逢いみての

鷹宮 椿           

 これは一体どうしたことだろう。
 剣心は呆然と自分の手の中を見つめている。
 剣客らしからぬ細く白い手の中には、根付がひとつ。
 饅頭根付といい、オーソドックスな円形のものだが、これは正面に凄みのある雲龍が彫り込まれ、残りの面全てにも渦巻く龍の躯と雲が彫られていた。龍の目には鼈甲で象嵌がなされ、よく見るとさらにその中の黒目にまで細かい点刻がされているのがわかる。海象牙(セイウチの牙)特有の飴色で滑らかな手触り。
 一目見ただけで大変に高価なものだとわかる。
 剣心は、はあ、と溜め息をついた。
 どうして持ってきてしまったのだろう。
 左之助の愛用している煙草入れ、それにつけられた根付。
 以前そのあまりの精緻な作りに驚いた剣心に、喧嘩屋をしていた時、喧嘩代金に加えて骨董好きの旦那から貰ったのだと話していた。
 本人も気に入って使っていたのだろうが、なにせ左之助の事である、昨日ふと小用に立った時に見ると、根付と擦れて紐が切れかけていた。つい、と引くとほろりと外れてしまう。
 彼が戻って来た時、紐が切れている事を伝えてやればそれで事は済んだのに、剣心はなぜか慌ててそれを袂にしまってしまったのだった。
 ぼんやりと剣心は、昨日の事を思い出していた。

 昨日。
 昼過ぎに左之助はやってきた。
 打たれ強いと本人が言う以上に怪我の治りも尋常の速さではなく、今はもう側へ寄っても膏薬臭くなくなった。
 剣心との死闘の後、見極めてやるとの言葉通り、左之助は毎日のように道場へ通ってくる。神谷家の面々もすっかり慣れ、またひとり家族が増えたように感じているようだった。
 その日は薫と弥彦は出稽古の日で、夕食も先方で頂いてくるという。剣心はいくつか済ませておきたい用事があったので、同行しなかった。
  昼食後の一息を入れていた時、左之助は呑気な声を出してやってきた。
 剣心は、勝手口からやってきた背の高い男の、太陽のような笑みを認めて眩しそうに目を細めた。
 彼は剣心作の味噌汁とほうれん草のおひたし、そして漬け物の味にうまいうまいと5杯も飯をお代わりをした。それから剣心が家事にいそしむ様を眺めながら他愛もない話をしたり、昼寝したりしていた。
 あまりにも優しく、平和な日常だった。
 日がだんだん傾いてきた頃、剣心は買い物に出掛ける事にした。いくつか買い揃えておくべきものが溜まっていたのだ。左之助を荷物持ちに任命すると、文句を言いながらも嬉しそうについてきた。
 そして買い物が終わった頃の、突然の夕立。
 出がけに洗濯物は取り込んできたので助かったが、傘を持って出ていなかった。夏には夕立がつきものである事をすっかり失念していたのだ。
 雨足は恐ろしいほどに激しく、荷物を抱えた身ではとても身動きがとれそうにない。
 どうしようか、と途方に暮れる剣心に、左之助は笑って言った。
「どうせ降ってる間は動けやしねぇんだ、なに、やり過ごしてりゃすぐに止むさ。その間、ちょっとそこいらで雨宿りとしゃれこもうぜ」
 でも、という剣心に、、
「いいじゃねえか、今日は嬢ちゃんも弥彦も居ねぇ、夕飯の心配はねぇんだろ?どうせてめぇの事だ、残り物で済ませようって魂胆だろう。俺は御免だぜ」
 文句を言えた義理ではないと思うのだが、左之助にそれを言っても、まさに馬の耳に念仏。
「なあ、いいじゃねえか、たまには男同士、飲んで語り合うってのもよ。な?」
 そして、自分は苦笑しながら頷いたのだった。

「…どうしたもんかなぁ…」
 左之助は長屋のせんべい布団の上に寝転がりながら、唸っていた。
 つい、と、腹の上に載せていた紐をつまみ上げる。
 少々くたびれ、色も褪せてしまっている、茄子紺の組紐。
 どうして、持ってきてしまったのだろう。
 思いは、昨日へと飛んだ。
 昨日、左之助馴染みの船宿に走り込んだ時には、近場ではあったものの少々濡れてしまっていて、女将に頼んで手拭いを借りた。その時、剣心は濡れた髪を乾かす為に髪を下ろしたのだった。
 普段は目にすることができないその姿に、左之助はなぜか一瞬胸が締め付けられるような思いがした。しかしその正体に思い至る事もなく、いや、振り払うようにして昨日は飲んだ。
 そして飲んでいる最中、ふと手に触れたその紐を、左之助は何故か落としにしまってしまった。
  一応書き置きはしてきたが、ふたりの帰宅を出迎えるのは自分の義務だと言って、いいじゃねぇかと引き止める自分を置き剣心は先に帰っていった。
 帰り支度の際、剣心は紐が見あたらない事に気付き、左之助に尋ねた。しかし左之助はその時も、知らない、と言ってしまった。
 剣心はしばらく探していたが、溜め息をついて、仕方がない、と髪を下ろしたまま帰っていった。
 あの時、ふと紐に指が触れた時には、衝立にでも干してやるつもりだったのだ。盗む気など、更々なかった。
 なぜ、返してやらなかったのだろう。
 きっと替えの紐など持ち合わせていないに違いない。もしこよりででも結んでいたら哀れで目も当てられない。それとも薫に、新しい紐を貰っただろうか。
 俺ァ、どうしてこんなもん欲しかったんだ?
 左之助はぐるぐると答えのでない自問を繰り返しながら、それでも決して紐を放そうとせず、終始もてあそんでいるのだった。

 昼過ぎまで待ってみたのだが、左之助の来る気配はなかった。
 結局髪をまとめる紐は、薫に頼んで代わりのものを分けてもらった。かわいらしい桃色だが、この際文句も言っていられない。
 剣心は、何度も勝手口の方を見ては、溜め息をつく。生け垣の上からのぞく、ツンツンと立った髪の毛は、いつまで経ってもやってこない。
 別に、毎日必ず来ると約束しているわけでもない。顔の広い左之助の事だ、何かと付き合いも多い。1日や2日来ないなど、当たり前であったのに。
 どうして、こんなにもあの青年の事が気にかかるのか。
 大体今会っても、この根付の事を何と説明すればいいのだろう。
 あの勘の鋭い青年は、剣心の言葉に潜む嘘を敏感に見抜く。
 彼の漆黒の瞳はいつも、剣心が作り上げた壁を突き抜けようとしていた。
 そんな風に自分に接してくる者など初めてで、剣心は戸惑いを隠せない。
 逃げ出したい気持ちと同時に、全てを晒してしまいたい気持ちとが綯い交ぜになる。
 あの青年の顔を見れば、この気持ちの正体が分かるだろうか。
 無性に彼の顔が、見たかった。
 あの太陽のような笑みを、この身いっぱいに受けたかった。
 剣心は、手の中の根付を撫でた。
 会いに、行こう。

 左之助は指に絡ませた紐を鼻先に近づけた。
 くん、と匂いをかぐ。
「剣心の、匂いだ…」
 何、やってんだ。
 左之助は顔を赤らめた。
 途端に、腹の虫がぐうう、と鳴った。
 らしくもなく考え込んだせいで、飯を食うのを忘れていたのだ。
 最近は神谷道場で食事を取る事が多かったが、本当はわざわざあそこへ行って、薫の不味い飯に当たる必要はない。黙って飯を食わせてくれる所など、正直左之助にはいくらでもあった。
 それなのに、なぜあそこへ通うのか。
 よう、と勝手口から顔を出せば、決まって向けられる、透き通るような笑顔。
 むずむずと背中が痒くなるような気がして、まともに見られず、つい顔を逸らせてしまう。それなのに、1日でも見ないと何か物足りないような、胸に穴が空いたような気がして、いつのまにか足は神谷道場へ向かっているのだった。
 どう、しようか。
 隠し事の出来ない自分の事だ、どんな顔をいて剣心に会えばいいのかわからない。
 でも、会わなければ今日一日、剣心の事を考えてしまうのは目に見えていた。
 こんな風に、鬱々と思い悩むなど、性に合わない。
 紐の事は、そのうち考えりゃあいい、と、左之助は開き直った。
 とにかく今すぐ、彼の顔が、見たかった。

 左之助に会う、それだけは決めて、家を出た。
 しかし、彼に会ったら、わざわざやってきた事をどう説明すればいいのだろう。
 ただ顔が見たかったから、そんな事、口が裂けても言えるわけがない。
 どうして左之助の顔が見たいのか、剣心自身にもよくわからないのだ。
 片手に握り飯と昼食の残りを詰めた弁当を持ち、もう片方の手の中で根付を転がしながら、ぼんやりと剣心は考える。
 ああ、そうだ。
 この根付を拾って…、そう、神谷の家の縁側に落ちていた事にすればいい。
 きっと探しているだろうから、買い物のついでに届けに来た、と。
 そう言えば不審がられずに済む。
 剣心はつらつらと言うべき言葉を反芻しながら、破落戸長屋へと向かって歩いて行った。

 剣心が長屋の側まで来た頃、左之助は神谷道場にたどり着いた。
 きっとこの時間なら、剣心は一通りの家事を終わらせて一服している頃だろう。
 酒もいけるくせに甘党の剣心の為に、途中で饅頭を仕入れてきた。
 あいつはどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。
 庭に、剣心の姿はない。
「おおい、飯喰わしてくれよ」
 と言いながら、厨から剣心の自室のある離れまで回ったが、探し人の姿は見当たらなかった。
「おい、嬢ちゃん、剣心は?」
 とうとう左之助は道場へ顔を出した。
「あら、左之助じゃない。剣心ならさっき、ちょっと用事があるって出掛けてったわよ。すぐ戻るって言ってたけど…。あっ、その包み、宮月堂の揚げ饅頭じゃない!?たまには気がきくじゃないの!」
 目敏く左之助の手の中にある包みを見つけた薫は目を輝かせ、稽古の手を止めて走り寄ってくる。
「ったく薫はこれだからなあ。最近太ったからって、昼飯もろくに食わなかったくせに」
「五月蠅いわねっ」
 子犬がじゃれ合うようにしながら早速お茶の準備を始めたふたりを尻目に、左之助は溜め息をついた。
「なんだ、居ねぇのか…」
 庭を眺めながら、薫の煎れた渋すぎる茶を啜る。
「なあに、左之助ったら。食べないの?」
 油で指先と口の周り中ベタベタさせながら薫が言った。
「いい年した女がみっともねぇぞ、薫。顔中油だらけじゃねえか」
 そういう弥彦も、似たような有様だ。
「俺ぁ後で喰うからいいや。てめぇら、がっつくのはいいがちゃんと剣心の分もとっとけよ」「わかってるわよ。剣心だって、すぐ戻るって言ってたんだから。」
 と言いながらも、慌てて残りの数を確認している。
「すぐ帰るっつったんなら、ここでちょいと待つとするか」
 そう言って左之助は、ごろりと横になった。
「なあに、剣心に何か用事があったの?」
 そう問われて、左之助はぐっと言葉に詰まった。
「あ、ああ。まあな」
 本当は用など、何もない。しかし、ただ顔が見たかっただけだなどと、どの口が言えよう。
 大体、どうしてこんなに剣心の顔が見たいのか、俺にだってわかりゃしねぇんだ。
 左之助は小さな声で呟いて、目を閉じた。

「左之、居るか?」
 ほとほと、と剣心は大きく左の字が書かれた障子を叩いた。
 返事はない。
「入るぞ、左之?」
 戸を引くと、がたつきながらも開いた。しかし、部屋の中には誰も居ない。
「…居ないのか…。」
 ああ言おう、こう言おうと色々考えて妙に力が入っていた分、留守と分かって気が抜けてしまった。
「わざわざ人が会いに来た時に限って居らぬ、唐変木め」
 剣心はふうっ、と息を吐いて上がり框に腰をかけた。
 狭い部屋の中には、敷きっぱなしの万年床に柳行李がひとつ、他には大した家具もない。いくつかものが出しっぱなしにはなっているが、雑然とした印象はなかった。
「風通しのいい部屋だな」
 くすりと剣心は笑みをもらすと、すうっ、と息を吸い込んだ。
 左之助からはいつも、干し草のような香りがした。
 ああ、と剣心は思い至る。
 太陽の匂いだ。この部屋からも、左之助の匂いがしていた。
 それにしても、あの鉄砲玉の事だ、いつ戻ってくるのか見当もつかない。
 剣心は弁当箱をわかりやすい所へ置くと、部屋を出た。
 さて、どこへ行ったものやら。
 青空を見上げて、剣心はひとつ息をついた。

「そうかっ」
 それまで大人しく寝ていた左之助が突然立ち上がったので、薫は茶を喉へ詰まらせ、弥彦は飛び上がった。
「なっ、なんだっ」
「俺ぁ、用事思い出した。もう行くぜ。俺と剣心の分の揚げ饅頭、残しとかねぇと承知しねぇからなっ!」
 そう叫ぶ間に、左之助はもう靴をつっかけて走り出していた。
 後には呆然とした弥彦と、怒ろうにも咳が止まらず、悔しがって床を叩く薫の姿があった。
 神谷家を飛び出した左之助は、韋駄天と言われた俊足で昨日飲んだ船宿へと向かっていた。
 あそこでなくしたのは絶対なのだ。きっと女将に、紐の忘れ物がなかったか聞きに行っているに違いない。
 あの紐は自分が持っているのだから、探しに行っても見つかる筈はない。待っていればそのうち戻ってくるのは分かっているのに、左之助は走らずにいられなかった。
 無駄足を運ばせるのは悪いからとか、女将を煩わせたくないからとか、走りながら理由を後から後からひっつけて行くけれど。
 しかし本当はただ、剣心の顔がみたいからだと、知っていた。

「お主の持ち主は、一体どこをほっつき歩いているのでござるか?」
 剣心は、掌の中の根付に向かって呟く。
「…もしかしたら、お主の事を探しておるのかも知れぬなあ。」
 行ってみるか。
 剣心はひとつ頷いて、昨日の船宿へと歩き出した。
「お邪魔するでござるよ」
「いらっしゃいまし。あら、昨日の、左之さんのお連れさんじゃございませんか。どうぞお上がりくださいな」
「あ、あの…。左之、左之助は、来ておりませんか?」
 部屋へ上げようと促していた女将は、振り返った。
「左之さん、ですか?今朝方お帰りになられましたけど…?」
「ああ、それならいいんです。お邪魔したでござるよ」
「あら、ちょっと、おさむらいさん…?もしかして左之さんをお探しで?」
 ふと彼女から、伽羅の香りが漂った。
「いえ、別に、大した用ではないんでござるが…。では、失礼するでござる」
 剣心はいたたまれなくなって逃げるように立ち去った。
 綺麗なひとだった。
 深く抜いた襟足に、ほっそりとした首筋。
 左之助とは、どういう知り合いなのだろう。
 そんな事、ただの友人である剣心には何の関係もない事だ。左之助も、何も言わなかった。
 そして何より一番分からないのは、そんな事をあれこれ考える自分自身だった。

「おいっ、邪魔するぜ!」
 慌てて駆け込んできた左之助に、女将は目を見張った。
「あらまあ。騒々しいこと。」
「おい、ここに剣心、ええ、昨日連れてきた奴、来てないか」
「おいでになりましたよう。一体どうなすったんです、そんなに慌てて。」
「来てるのか!?」
「まあまあ、座ってお茶でもおあがんなさいな。」
「来てんのか?どこだ?」
「今は居られませんよ。つい四半刻ほど前においでになって、すぐ出て行かれました」
「なんだよ、また入れ違いか」
 がっくりと肩を落とす左之助に、女将は何かおおごとでも起こったのかと膝を立てた。
「いや、別に、大した事じゃねえんだが…。」
 途端に歯切れの悪くなる左之助に、女将は首を傾げる。
「ああ、それより、何処行くとか、聞いてねえか」
「いいえぇ。なんにも。」
「そっか…」
 左之助は差し出された茶を一気に飲み干すと、また風のように飛び出して行った。
 彼女は呆れたように頭を振って、一言呟いた。
「全く、おかしなおふたりさんだこと。追いかけっこでもして、遊んでんのかねえ」

 船宿にも左之助はいなかった。一体どこへ行ったろう。
 なんだか情けなくなってきて、このまま道場へ戻ろうかという思いがふとよぎる。
 でも、ここまで来ておいてただ帰るのもなんだか悔しい。
 剣心は、目に付いた茶屋で一服する事にした。
「あと、あの風来坊が行きそうなところというと、どこでござろうなあ…」
 そして剣心は、あまりに左之助の事を知らないのに気付いた。
 あっという間にどんな人間とも仲良くなってしまい、愛されるのは左之助の特質だった。薫も弥彦も、ずっと前から家族同然の付き合いのようにしているが、実際、左之助と出会ってからまだ一月ほどなのだ。
 彼と戦って、彼が長い間抱えてきた傷の事を知った。でも、それだけだ。
 どのようにして育ち、生きてきたのか。
 好きな場所、嫌いな食べ物。両親の事。恋人の事。
 ほとんど、何も知らなかった。
 流れていた時は、知らなくてよかった。誰の事も知りたくなかったし、知られたくなかった。
 誰も心の中に入れないと決めたから。
 今だって、いつ流れるかわからない身の上なのだから、知らない方がいいのだ。
 だけど、彼の事がこんなに気にかかるのは、何故だろう。
 知りたいと、知らない事を知ってショックを受けるほど知りたいと思うのは、何故なのだろう。
 彼に会えば、分かるのだろうか。

「くっそう、どこいきゃあがったよ…」
 ふと、左之助の中である疑惑が持ち上がる。
 以前薫とふたりきりで話していた時、こんな事を言っていた。
『剣心ね、自分はるろうにだから、いつ流れるかわからないけど、それでもいいか、って。』
 そして自分があの戦いの後、赤べこの前で言った言葉。
『俺に許可なく勝手に流浪に出るな』と。
 もしかして。それは常に心の底に抱えた恐れだった。
 ゆっくりと、左之助の足が止まる。
 そんなわけぁねえ。あいつは俺と約束したんだ。勝手に流浪に出ないと。
 あの時剣心が自分の言葉に返事を返さなかった事を、必死で頭から追い出した。
 嬢ちゃんにだって、すぐ帰ると言ったっつんだ。あいつが、そんな嘘をつく訳がねえ。
 左之助は何度も深く息をついて、吹き出しそうな感情を押しとどめる。
 その時左之助は思い知った。
 彼が目の前から消えてしまう事が、どれほど自分にとって恐ろしい事かを。
 さの、と優しく呼ぶその声を、二度と聞けなくなる、その事を想像しただけで、胸が押しつぶされそうだった。
 それがどう名付けられる感情なのか、彼はまだ知らない。
 ただ、彼を失うのは嫌だと、それだけは強く、強くわかった。
「…赤べこ、行ってみっか」
 当てもなく探していたのでは埒があかないと気づき、左之助は呟いた。
 そういえば、剣心と初めて会ったのも、あそこだったっけ。
 ちんまくて、女のようななりで。でもただ者ではないのは、一目でわかった。
 その後、維新志士だと知って、初め感じていた好意の裏返しのように憎しみを抱いた。
 戦っている時の剣心はまるで、燃えさかる火の玉のようだ。
 神速で動く剣心の残像が今も、瞼の裏に焼き付いている。
 激しく煌めく逆刃。流れる赤い髪。
 ただ素直に思った。キレイだ、と。
 手を伸ばした瞬間に、バラバラに斬り刻まれてしまうだろう。
 でも、そうされてもいいような、されてしまいたいような、そんな妙な気分になった。
 完膚無きまでにぶちのめされ、見上げた青い空。
 そしてその視界に入ってきた、赤い髪。
 先ほどとは打って変わって穏やかで優しい笑みが降ってきた時、やっぱり左之助は思った。
 キレイだ、と。
 それから、剣心から目が離せなくなった。ずっと見ていたい、と思った。
 この焦燥はきっと、剣心に会えば収まるはずなんだ。
 左之助はまた走り出した。

「あ、左之助さん!いらっしゃいませ」
 燕が左之助の姿を認めると走り寄って来た。
「おう、燕ちゃん。元気にしてっか。」
 どうぞ、と燕が席へ案内するのも構わず、きょろきょろと店内を見回している。
「あの…、どうかなさいましたか?」
「あー…、あのさ。剣心来てねぇか」
「緋村さん、ですか?いいえ、先週皆さんでお見えになってからは一度も。」
「…そうかい。」
 がっかりした顔の左之助に、燕が首を傾げた。
「いや、大した用じゃねえんだ、気にしねぇでくんな。じゃあな」
 そのままそそくさと出ていってしまった左之助の背中を、燕は不思議そうに見送った。

 それから四半時ほど後だ。
 赤べこの暖簾をくぐる剣心の姿があった。
 左之助と自分が共通して知っている場所など、あとはもうここ位しかない。
「あら、緋村さん、いらっしゃい。お珍しい、今日はおひとりどすか?」
「あ、ええ、まあ、ちょうど側を通りかかったもので…」
「どうぞどうぞ。今豆茶でもお持ちしますよって」
「あ、はい…」
 剣心は妙に促されるまま、席についた。そっと周りを伺う。
 一瞬にして剣心はこの店の中に左之助が居ない事を悟ってしまう。
 左之助の気は太陽のように明るく、激しい。
 あんなまっすぐな気を持った人間は他にはいない。
 思わず惹きつけられる、そんな気だ。
「ここにもいないか…」
 剣心は苦い豆茶を飲み込んだ。
 しばらくそこで休憩し、妙と世間話をした後で、剣心は赤べこを後にした。
「ここまで会えないと何か…、罰のような気さえするでござるな」
 やはり自分などが、誰かに会いたいと思うことすらおこがましいのだろう。こうやって誰かに手を伸ばすなど、二度としてはならないと、すれば手痛いしっぺ返しを食らうと、そう言われているようで。
 目を閉じると、あの生涯忘れ得ぬ、最悪の場面が浮かんでくる。
 こうして自分が探している限り、二度と左之助には会えないのではないか、そんな事さえ頭に浮かんだ。
 溜め息を吐き出すと、空はゆっくりと橙色に染まり始めていた。

 赤べこから出た後、左之助は苛立ち、手当たり次第剣心の行きそうな所を回ったが、見つける事はできず、目撃証言さえ得られなかった。
 そうこうしていたら、左之助が誰かを探して駆けずり回っているという噂があっという間に広がって、自称舎弟たちが集まってきたので、慌てて解散させる。
 ただ顔がみたいというだけで、舎弟を総動員して捜索するなぞこっぱずかしくてできやしねえ、と左之助は吐き捨てた。
 どうやら今日自分にツキはないらしい、と左之助は悟った。しかし諦めた訳ではない。神谷の家に戻ろう、と考えたのだ。
 きっともう剣心は戻っているだろう。もしまだでも、あそこにいれば必ず戻ってくる。
 それまで待ってやる、と左之助は決心した。
 追いかけるだけが能ではない。俺だってたまには待つこともできるのだ。

 赤べこを出た剣心は、とうとう途方に暮れた。
 もう、左之助が行きそうな場所などまったくわからない。
 こうなってはもう、大人しく長屋で待つしかないだろう。
 あの風来坊がいつ戻ってくるのか見当もつかないが、剣心は帰って来るまで待つ気でいた。
 もしこれが罰ならば、甘んじて受けよう。
 それでもまた左之助に会えるのなら。
 剣心は長屋への道を急いだ。

 数刻ぶりに神谷の家へ戻ってきた左之助だったが、探し人はまだ戻っていなかった。
「何戻って来てんだ、左之助。」
 鍛錬を終えた弥彦が声を掛けてきた。
「おい、剣心のやつは?」
「まだ帰ってねぇよ。大方散歩でもしてんだろ。」
 がっかりして左之助は縁側へ座り込む。
 一体、どこほっつき歩いてやがんだ、あいつ。
 しかし左之助の腹は坐っていた。
 彼を待つ。そう決めた。
「だから、早く帰って来い。待ってっからよ」
 彼が戻ったらすぐにわかるように、勝手口が見通せる座敷に陣取った。
 昨日会ったばかりだというのに、頭の中に剣心の姿を描こうとしても、おぼろげには浮かぶものの細部にいたるとほどけるように消えていってしまう。
 このままでは、剣心の顔を忘れてしまいそうだ。
 少しでも剣心を身近に感じようと、左之助は無意識に昨日盗んでしまった紐を取り出した。
 そうこうしているうちに、入道雲がもくもくと空を覆う。
 あっという間に、激しい夕立が降り始めた。
 庭に出て身体を拭いていた弥彦は慌てて服を部屋へ投げ込み、歓声を上げながら天然のシャワーを浴び始めた。
「ガキはいいねぇ、気楽で」
 左之助は優しい雨音に耳を澄ました。
 雨だれはゆっくりと心臓の音に同化していく。
 涼しい風が身体を撫で、左之助の瞼は段々重たくなってくる。
 剣心は、どこにいるのだろう。どこかでこの雨に濡れていなければよいが、と頭の片隅で思う。
 眠ってはいけない、と思う。眠ってしまったら、帰ってきた剣心の顔が見られなくなる。
 しかし容赦なく睡魔は襲ってくる。
 左之助は、紐を指にしっかりと絡ませ、もう片方の手で握りしめた。
 この紐が束ねていたのは、あの真っ赤でふわふわした細い髪だ。
 一緒に歩く時、時折何かの拍子に左之助の腕を撫でた。
 するりとすり抜けるあの鮮やかな色の束を、ぎゅっと握りしめて、そうしたら二度と放さない。
「剣、心…」
 左之助は小さくそう呟くと、目を閉じた。

 途中で空模様が怪しくなり、早足で破落戸長屋にたどり着くとすぐに激しい夕立に見舞われた。
 なんとか昨日の二の舞は避けられたが、左之助はどこでどうしているだろう。昨日のようにちゃっかりどこかで雨宿りを気取っているのだろうか。それとも濡れるのも構わずにいるのだろうか。
 剣心は自分が持ってきた弁当箱がそのままになっているのに気付いて溜め息をつく。
 一度も戻ってきてはいないらしい。
 剣心は足袋を脱いで足を洗い、部屋へあがった。
 優しい雨音と風を感じる。
 左之助がひとり雨の日を過ごす時はどんな風なのだろうか。
 あの男の事だ、世間が雨だろうと関係なく、あの太陽のような匂いを振りまいているのだろう。
 剣心は行儀悪くも左之助の煎餅布団の上へ座り込んだ。
 ああ、左之助の匂いだ。
 剣心はふわりと笑みを漏らし、布団に頬をつけた。
「阿呆め、早く帰って来い」
 雨は当分止みそうにない。
 左之助の香りに包まれて、剣心の瞼は段々重くなってくる。
 いけない、左之助が帰ってきた時にこんな有様ではきっと笑われる。何より、左之助の顔が見られないではないか。
 しかし思いに反して剣心の意識は段々途切れがちになってきた。
 せめて夢の中ででも、逢えるだろうか。
「左之…」
 夢の中で左之助が待っている気がして、手を差し伸べてくる彼を見た気がして、剣心は笑顔を浮かべる。根付を両手に包んだ。
 一言彼の名を呼んで、剣心は夢の世界へと誘われていった。

 ふたりが夢の中で逢えたかは、ふたりだけの秘密である。

 これはまだ始まりの前の、始まることさえ知らない、ふたりのお話。

2003.7.19了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逢いみての のちのこころにくらぶれば 昔はものを おもはわざりけり

Aちゃんへ捧げます。謹んで。

 

 

 

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