に隠れのねぇ、杏葉牡丹の紋付も、桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、揚巻の助六ともいう若い者、間近く寄ってしゃっつら拝み奉れェ」
 一息に言い放つと、誰も居ないはずの小屋の中で鈴を転がすような笑い声が響いた。
「そこで笑いやがるのはいってぇ誰だ!」
 舞台の袖からそっと姿を現したのは、剣心だった。
 驚き、慌てて手をつく左之助に更に笑みを深くしながら近づく。
「助六さんが、そんな風に手ぇつくもんじゃないわいなあ」
 そして何を思ったか、目を閉じ身仕舞いをただす。次に目を開けた時、そこには派手な衣装は一切ないが、確かに花魁揚巻が立っていた。
「これ、わしじゃというたとて、腹からの女郎ではないわいな。ほんにもう、神さんにかけて意休は嫌でならぬものを、それに今のような疑い。あんまりじゃあんまりじゃ。ああ、聞こえた。お前、わしに飽きさんしたな。今更切るに切れられず、しょうことなしに意休がことを言わしゃんすは、わたしと縁を切ろうが為かえ」
 これは、助六が揚巻と意休との仲を疑って責めた場面での揚巻の台詞だ。左之助は慌てて助六の台詞をつないだ。
「そう聞けばあんまり無理もねぇ。疑い晴れた、こちら向け」
 剣心は愛らしい唇を小さく尖らせ、ぷいっとそっぽを向く。
「畜生めにお構いなされてくださいますな」
「はて、俺がこういうからは、そんなに腹を立つことはねぇ。意休とわけの無いことならば」
「嘘吐き女郎におかまいなされますな」
「これはどうだ。俺も、人になんのかのと言われたからによって、意休が事を言ったまでだ。いい加減に堪忍しろ。ならねぇか。おきゃあがれ。俺がさっきから甘口に言やぁつけあがりやがって。もう帰るぞ、止めるな止めるな。・・・ほんに帰るぞ、止めねぇか」
 左之助は立ち上り二、三歩歩いて帰る振りをするが、すぐ振り返る。
「なんじゃやら、ほんに未練たらしゅうて悪いけど、こればっかりは言わにゃあならん。これ、下に居や」
 剣心は長椅子の横に手を置き、左之助に座るように促す。左之助はすぐにいそいそと剣心の側へ戻るが、態度だけは尊大に足を組んだ。
「おう、下に居らぁ」
「これ、今日こなさんがさしてござんした、杏葉牡丹のついた唐傘は、どこの女郎衆から貰わんした」
「あれか、あれは茅場町であつらえた」
「黙りや」
「おっと黙った」
「人が知るまいと思う
て。よう知っているわいな」
「おぬしは、なぜそんな野暮を言う」
「あい、わたしゃ野暮さ。野暮じゃによって、おまえに飽きられたわいな」
 つんと小さなあごを上げる剣心の様子に、左之助は慌てて向き直る。
「そのように何も、言うことはねぇ。そんならみんな俺が悪かった。謝った謝った」
「そんならさっきにからの事、悪いと思うて謝らしゃんすか?」
「大謝り大謝り」
そう言って左之助は剣心の方を向き、深く頭を下げる。
 剣心はその様子に微笑を浮かべ、自分の側を軽くたたいた。
「謝ったのが定ならば、もちっとこちらへ寄らしゃんせ」
「寄らねぇでどうするものか。寄るが、こう寄ったがどうする」
 左之助は緊張のあまり震える手で、剣心の手を取った。
 振り払われるかと思ったが、剣心は抗わなかった。白魚のような手は、左之助の無骨な手の中にすっぽりと納まる。その柔らかくひんやりとした感触に、左之助の胸は熱く震えた。今日の昼間、手拭い越しに肩に置かれた手が、今自分の掌の中にあるのだ。
「おお、よう寄った。あんまり憎いによって、こうするわいの」
 剣心は、左之助の膝の上に腰掛けた。思わず左之助が引きかけるのを、襟を掴んで抑えて続きを促す。
「俺はまた、こうするわ」
 左之助は台本通りに細い体を抱き寄せた。左之助の片手で掴めそうな細い腰が、腕の中でやわらかくしなった。
「さっきから、何のかのとええ、憎らしい」
 剣心は思い切り左之助に抱きつく。
「ええ、可愛らしい」
 細い体を抱きしめながら、左之助にはこれが現実だとは信じられなかった。
 あの剣心丈が、大勢の弟子にかしずかれ、氷のように冷たい美貌と感情を持ち合わせぬかのような振舞いで「唐人形」と陰で呼ばれるあの彼が。話しかけるどころか、彼にとって自分など視界に入ることさえないと思っていた、ただ遠くから見詰めるだけで、焦がれるばかりの遠い存在のはずだった。
 しかし今、左之助の腕の中にいるのは確かに、花魁揚巻であり当代一の立女形、緋村剣心だった。
 俺は夢を見ているのだろうか?
 しかし抱きしめた体はほのかに温かく、額には心臓の鼓動が伝わった。二本の腕がそっと左之助の頭を抱き寄せ、頬が寄せられるのを感じた。

 剣心の体からは、愛用の香の薫りがただよった。抱きしめた左之助の手にもしばらくは、その薫りが移っていた。その香の残り香だけが、確かに彼が腕の中にいた事を伝えていた。


























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