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 すうっ、と意識が浮上する。
 深い溜息をひとつ、ついた。
 何か、長い夢を見ていたような気がする。
 一瞬、ここがどこなのかわからなくて辺りを見回した。しかし見慣れた天蓋の彫刻が、彼の居室であることを告げている。
 胸の深いところが痛んで、王子は肌身離さず持ち歩いてるお守りを握り締めた。
 こうして、ひとり寝台に潜ってこのお守りを抱きしめる時だけが、唯一自分に彼を想うことを許せる時間だった。
 王子は広い寝台の中で小さく小さく身を縮め、自らの肌でお守りを温めながら、もう何度反芻したかもしれぬ出会いの時を思い出していた。

 それはもう、1年も前のこと。
 王子は時折身をやつし、ひとり散策するのを楽しみとしていた。
 その日は、城から少し離れた森の中へと分け入った。鳥たちのさえずりに耳を澄まし、しつらえられたものでない、自然の花々の美しさを愛でるうち、いつしか森の奥深くへと入り込んでしまっていた。
 その時である。突然近づく殺気を感じ、王子は木陰へと身を潜めた。
 しばらく様子を伺うとはたして、数人の男たちがひとりの長身の男を矢もて追い込んでいる状況が見えた。ここは城から離れているとはいえ、敷地内といっても差し支えない場所だ。王子はなおも詳しい状況を見極めようと彼らを追った。
 男たちは、怒声を張上げながら次々と青年に矢を射掛ける。しかし長身の若者は恐ろしく俊敏な動きでそれらを避け、時には飛んでくる矢を素手で叩き落した。その身のこなしだけでも、武術に長けた者だと判断できる。しかし、よく見ると青年の足元はふらつき、呼吸が酷く荒い。
 「毒矢か・・・?」
 よく見ると、青年の肩には矢が掠った傷があった。
 多分、真正面からでは倒せぬ相手であるために、毒矢を射掛けて弱らせ、追い詰めてなぶり殺しにするはらであろう。
 彼らの声に耳を澄ますと、この国に外れに住む民の言葉と知れた。やりくちの荒さや彼らの雰囲気から、王子は隠密や暗殺者の可能性を除いた。恐らく同じ部族内の内輪もめ。だとすれば、王子である自分が介入する必要はまったくないはずだった。それどころか、下手に首を突っ込むと面倒を引き込むことになる。
 このまま、何も見なかったふりをしてこの場を後にするのが一番の得策なのは間違いなかった。しかし。
 追われる青年は、汗を光の粒のように撒き散らしながら韋駄天のように森を駆け抜けている。このまま追い詰められ、動けなくなったところを射殺されるのは明らかであったのに、青年には微塵も諦める様子がなかった。しなやかで伸びやかな四肢を持つ青年の姿は、王子の周りをとりまく貴公子たち、・・・猟犬に追い詰めさせた獲物を獲るのみの安全な狩に興じる貴族たちとはまるで違う。彼自身が、この上もなく危険な野生の獣であった。王子の目は青年に釘付けとなり、背を向けて立ち去ることができない。
 しかしとうとう毒がまわったか、青年は大木の前に膝をついてしまう。あっという間に追っ手に取り囲まれ、全ての矢はギリギリ音をたて青年に向けてつがえられた。
「俺は・・・、今ここでくたばる訳にゃいかねぇんだ・・・!」
 初めて青年が吼えた。勢いに押され、思わず取り囲んだ者たちは一歩さがった。喘ぎながらも強い意志のこめられた声に、王子は思わず胸を押さえた。
「てめぇら、やれるもんならやってみろ!俺は絶対てめぇらなんぞにやられやしねぇぞ!」
 追っ手の一人が上擦った声で笑いながら言った。
「そんな有様でよくもまあ強がれるもんだ。悪いがお前はここで死んでもらう。今度の盾神にはわしの息子が決まっておったのだ。それを頭の固い側近どもがお前に決めてしまいおった。わしの息子がお前に劣る訳がなかろう。お前がお役目の重さに耐えかねて逃げ出した事にすれば、息子があのお方の盾の栄誉にあずかれる。都に入る前に、お前をなんとしても始末せねばならん。残念だが盾のお役目を逃げ出したお前の責は、お前の幼い弟妹たちが背負う事になろう。ことの真相を突き止められては面倒だ。災いの目は、早いうちにつみとらねばな」
「外道め・・・」
 青年はギリギリと音が聞こえるほど歯を噛み締めた。体じゅうから憤怒の炎が燃え上がった。
 追っ手たちは恐れのあまりまた一歩下がった。
「何をしている!早く殺せ!」
 先ほどの男が喝を入れた。慌てて矢を構え、一斉に放たれる。
 しかしその瞬間でさえ、青年は誰にも屈せず、諦めもしていなかった。まっすぐに敵を見据える鋭い瞳。
 何本もの矢が、青年へ向かって集約していく。
 その瞬間、王子は身を躍らせ、青年の前に立ちふさがった。
 刹那の後、光の帯が走り全ての矢を打ち落とした。思わずどよめきが走る。
「何者だ!」
「それを問うのは、こちらの方だ。ここが王の庭と知っての狼藉か?誰の許しを得て血で汚すか」
 王子は銀色に光る刀を構えながら凍りつくような冷たい瞳で睨み付ける。
「このまま殺生をせずに去れば追いはせぬ。どうでもこの者を殺すと言うなら、お前たち全員の首を飛ばす。三つ数えるうちに決めるがよい」
 そして王子がまた剣を持つ手を一振りすると、首領格の男の弓の弦が風の刃でブツリと切れた。
 三つ数え終える間もなく、追っ手たちは逃げ去っていった。
「大丈夫か」
 王子は青年の前に膝を着いた。
「へっ、ざまぁねえな・・・。すまねえ。誰だかしらねぇが、借りつくっちまったな」
 青年は体を起こそうとするが、震えてそれさえままならない。王子は彼を横たえさせると叩き落した矢の鏃を検分し、毒を特定した。
「ベラドンナか・・・。目が眩んで見えなかろう。今手当てしてやるからな」
 そう言って王子は肩の傷跡に唇をあてる。青年は驚いて腕を引いた。
「俺は・・・、奴隷の出身だ。お前、触れると穢れるぞ」
「何を言う。吸い出さねば、苦しいばかりだぞ」
 王子はもう一度青年の腕をとって毒を吸出し、薬草を摘んで手当てした。
 時折、王子の髪がさやさやと青年の肌を撫でた。ほのかな香と肌が薫った。
 王子は改めて青年の顔を見た。相手がこちらを見えていないことを知って、少しばかりまじまじと見つめてしまう。
 初めは野性味溢れる印象が強かったが、改めて見ると彫りが深く、驚くほど整った顔立ちをしている。鍛え上げられた体、長い手足、浅黒い肌はまるでなめした皮のように滑らかだ。何より印象的なのは、その目。時折無理にこちらを見ようと開いては、眩しさに耐えかねて閉じるのを繰り返す。闇色の瞳はどこまでも澄んで、強い意志を秘めていた。
「毒も少量のようだし、お前は丈夫そうだからすぐに回復しよう。しばらくは大人しくすることだ」
「・・・あんた、なにもんだ?あんたが出てきた時はもうほとんど目が見えなくなってたけど、音やなんかでわかった。大した剣の使い手だな」
 途切れがちな掠れた声で、青年が問う。
 その低い声が耳に心地よい。こんな乱暴な口調で話しかけられるのも初めてで、王子はくすくすと笑いながら言った。
「それを言うなら、お前もだろう。ほとんど目が見えないのに、矢を素手で打ち落とすとはな」
「・・・あんた、名は?」
 無言で顔を見つめる気配に、青年は少し慌てて言った。
「てめぇの命の恩人の名前も知らないんじゃ、礼のしようもねぇだろ?顔も見られねぇし・・・。でも・・・俺には教えられねぇってんなら、無理に訊きゃしねぇよ」
「私の名は・・・」
 なぜだろう、彼に嘘をつきたくない。しかし本当の名を教えるのは憚られてしばらく逡巡するうち、青年は意識を失っていた。おそらく毒の作用であろう。解毒は施してあったから命に別状はないが、しばらく深い眠りに落ちることになろう。王子は青年を抱えて暖かい木の洞に横たえさせ、水筒と食料とを置くとその場を後にしたのだった。
 次の日、王子は食料や薬を持ってそこを訪れたのだが、青年の姿はもうなかった。
 追っ手たちが口にしていた、「盾」という言葉。それが気になって、一度側近の者に尋ねた。すると、その者は慌てて、そのような事を誰から聞いたのか、と逆に問い返されてしまった。そして、殿下はご存知なくともよい、下々の者たちの事にございます、とお茶を濁されてしまった。
 もう二度と会う事もないだろう。きっとあの出会いも、毒のみせた夢と忘れられたに違いない。ただ、あの夏の日差しを思わせる青年がこの国のどこかで元気に暮らしている事を思って時折心を和ませるばかりだった。
 あの日までは。
 あの不思議な青年との出会いからわずか数週間後。
 謁見の間で、後ろに控える者たちの最後尾に、王子はあの青年の姿を発見したのだ。
 あの日とは違い、お仕着せを着て神妙に控えてはいるが、確かに彼だ。
 あの日から無意識のうちに幾度となく思い返してきた彼だ。見間違えるはずはなかった。
 しかし王子は彼の事を周囲に尋ねる愚はおかさなかった。
 そして謁見の後、側近の者たちが談笑する部屋の隠し扉へ入り込み、耳をそばだてた。
 人のざわめきが近づき、中国(なかつくに)で取れた珍しい紅茶の馥郁とした香りが漂う。
「すると、あの男が新しい王子の盾か」
「ああ。あらゆる面から見て、今までのどんな盾よりも優れた盾だ」
「忠誠心の方はどうだ」
「申し分ない。あの男には親がないそうだが、村には大勢弟妹たちがいる。王子の盾としてお遣えする限り弟妹たちの生活は保障されると伝えてある。あいつら奴隷にとっては、王族の盾などこれ以上ない栄誉だ。その上盾として死ねば、盾神として神籍に入れられ、一族の誉れとなる。やつらにとっても願ってもないことだ」
「しかし殿下には今まで通り絶対に秘密だぞ。あのお優しい殿下に、自分の命を削って守る者がいるなどと知れれば・・・」
「もちろんだ。しかしあの男も、自分が守るのが王子だと知らされた時には驚いていたな」
「お姿を見れば、なおさらだろう」
「ああ、呆けたようになっていた」
 ひとしきり笑いあう。
「こと殿下に関しては、盾の忠誠は絶対だな。どんなものも、喜んで命を差し出す」
 側近の者たちがその場を後にしても、王子はそこから動く事ができなかった。
 盾。命を削って守る者。
 そういえば、と王子は思い出す。生まれてからずっと、長く臥せった記憶がなかった。熱を出しても、ほんの半日ほどで恢復してしまう。小さな怪我さえ、した事がない。そしてその代わりのように、従者のひとりが床に伏せる。それがなぜなのか。龍の血をひくという理由がまことしやかに伝えられはしたが、王族が揃って異常なまでに長命で、老いを見せないのはなぜなのか。
 そして、長く従者として遣えてくれた者が、時折何の前触れもなくいなくなること。彼の事を問うても、誰もが曖昧な答えしかしなかった。そして、なぜかその者は自分の側へ寄ったり、口をきくことさえ一度もなかった。まるで、卑しい出の者のように。
 あの青年が、自分の盾。
 自分の為に、命を削る者。
 彼の命を救ったつもりだった自分が、彼の命を奪うのだ。

 青年は、与えられた屋根裏の自室から夜空を見上げていた。
 今日から、盾としての生活が始まった。自分が守るのが、あの王子だと聞いた時には驚いた。外国(とつくに)にまで聞こえるほどの有名な剣の心の君を、自分が守ることになろうとは。そしてお姿を見て、自分が耳にしていた話は、彼の美しさをほんの一部しか表していない事を知った。彼が今までに目にしてきたどれほどの美でさえ、彼の足元にも及ばなかった。青年の視界はその瞬間、彼でいっぱいになった。
 そしてどこか、あの日自分を助けてくれた人に似ている、と。
 あの時は毒がまわっていて記憶がおぼろで、姿といえば流れるような緋色だけ。そして空恐ろしいまでの剣腕。奴隷の自分にためらいもなく触れてきた、柔らかい唇の感触。時折腕に触れた、髪。香と肌の薫り。優しく甘い声。
 あのひとだろうか。でも、まさか。
 でも彼にはなぜか、確信があった。
 彼が、あのひとだ。
 そう思えば、この宿命も辛くはない。あの時死ぬはずだったのを、彼に助けられた命だ。
 あのひとを守って死ねるなら。
 青年は信心深くはなかったが、この時ばかりは彼の盾になれた事を、天上おわす神々に感謝した。




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