闇に降る雨                  

 

しとしとと、雨が降っている。
雨の音は、心を落ち着かせる。どこかで、聞いた気がする。ずっと、昔に。

それが、母の胎内で聞いた、血の流れる音だなどとは知りもしない左之助だったが、降りしきる雨の匂いは何故か、血の匂いを思い出させた。
やわらかく水を含んだ、土の匂い。
命が芽吹く、匂い。
軽く息を吸って、止める。
肺の中に、しめりけが張りついて水滴を作る。
左之助は長屋の天井を眺めた。天井には、沁みた雨がまだら模様を作っている。左之助の足元に、ぽたりと雨が垂れ、続いて茶碗の中で水が跳ねる音が響いた。
さっきまで眠っていたのだが、寝苦しくて目が覚めた。何か憂鬱な夢を見たせいで頭がだるい。
一体何日雨が続いているのだったか、と考えて指を折る。
昨日、一昨日・・三日か。
そして、あの赤い髪を見たのも三日前だったと、思い至った途端左之助は舌打ちを漏らした。
全てがモノクロに沈む曇り空の下で、彼の髪の色と紫陽花の花だけが色彩だった。
彼を見つめる自分の視線をかわして、困ったように笑う。
「また降り出しそうでござるな。この季節は洗濯物が乾かないからちょっと困るでござるよ」
「俺はじめじめしたのは辛気臭ぇからやだけどよ、大抵自分の生まれた季節は好きなもんじゃねぇのかい。」
「でも、左之は冬より夏の方が好きなのでござろ?」
まるで誤魔化すように話題を振ってくる。
「おれぁ信州の産だから寒いのには強ぇけど、どうも冬は、だめだ。・・赤報隊の事、思い出しちまわぁ。」
途端に剣心の笑顔はみるみるうちに引っ込んだ。
「つまらぬ事を聞いて、悪かった」
左之助は眉間に皺を寄せた。
「別に聞かれたくねぇ話でもなんでもねぇ。謝ったりすんな」
しかし剣心はまた、困ったように笑いながら言うのだ。
「すまんでござる」
左之助は乱暴に立ちあがると足音高く立ち去った。
それから、三日、神谷の家には近寄っていない。
あいつはいつもそうだ、と左之助は天井の沁みを眺めながら思う。
少しでも俺があいつに近づこうとしたり、俺の心を見せようとしたら、しらんぷりしてあさっての方向きやがる。
そしていくら考えてみても、彼の心には辿りつけない。
そして結局左之助の元に残るのは、蜃気楼のようなその姿だけだ。
まるで写真のように、彼の体の部分部分が瞼の裏に焼きついて離れない。
青い血管の透けて見える、白く細い腕。
日が沈む前の一瞬だけ見せる、鮮やかな日輪色の髪。
髪を結う際に少しだけ見せる、細い首筋。
側にいても、それらはとてつもなく遠く感じられた。
触れようとしてもきっと、俺の手はあいつをつきぬけてしまうに違いない。
そしてあいつは困ったように笑って言うだけだ。
『すまんでござる』
「ちきしょう」
左之助は乱暴に起き上がる。
いつのまにか、雨垂れの音は途絶えていた。
三日も長屋にこもりっぱなしでいた左之助は、小腹も空いたと気晴らしに靴を引っ掛けた。
夜鳴きの蕎麦を食らい、腹の虫を満たした後、土手をゆっくりと歩む。小さく、虫どもが鳴いている。
橋の欄干にもたれて、夜空を見上げる。
星ひとつない、漆黒の暗闇。
足の指先から、闇が沁み込んでくるようだ。
「左之?」
ぼんやりとしていた所に突然声を掛けられ、振り向くと其処には、
闇の中でさえ浮かぶ、夕焼け色。
「剣心?」
一瞬、もののけの類かと思ったが、手に風呂敷包みを持っているので現し身と知れた。
「三日前から顔を見せぬし、雨が降りつづけでござったろう?きっと長屋にこもりっぱなしでろくに飯も食っておらぬのだろうと、薫殿が心配してな・・」
『おめぇはどうなんだよ』と、喉まで出かかる声を飲み込む。おかげでくぐもった唸り声が出るばかりだ。
それを返答と見なして、剣心は包みを手渡そうとした。
「まさかこんな所で会おうとは思わなかったよ。ちょうどよかった。重箱はまたでよいよ」
しかし左之助は受け取ろうとしない。
受け取れば、愛想笑いをひとつ残して、彼が背を向けることがわかっていたからだ。
「左之・・?」
いぶかしんで呼ぶ声が、行き場なくふたりの間を漂う。しかしほどなく闇に飲み込まれ、重たい沈黙が膜を張った。
ぽつり。
左之助の頭のてっぺんに、大きな雫が落ちた。
「ん?」
見上げると、頬にもぽつり。
三日も降り続いたから、もう上がったかと思っていたが、また降り出すらしい。あっという間に辺りは雨に包まれた。
梅雨の雨は、体を濡らしても体温を奪うことはない。ただぼんやりとした空虚な熱を、体の芯に与えるばかりだ。
どこかで雨宿りでもするかと、剣心の方を見ると、
彼はぽっかりと目を開けたまま、どこか遠くを見ていた。
手にしていた風呂敷包みは地に落ち、泥に汚れていた。
「おい、剣心?どした」
一度瞬きをして、一歩あとずさると、口の中で呟くようにいう。
「俺、帰らないと。」
「大丈夫か、おまえなんか変だぞ。調子悪いのか」
しかしそれには答えない。その上、帰ると言ったくせに、その場に立ち尽くしたまま動かないのだ。
そうこうしているうちに、雨は細い線を引きながら地を覆い、ふたりを均等に濡らしていく。動かない剣心に、左之助は立ち尽くすばかりだ。
「雨が、」
じっとりと着物まで濡れそぼった頃、唐突に声が発せられた。
左之助は雨の音に紛れそうな声に、耳をすました。
「雨が、嫌いなんだ」
訳がわからない剣心の言葉の意味を、必死で考える。ふと、剣心の口からはっきりと、好き嫌いを聞くのは初めてだと思い至った。
「どうして、雨がきれぇなんだ?」
左之助は妙な態度をただしたりせず、静かに尋ねた。
「他の季節の雨はいいんだ。今の、・・梅雨の雨がいやだ」
「梅雨は、おめぇの生まれ月だろ。」
そう言うと、剣心の眉は哀しげに歪んだ。
「嫌いなんだ」
突然、明るい声で言う。
「俺は雨を降らせるよ」
「へえ、どんな風にだい」
「血の雨。」
左之助が尋ねると、暗闇に光る虚ろな瞳を左之助に向け、ぞっとするような声が答えた。
「人を斬ると、斬った瞬間には血が出ないんだ。刀は、良く切れるから。一瞬置いて、ほとばしる。・・血の雨は暖かい。さっきまで人の中を流れていたのだもの。なまぬるい、命の匂いのする、雨だよ」
そう言って、唇の両端を上げた。下弦の三日月を、かたどる唇。
その作った笑顔は、左之助の心に堪らない焦燥を掻きたてた。
左之助は自分の半纏を脱ぐと、頭に被って天幕のように覆いを張った。
その下に剣心を招き入れる。
「これで、濡れねぇだろ」
剣心を落ち着かせる為に、肩に手を伸ばす。すると、体を固く強張らせて退いた。
「触らないでくれ」
左之助の男らしい眉が上がる。
「そりゃあ、悪かったな。じゃあ、俺が側にいんのも目障りか。」
きびすを返そうとするのに、
「行かないでくれ」
せっぱつまったような声が投げつけられた。
左之助は剣心の方を振り返る。
まるで捨てられた子供のように不安げな瞳が揺れている。
「触られんのは嫌で、俺がいっちまうのも嫌なのか。」
こくり、と幼子のようにうなずく。
「勝手なもんだな」
冷たく言い捨てると、彼の顔は泣きそうに歪んだ。

ここ数日、降り続く雨は、剣心に頭痛と憂鬱をもたらしていた。
明日は上がろう、明日こそはと思ううちに、すっかり疲れ切ってしまった。
雨があがって欲しいと願うのは、そうすれば左之助が来るかもしれないと心の片隅に巣食う望みがあったからなのだが、剣心にはそれさえも永遠に来ないのではないかと疑われた。全てに対して懐疑的になっている。
そしてあの、なまぬるい雨。梅雨の雨は、否応無しに剣心の肌に嫌な思い出を浮かばせる。雨をやり過ごす為に家に篭ったまま、もんもんと日を過ごし、すっかり参ってしまっていた。
でも、梅雨が終われば、あの猛々しい夏がやってくる。
剣心は夏も嫌いだった。
青い空。澄んだ空気。照りつける太陽。咲き誇るひまわりの群れ。
梅雨の雨に命を与えられたものたちが一斉に燃え盛る。
それらのものは、剣心には眩しすぎた。
夏の全てのものは、左之助を思い出させる。
あの強い意思を秘めた瞳。笑うとこぼれる、大きくて真っ白い歯。良く焼けた鋼のような肌。
お願いだから、俺を見ないでくれ。
どうかそっとして、眠らせておいてくれ。
俺の心に、触れないでくれ。
お前に近づかれると、眩しすぎて、氷のように溶けてなくなってしまうよ。
でも、彼を完全に失う事を考えると、気が狂いそうになるのだ。
彼にいて欲しいのか、消えて欲しいのか。
剣心の心は真っ二つに割れた。
左之助が剣心に近づこうとしたり、離れようとすると、剣心の心の均衡は激しく乱れた。
三日経ってもあらわれぬ彼に焦れて、雨が上がるのをじりじりとした思いで待ち、家を出た。そして思いもよらず雨に濡らされ、剣心の心は激しく混乱してしまったのだ。

『ちきしょう』
左之助は歯を食いしばった。
左之助には剣心の心の暗闇の全てはわからない。
違う人間なのだから、全てを理解しつくすのは土台無理な話だ。
こうして生きて、別々の人間である限りは。
それがたまらなく悔しかった。
どうしてこいつがこんな目にあわなきゃならねんだ。
なあ、神様よう。どうしてだよ。
左之助は行き場のない憤りを、信じてもいない神にぶつけるしかない。
こいつがなにしたっていうんだ?
そして俺は、どうしてこいつに触れねえんだ?

  でも俺は、こいつに向かう心をどうしようもない。
こいつが望むなら、俺はなんだってしてやる。
こいつが触んな、ってんなら、この腕ぶったぎってでも。
こいつが側にいてくれ、ってんなら、殺されたって。
いや、と左之助は苦笑を漏らした。
側にいたいのは、俺の方だ。
側にいられんなら、俺は、触れなくたって、かまわねぇ。
こいつはもう、人を殺しすぎて、こいつ自身が災厄になっちまった。
こいつに心を渡しちまうことがどれだけ危険か。俺は全てを失うかもしれない。
全て?
最初から俺には何もねぇじゃねえか。
なにもかも、こいつにくれてやる。
もってけ、泥棒。
「泥棒じゃねぇか。人斬り様だあな。」
左之助は笑い飛ばした。
不安そうに上目づかいで見上げる剣心に、半纏の天幕をかけてやる。
こいつに降り注ぐのが、雨だろうがさだめだろうが。
俺が、守ってやる。
こいつの嫌いな雨からも、こいつを苦しめるさだめからも。

俺が。

 

 

                                            了

 

 

 

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